ヴェイルの守護者
八章其の参
「お待たせいたしました」
オフィルが訪れたとき、ナスタシア三世の我慢は限界に来ていたようである。
顔色はすでに赤黒く、怒りのあまり全身がふるふると震えていた。
血圧があがるから少しは落ちつきなさい、と忠告したい気分に駆られたが、そんなことを言えば彼のことだからますます頭に血を上らせるに違いない。目の前で倒れられては余計な仕事が増えるだけだから、オフィルは口を出すのは控えた。
別にこの男の脳の血管が切れたところで、オフィルは痛くもなんともない。
彼がいなくなったところで困ることもない。
しかし、そういう事態がこの場で起きてしまったら、その収拾をつけるのは自分なのだ──そんなのは御免だと、内心で軽く肩をすくめる。
「おっ、お前、お前はっ!! 一体今までなにをしておったのだっ!!」
ナスタシア三世は口から泡を飛ばさんばかりの勢いでわめいた。
椅子から立ち上がって飛びあがらんかの威勢の良さだが、彼の腰はしっかり落ちついている。
まったく…………。
オフィルは軽く両眉をあげた。
ナスタシア三世は国王。ヴェイルの全国民を統治する者。ゆえにすべての民はそのもとに膝をかがめる──例外をのぞき。
許された権限としてそれを持つ者は、いまのところたった一人だ。
ヴェイル存続の鍵とも言うべき宮、「青」。その最高責任者たる術師長……それがそのたった一人だ。
望んでその座を得たわけではないが、オフィルは今その座に座している。しかし、いまだかつてこの国王が自分を自らと対等の立場として扱ったところをみたことがない。
とはいえ、ナスタシア三世がはるかに年長であるとか、内容はともかく様々な経験を積んでいるとか、やり方はさておきとりあえず今までは無事に国を治めてきたなどという功績に基づき、彼の自分に対する態度に対して改善を求めて抗議する気はない。
だが……やはり、時折脳裏をかすめる思いにため息をつきたくなる。
その思いとは、これすなわち。
──この男……バカではないのか?
というものであった。
自分の倍をはるかに超えて生きている相手に向かって失礼であろうか?
自問の答えは、「否」である。
確信を持ってそう結論付けられるだけの根拠を、これまでこの男は幾つも提示してきた。
……それでも、見ぬふりを続けていたのに。
「小用がございまして、遅くなってしまいました」
内心の思いをにっこり笑顔で完璧に隠しきり、オフィルは答えでない言葉で返す。
突き刺すようなナスタシア三世の眼光にも、彼の笑顔が揺らぐことはない。それが生意気だと国王陛下は気に入らないらしいが、この程度で怯むようでは術師長など務まらないのだ。
周り中敵だらけ、といった状況で前術師長からその座を引き継いだとき以来、この笑顔がオフィルの最大の武器であり防具だった。
「余程大事な用だったのだろうな」
ねっとりとまとわりつくような言い方に、顔をしかめた。……想像の中で。表面上はあくまでにっこり、である。
どんなときでも笑いつづけることは、それほど苦ではない。
その術さえ覚えてしまえば簡単なことだ、本心を偽ることなど。
「少々道案内など」
オフィルの答えに、ナスタシア三世のこめかみがひくりと動いた。その口が開かれるより先に、青年は続ける。
「ところで、ディナティア殿下は風邪でもお召しになりましたか?」
一瞬、ナスタシア三世は奇妙な顔で動きを止めた。
何を言い出すのかと、そう雄弁に物語る表情で。
オフィルは斜めに首を傾ける。
「先程お会いしたとき、武器庫はどこかとお尋ねになりましてご案内さしあげたのですが……よく考えれば殿下が武器庫の場所をご存知ないわけはありませんし、それにご様子がなんとなく、ぼぅっとされていた感じでしたので、熱でもおありかと思いまして」
がたん。
オフィルの言葉が終わらぬうちにナスタシア三世は立ち上がった。
「…………なんだと?」
問いなおした王に、オフィルはゆっくりはっきり告げる。
「ディナティア様とお話していたと申し上げました」
一瞬言葉を失うナスタシア三世。眉間を押さえている。混乱しているのだろう。
ややしてから、
「よい」
追い払うような仕草で手を振られて、オフィルは首をかしげた。
「もうよい。下がれ」
ずいぶん勝手なものである。しかしオフィルは笑顔でわかりました、と答えた。
この物分りのよさに、少しは疑いを抱いてみてもよいと思うのだが、ナスタシア三世はまるで気にしていないようだ。
用は済んだ、と態度で告げられ退出しようとして、扉の前でふと振り返った。
「……最近、魔性の動きが妙なのを、ご存知ですか?」
ナスタシア三世は少し唇を歪め、笑う。……そう、見えた。彼は笑ってはいなかったが──少なくとも、今は。
「それはお前たちの管轄であろう?」
オフィルは微笑んだ。それ以上は何も言わず、静かに部屋を出る。
「ええ、そうですとも」
若き術師長が落としたつぶやきは、だから誰も知らない。
ディナティアが見つかったのは、実にそれから十分後のことであった。
どこで何をしていたのか、と怒鳴る父親に向け、少女はけろりとして答えた。
「覚えていません」
本来それで通用するはずもなかったが、実際彼女は見出されてからも理解に苦しむ行動を多くとっていたことから、不問に処された。
理解に苦しむ行動とは、例えば自分の部屋に帰れない。見知った人間の名前を間違える。女官たちが部屋に入ることを徹底して嫌がる。などなど。
細かい点を上げればキリがないが、恐らくどこかで頭でも打ったのだろう、という無責任な推測で落ちついた。彼女がいなくなっていたことを知る人間は少なく、噂になる前に本人が無事で姿を現わしたので、そのうちこの事実すらも人々の記憶の底に埋もれていくだろう。
さて、その問題の王女様であるが。
道案内してもらったことが嬉しかったのだろうか、なにやら連日「青」を訪れては術師長のもとに入り浸り、父親に渋面を強いている。
「調子はいかがです?」
問いかけに、ふぅ、とため息をついた。
「…………疲れた」
子供のような口調で答える。
オフィルはその頭にそっと手を置いた。少女はそれを見上げてにっこり笑う。
「あなたはがんばっていますよ」
くしゃり。
髪を撫でられ、目を細めた。
……知らない反応だな。
手の内にいる少女を笑顔で見つめつつ、オフィルは不思議な気分になる。
自分の知るディナティアはこんな表情はしなかった。
手を離れてきている、ということか。
思惑通りに事が進んでいる証拠だ。このままなら、きっと誰も不思議になど思わない。
目の前にいるのはまぎれもなくヴェイルの王女、ディナティアだ。
偽者……いや、似せものだなんて、誰が思うだろう?
変わったところを見つけられるとすれば、きっとタリアぐらいのものだろう。
だが、彼女はいない。だから──誰も、わかりはしないのだ。
父親も見抜けなかった。あるいはと、思ったのだけれど──期待、したのだけれど。
だから、わからない。
たとえ本当のディナティアが、二度と帰らぬとしても。
願い、望んで、だからこの少女が目の前にいる。
けれど自分の内にあるかすかな後悔の念。
自覚せぬほどに自分を知らないオフィルではなかった。けれど、だからこそ不思議に思う。
なぜ……?
その理由は、思い当たらなかった。