ヴェイルの守護者
八章其の壱
さて、少し時をさかのぼり、ディナティアが部屋を抜け出した翌日午後、城にて。
「……あの馬鹿娘がっ!」
苦々しげにそううなり、ナスタシア三世はどんと机をたたいた。
ディナティア姫行く方知れず。
今しがたもたらされたばかりの報である。
昨日の朝のことがあるだけに、あり得ることだ……否。
あり得るのではなく、そうなのだろう。
「何を考えておるのだ……!」
声に宿る怒りは真実のもの。
押し殺されたその怒りに、居あわせる家臣たちの背中には冷や汗がたらりと流れる。
人間一人の……小娘一人の力で、何がどう動くというのか。
何を求めて自分を困らせるというのだろう、あの娘は。
──何も知らぬくせに……!
愚かとしか思えぬ言動。
友を救いたい……?
それよりも前に、すべきことがあるであろうに!
「行方はまるでつかめぬと申すのか……「青」は何をしておるのだ!」
苛立たしげな王の言葉に、初老の男が恐縮して答えた。
「ただいま全力をあげ、捜索しておりますが……なにぶん、水晶の曇りが晴れぬことには……」
ぼそぼそぼそ。
恐縮のあまりなのか、それともそれが本来のしゃべり方であるのか、男の口はすこぶる重い。
「お前では埒があかぬわ!」
苛々とナスタシア三世はその言葉をさえぎる。
「術師長を呼べ。……今すぐにだ」
低く、命じた。
「即刻顔を出すよう、あの若僧に伝えろ……!」
魔性が跋扈(ばっこ)する世界において、ともすればその存在は国家の存亡までを左右する。
ゆえに、それに対抗できる術師の存在は、非常に貴重であった。
各国は彼らを厚く遇し、できるだけ強力な「宮」を持とうとする。「宮」とは、政治の介入を受けない神聖な組織、術師長により束ねられる術師だけの組織である。政治の介入を受けない、ということはつまり、彼らは国王の支配下にいないことになる。術師長は国王と同等の立場であり、そのもとに仕える術師たちに命令を与えることができるのもまた、彼のみであった。
国によっては複数の「宮」を擁するところもあるが、現在ヴェイルに存在する「宮」は一つのみである。若干二十歳の青年率いる「宮」、その名を「青」という。
城の一角にありながら完全に治外法権である「青」の宮。その、一室。
来たか。
扉の向こうから知らされた国王からの呼び出しを聞いた術師長は、くすりと笑みをもらした。……苦い、笑みを。
案外、時間がかかったものだな。
当人が城を抜け出したのは昨夜のこと。
すでに正午を回っているから、かれこれ八刻も経過している。
ゆるりと立ち上がった。
黒衣がかすかに衣擦れの音をたてる。
王女失踪。
国家の一大事と言うべき事態に、けれどその動作はひどく緩慢としていた。
机の引出しを開け、取り出したのは木彫りの人形。少女の姿を象った。
そろそろか。
内心で一人ごち、彼はそれを片手に部屋を出る──。
「おや、オフィル様。かわいらしいものをお持ちですね」
黒衣の青年が手にした人形に目を留め、イヴライはそう声をかけた。
すれちがいざまの軽い会釈のみで行き過ぎようとしていた青年が足を止める。
「誰かへの贈り物ですか?」
冷やかすような響きの宿る問いかけに、オフィルは困ったような微笑みを浮かべた。
「……秘密ですよ?」
暗に肯定している。……イヴライはそう解釈する。
もちろんですとも、とうなずき、次いで首をかしげた。
「……ところで、陛下からお呼びがかかっていたのでは……?」
先程使いの者が宮の入り口に立っていたのを見かけた。今日の騒ぎは誰もが知るところなので、納得しこそすれ驚きはしなかった。
しかし、オフィルが向かおうとしているのは玄関ではなく、むしろその反対、奥庭の方である。
「ええ、行きますよ?」
あっさりとオフィルはうなずいた。けれど体の方向は変わらない。
「まず片付けねばならない用事が済んだら伺います。お呼びとあらば多少遅れたところで構いませんでしょう」
こちらから会おうとすると大変ですけれどねぇ。
にっこり笑顔でそんなことを言う。なかなか怖い。
術師は国王の支配を受けない。……ということになってはいるが、実際はそうもいかない。
彼らが有るのは国があってこそのものであり、そしてその統治者の意向を無視しては存続はあり得ない。であるからして、現行の宮において、自分たちが治外法権の住人であることを行使しようというものはいない。……一人を除いては。
その一人というのが……若き術師長であるこの青年であった。
つられて笑っていいものかどうか悩むイヴライに、オフィルはそうだ、と手を打った。
「あなたが前触れをしてください。そうですね……一刻ほどでお伺いしますと」
なんでもないことののようにそんな " おつかい " を命じる上司に、イヴライの顔から色が失われる。
そんな恐ろしいこと。
考えただけで寿命が三年は縮んだ思いだった。
「お願いできますか?」
にーっこり。
清らかな天使の如き笑みを前に、イヴライは数瞬悩む。
国王の罵声を直に浴びるのと、この上司の不興をかうことと──果たしてどちらがましであろうか、と。
滅多に働かさない脳をフル回転させて彼が出した結論は。
「…………お引き受けいたしましょう」
というものであった。
国王の罵声は……その時点ではこの身に向けられるとしても、その怒りは結局別の場所に行きつく。その源へ。だが。
上司の機嫌を損ねれば、それは確実に自らに跳ね返ってくるのだ。
とはいえ。
「ありがとうございます」
そう言って奥庭へ歩き出すオフィルの背中を、ちょっぴり恨めしげに見送ってしまうイヴライであった。