ヴェイルの守護者
二十二章
「あった……これだ」
それは、もうずいぶんと長い間資料室の飾りの一つとなっていた書物の片隅に、ひっそりと記されていた。まるで見つけられることを恐れるかのように。
「白銀の髪、紅き瞳──燐光を纏いしその体……間違いない」
一度、ちらりと見ただけの風貌。それをオフィルは可能な限り記憶していた。職業柄、というよりむしろ本人の性質なのだろうが、彼には人を観察する癖がある。その人の外見的特徴に始まり嗜好や思考の傾向なども含め、彼の中には膨大な量の情報が蓄積されている。会ったことが一度しかなくても、彼の中の情報は消えることがない。ディナティアの影武者たる娘は、彼の持つディナティアの情報を移植してできた成果だ。
彼のその癖は、先日夜の森で出会った一人の人物に対しても例外なく発揮された。怪しんだ分、記憶した点も多い。相手は姿を隠していたわけではかった。多少距離があり、暗闇で視界が悪かったとはいっても鋭い感覚を持った上に夜目の利くオフィルである。観察に支障はなかった。
そして得た情報、それは。淡い銀の髪に深い紅の瞳、仄かに光を纏う長身。人ではない、と感じた。距離を置いて、それでも感じた圧倒的な力の片鱗。近づくのは危険だと本能が告げたから、追う事はしなかった。けれど、気になる。
記憶を失っていたディナティアのもとに現れた、彼。思い出してほしかったと、そう告げた。魔性と関わりを持ったことがない、と旅立つ前にディナティアは言っていたのに、それでは彼は……アレは、なんなのか。なぜ、彼女に興味を示す?
気になって、だから調べた。何冊もの書物をあたり、ようやく辿りついた、答え。
「……その名は、リファス……」
戦慄が、オフィルの背を駆け抜ける。顔から血の気が引くのが、自分でわかった。
それでは、彼は。彼が彼女を気にしていたのは──。
脇にずいぶんと古ぼけた書物を抱えて歩く術師長と擦れ違ったイヴライは、ふと首を捻った。こんなに硬い顔をした術師長は珍しい。いや、珍しい以前に見たことがない。まして挨拶も返さないとは。ありえない、と思ったがそのありえない事態が起こっていた。
どこか遠くを見ているような感じだったな、とその背を振り返る。先日あたりから何度か耳にした噂が、ちらりと脳裏をかすめた。
オフィル様とディナティア様が……いやまさか……。
二人が一緒にいるところは、イヴライも何度も目にしている。男女の仲というよりは、親子といったほうがしっくりくる雰囲気だった二人。であるからして、まさか恋患いでぼうっとしている、というわけではないだろうが……やはり、気になる。
「オフィル様、どうかなさいましたか?」
かけられた声にはっとしたように肩が揺れた。金の髪の青年が振り返る。
「あなたでしたか……」
ほっとしたような口調に、小さなひっかかりを覚える。いったい誰だと思ったのだろう。……ディナティア姫か?
イヴライのひっかかりなどよそに、オフィルは明るい顔になって、そうだ、と手を打った。嫌な予感がする。引き気味に構えた彼に、上司たる青年はいつもの笑顔でさらりと告げた。
「わたしはしばらく休暇を取ります」
……は?
「わたしがいない間のことはあなたにお任せします。適当に取り計らってください。ではよろしくお願いしますね」
目が点になった。
先ほどとは打って変わって晴れやかな表情になり、では、と身を翻すのを、ちょっと待ていや待ってください、と引き止める。
休暇? そうだそういえば術師長は休暇を取ったことがない。たまには体を休めることも必要だろう。だがなにもこんなに急に取らなくても。しかも留守を任せるだなんてそんな簡単に言ってしまっていいのだろうか。信頼されている認められていると思えば嬉しくないこともないが、先ほどの様子を見るに恐らく彼は、宮の人間ならば誰でもよかったのではないか。偶然たまたま自分が目の前にいたから、自分に頼んだだけなのではないか。それにそもそも。
「陛下に打診されなくてよいのですかっ?」
イヴライのなにか切迫した叫びにも動じず、オフィルは大丈夫ですよと笑った。
「きっと諸手を上げてお喜びになるはずです。そうそう、その連絡もお願いしますね」
そんな馬鹿な。あまりのことに呆気に取られるイヴライを置いて、彼は今度こそ本当に行ってしまった。そして。
「そんな馬鹿な」
青年の予告した通り、王はあっさりと、いやむしろ願ったりという様子で術師長の休暇を認めた。それは、術師長不在中の代行としてイヴライを認めるということでもあった。まさに振って湧いた膨大な量の仕事を前に、イヴライは途方に暮れつつつぶやくのであった。