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ヴェイルの守護者

七章

──なに?

何が起きたのか分からず、ディナティアは一瞬呆けた。

ほんの眼と鼻の先まで迫っていたはずの真紅の帯を一瞬にして消し去ったまばゆい光。

弾き飛ばしたわけではなく、本当に霧散させてしまった。

白い光が自分を包んでいた。さきほどリファスの翼に包まれたときと同じ感覚──否、その時よりもっと強烈にもたらされる、絶対的な安心感。

いったいなにが起こったというのだろう?

「まさか……守護の剣?」

驚愕の響きを宿したリファスの声。

守護の剣?

ディナティアは首をかしげる。なんだろう、それは。

「馬鹿な──こんな小娘にそんな力など、あるはずは……!」

信じられない、否、信じたくないと言わんばかりに女が叫ぶ。

もう一度ふるわれる、女の剣。

しかしそれもまた、同じ結果に終わる。

ディナティアを包む白い光は、彼女を害する力から彼女をしっかりと守っていた。

絶体絶命と思われた窮地は、けれど彼女の髪一房を損なうことすらもかなわなかったのである。

安心するより先に戸惑いがあった。

魔性も驚いたであろうが、守られた本人のそれのほうが数段上であった。

「いったい、なにが……?」

呆然としてつぶやくディナティアの傍らに、リファスが走り寄ってくる──いや、こようとした。だが。

「なっ……」

あろうことか、光は少年の侵入すらも拒んだのである。

「ちょっ……。あんたねぇ、なんで俺まで拒否するわけよ?」

呆れ声で訴える少年に、けれどディナティアとしては困惑するしかない。

そんなことを言われても、自分の意志でやっているわけではないのだからして。

「そういうわけでは……」

おろおろしても光は以前彼女を包んだまま。

一体どうしたのいうのか、自分は。

この光は、力は──いったいなんなのだ?

「剣! あんたの腰のその剣だってば、お姫様!」

彼女に近づけないことに焦れたようにリファスが苛立たしげな声を上げた。

剣──?

ディナティアは腰に眼をやった。

佩いているのは、術師オフィルから預かりうけた剣だ。

これが……?

これが、この光の源だというのか?

恐る恐る触れてみる……別に熱いということもない。

その様子に、少年は地団太を踏みそうな勢いで怒鳴った。

「なにふざけてるんだよ! 遊んでる場合じゃないだろっ?」

…………ふざけた覚えも遊んだ覚えもないのだが。

「賢しい真似を……。ならばお前を倒すまでのこと!」

完全に頭に血が上ったらしい女が、リファスに向け帯を繰り出した。

ディナティアを傷つけることかなわぬと悟り、的を絞ったらしい。

「そんな馬鹿の一つ覚えに当たるかってんだよっ」

余裕の台詞の通り、軽々と身を翻すリファス。

ディナティアはといえば、ただ自分の腰を見下ろすのみだ。

この剣が?

そう言われても全然実感がないのだが。

一体なにがどうしてこんなことになっているのだろう?

わかっているのは、どうやら自分が命拾いをしたらしいということだけだ。

「うっとうしいなぁ、もうっ! さっさといなくなっちゃえよ!」

やけになったようにそう叫び、リファスは両の手を組んで体の前にまっすぐに突き出した。

その先にいるのは、魔性の女。

「お前なんかクズだって言ってるだろう、ザイシ──!」

刹那。

驚愕の表情で女──ザイシは凍りついた。そう、文字通り。

その眉間を、リファスの組んだ拳から伸びた光の筋が打ち抜く。

空間に焼きつけられる一瞬の残像。

そうして。

瞬きする間に彼女の姿は砕け散ったのである──。


一瞬の閃光。

それが戦いの終止符。

「ったく、手こずらせやがってっ」

忌々しげな口調でそう吐いたリファスのそばで、ディナティアを包んでいた光が急速に薄れる。

「あ……?」

急激な変化に驚くディナティアの前で、白い光は現れたと同じほどの唐突さで消えた。

「……なんだったんだ、いったい……」

つぶやく彼女の耳に、盛大なため息が届いたのはその瞬間のこと。

「つっっっかれるなもうっ!」

力いっぱいそう言われてしまって、ディナティアはまたもやしゅんとしてしまう。

よくよく考えれば、別に彼に迷惑を……かけなかったとはとても言えないが。

自分のやったことを思い出し、いまさらながらに青ざめる。

終わりよければすべてよし……そんな言葉があるが、けれど、一つ間違っていたらと思うと、とてもではないがそんなこと言っていられない。

もう少しで自分は彼を殺すところだったのだ。

ちゃんと言われていたのに。

魔性の前で名前を呼んではいけないと……彼はちゃんと前もって教えてくれていたのに。

「ごめん……ごめん、リファス──いや」

リファスではない。

自分は彼の本当の名前を知らないのだ。

自分が彼を信じられなかったと同様、彼もまた自分を信じていなかった。

それがショックでなかったと言えば嘘になる。だがその選択は結果的に正しかったのだ。

彼がもし自分に本当の名前を教えていたら……?

先ほど消えた魔性の姿。

あれが彼だったかもしれないのだから。

「──オルフェ」

長い沈黙の後、少年がぼそりと言葉を落とした。

「え……?」

一瞬反応の遅れたディナティアに、彼はしかめ面でもう一度繰り返す。

「オルフェ。俺の名前はオルフェだ」

彼の言葉を頭の中で反芻し、ディナティアはゆっくりと瞬く。

オルフェ……。

「……それも……」

嘘の名前か──?

途切れた問いを、けれど彼は悟ったらしい。わずかに眉を上げた。

「本当の名前だよ。今度は嘘じゃない」

ほんの少し口調が和らいだと思うのは……気のせいなのだろうか?

「なぜ、教えてくれる? ……わたしは、また間違うかもしれない」

また、お前を危険にさらすかもしれないのに──。

困惑の表情でそう尋ねるディナティアに、少年……オルフェは薄い微笑を浮かべた。

「だって逃げなかった」

え?

眼を丸くするディナティア。

その前で、オルフェは初めて見る優しい顔で、先を続けた。

「あなたは逃げなかっただろう? あんな状況でも、ちゃんと戦った。だから」

「でも、それは逃げられなかったからで……」

捕らわれていたから。

もし体が自由だったのなら、逃げていたかもしれない。

恐怖に任せ、背を向けていたかもしれないのだ。

けれどオルフェは首を横に振るのだ。

「違うよ。だってあなたは逃げられたんだ。あいつは僕に目をつけていたんだから。……でもあなたは僕を助けようとしてくれた。自分を守る術も知らなかったのに。……だから大丈夫だと……信じられると思ったんだ」

……信、じられる……?

「名前を呼んでもいいよ。……だけど、覚えておいて。もし僕が魔性に名前を " 取られた " ら、その時は、あなたが僕を呼び戻して」

ディナティアは首をかしげた。

「呼び戻す?」

「そう。僕の名前を呼んで欲しいんだ。力をこめて。心から呼んで欲しいんだ。そうすれば魔性の呪縛から逃れられる。──できると思うから、名前を教えたんだよ」

心配そうな表情をする彼女に、安心させるように微笑むオルフェ。

こんな表情も初めてだな、とディナティアは思う。

なんだか今日の彼は、くるくると表情が変わって、どれが本当なんだかわからない。

「……肝に、銘じておく」

生真面目な顔でうなずいた少女に、オルフェはくすくすと笑った。

「そうしておいて」

そうして振り向き、呆れたようにつぶやく。

「さすがというべきか……逃げ足の早い奴らだ」

その言葉にディナティアは野盗たちの存在を思い出す。

そういえば、いつのまにいなくなったのだろう……?

「ザイシが消えたときにね。見事なものだったよ」

感心しているのか皮肉っているのか、恐らく後者なのだろうが、よくわからない口調でオルフェが言った。よく見ていたものだとディナティアは感心する。

あの魔性の女をクズと言ったのは、はったりではなかったということか。

それにしても、気になることが一つ。

「どうしてオルフェはあの魔性の名前がわかったのだ?」

ごくごく素朴な疑問だった。

が、それを聞いた少年は、いつぞや見せたような信じられない、といった顔をしてみせる。

ほんのいままで浮かんでいた穏やかな表情は跡形もなく消えうせ、残るは最初の印象そのままの意地悪小僧だった。

「……ねぇ? その齢までほんとに誰も教えてくれなかったの?」

訳せば、常識じゃんこんなの、である。

「ああ」

本当なのでディナティアは正直にうなずく。

どんな教育受けてんだか。

心底呆れた口調でそうつぶやき、オルフェは非常に恩着せがましい口調で説明した。

曰く、名前というものの持つ力は、その生物の本質を担うものである。後天的に付与される名がなぜそれを担えるかというと、それは言霊(ことだま)の力による。言霊とは、言葉に宿るとされる不思議な力で、たとえ偽りを口にしたとしてもそれを真実に変えてしまう──簡単にものすごくはしょって説明すればそういうことだと、説明するだけ無駄という感じでオルフェは言った──ものだ。つまり、生まれたばかりの名もなき存在に後天的に付与される名前は、それを名として語った時点で言霊により存在を縛り、存在の定義となる。

存在の定義となる名前。それはつまり、存在を構成する原子の名前でもある。故に名を呼び枷をかけることにより、存在を縛ることができる。そしてまた、構成する原子を探れば、その名を知ることができるというのだ。もちろん、誰にでもできるものではない。さらに、いわば命綱であるのだから当人にしても力の限り、相手に悟られないよう隠しこむ。持てる力、技術を駆使して。

それでも、やはり力が上であれば、相手の名を奪ることは可能なのだと。

そう言ったオルフェの表情には、ゆるぎない自信があふれており、その見かけに反してそちらの方面では相当の実力者なのではないかと思われた。

「だが、それなら、なぜ "リファス" を奪われて動けなくなったんだ? 本当の名ではないのだから、知られても大丈夫なはずだろう?」

「なんでだか、あなたの呼びかけはものすごく力があるみたいだから。しかもあの時、かなりの力で呼んだろう? ……ああ、と言っても、物理的な力じゃないんだけどね。まぁ、そのおかげで仮の名前にもかなり縛られちゃってたから、思い切り引っ張られたってわけ」

力がある、などと言われてもよく分からない。確かにあの時は、彼に危険が迫っていたから切羽詰った声を上げはしたけれど……どうやら、そういう意味でも、ないらしい。物理的でないというからには声の大小や強弱は関係ないのだろう。だが、それではやはり、自分に力があるなどとますます信じられないのだが。

「仮に、わたしの呼びかけに力があるとして……ならば、普段からあまり名を呼ばないほうがよいのではないか? その、縛る力とやらが、強くなってしまうのだろう?」

自分の呼びかけのせいでなにか影響があるのではないかと、ディナティアは懸念した。だが、オルフェはひらりと腕を振って否定した。

「仮初めの名ならともかく、真実の名だから、いまさら強まろうが別に関係ないよ。でもまぁ、あの強さなら、たとえ奪られても、取り返せるかなってね」

だから、もし次に名を奪われたなら、力をこめて呼び戻して欲しい、ということらしい。

「まぁ、感覚的な問題だから……とりあえず、普段は気にすることないって」

気にするなと言われても。

オルフェの言葉のほとんどが理解できていない上に、自分の言動がなにかまずい事態を引き起こすことになるかもしれないのだから、気にならないはずもない。

しかも、感覚的……。

ますますもってディナティアには遠い世界である。

オルフェやオフィルのような人種ならば、身をもって体験するので理解しやすいのかもしれないが……およそ縁のないディナティアにとってはさっぱりである。

ごちゃごちゃになってしまった頭の中身を整理しようとするディナティアに、オルフェは、つまり簡単に言えば、と声をかける。

「心配しなくても強いものが勝つ、つまり僕が勝つ。そういうことだよ」

不敵な物言いにディナティアは渋面を忘れて笑みをもらした。

それならば分かる。

理論なんかは知らない。だが、魔性を相手に軽口を叩く余裕を持つほどの存在がそばにいる──それは間違いなく心強い味方を得たということ。

タリアを救える、その希望が夢でないということ。

あたたかなものが心に湧くのを、ディナティアは感じた。

その彼女へ、オルフェは告げる。

「じゃあ行こうか──ディナティア?」

だいぶ時間を無駄にしちゃったね、と、なにげなくそう続けた彼に、彼女は驚きの視線を向ける。

次いで浮かぶ、微笑み。

呼ばれた名前が、彼が自分を認めてくれた証であるような気がして、嬉しかった。

お姫様、という称号を卒業できたことが、嬉しかったのだ……。