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ヴェイルの守護者

二十三章

──姫様……。


また、だ。

また、声が聞こえる。

ぶっすりとした顔で、ヨーラはこりこりと頭を掻いた。自分のものなのに、自分のものでない頭。──身体。

「うるさい。お前、消えろ」

この体はもはや自分のものだ。顔も、手も、足も、全部。思い通りに動くし、見て聞いて触ることができる。それを実感している。なのに。

──姫様……。

この、声。どこから聞こえてくるのかわからない、この声だけが思い通りにならない。消したくても消せないのだ。この体を用意したシシンによれば、前の持ち主の意識が残っているのだろう、ということだった。どうせ用意するならどうしてまっさらに戻しておいてくれなかったのだ、とヨーラはぶすくれる。

「……それに見た目だってよくない」

す、と手を伸ばし、目の前の空間に自分の姿を映し出した。しげしげと眺めてはため息をつく。……やっぱり、よくない。

くすくすと笑う声がして、振り返ると漆黒の髪と白い肌の男が肩を震わせて笑っていた。

「シシン!」

自分で用意しておいて何を笑っているのか。大層不機嫌な顔でねめつけるヨーラに、けれどシシンの笑いはなかなかおさまらない。

「まったく、ヨーラは面食いだなぁ?」

くすくす、くすくす。笑いながらシシンはそう言って、ヨーラの頭をくしゃりと撫でた。

「自分はそんな器を手に入れておいてよく言う」

ますます仏頂面になるヨーラである。おやおや、とシシンは肩をすくめた。

「これは別にわたしの好みではないよ? どうしてもこの形を留めておきたいからどうか力を貸してくれと、そう泣きつかれたのでね。わたしとしても楽に器が手に入るならまあいいかと、手を打っただけさ。馬鹿な男だよ……自分で愛でられないのであれば、残しておいても仕方あるまいに」

器となれば自分は命を失うことになるのだと、そう教えなかったのはお前だろうに、とヨーラは内心で思う。もっとも、だからといってその男が馬鹿であることを否定する気はないのだが。

「心配しなくとも、わたしには美しく見えているよ。昔と変わらず、お前は綺麗だ」

そんな馬鹿な、と最初は思ったが、シシンはどうやら本気でそう思っているらしい。見た目ではないのだ、と諭された。この器は大層に美しい眼をしていたのだよ、とそれはそれはうっとりとした顔で言われては、もう何も言う気がしなかった。……いや、一つだけ。

「お前が美しいと言っているのはこの器の前の持ち主が持っていた、眼、だろう? ならばそれはわたしではない」

けれども。一瞬呆気に取られたような顔をしたシシンは、次の瞬間大きな声で笑い出したのだ。それはそれはおかしそうに。

「なにがおかしい!」

怒鳴りつけても彼の笑いの発作をおさめることはできないようで、しばらく笑いつづけてようやく、彼は落ち着きを取り戻したのだった。

「あれはあれ、お前はお前だ、ヨーラ。ヨーラがヨーラである限りわたしはお前を美しいと思うさ」

ヨーラの眉間に皺が寄る。何を言っているのだ、という顔で彼女はシシンを睨み上げた。そして、言う。

「やっぱりお前は変だ」

シシンはただ、面白そうに笑っていた。


少し出てくる、と言い置いてシシンが再び出かけていったのはそれから少し後のこと。いったいなにをしているのだか、とヨーラは仏頂面でそれを見送った。せっかく体を得たというのに、彼ときたら出かけてばかりだ。おかげで自分は退屈なことこの上ない。

そう思い、そしてふと閃いた。

「……そうか。なぜ今まで気がつかなかったんだ」

シシンが出かけてしまって退屈なのであれば。

「わたしも出かければいいんだ」

そうだ、そう。実に単純なことではないか。知らず、くくっと声がこぼれた。どうやら自分は笑っているらしい。

こんなところに閉じこもっているからいけない。そんなことだから、聞きたくもない声に悩む羽目になるのだ。せっかく体を得たのだ。どこへなりと自由に行けばいいではないか。

うきうきと気分を弾ませ、ヨーラは宙に指を滑らせた。さて、どこに行こうか。鼻歌でも歌いそうな勢いで空中に描き出したのは丸い球形ののぞき鏡。それは外界の今このときの姿を映しだしてヨーラに伝えてくる。ひらりと手を動かせば、彼女の望むままに映し出す場所を変えた。ヨーラの力の届く限り、この鏡はどんな場所でも映し出す。

まずは南へ。鬱蒼と茂る林、脈々と続く山々……だめだ、こんなのは面白くない。もっと自分を楽しませてくれる場所でなければ。もっと……そう、人がいるところ。自分を楽しませる者たちの集うところ。

ひらり、手をふれば鏡には街の賑わう様子が映し出される。市で買い物をする女性、迷子になって泣いている子供、川原で水浴びをする男。さまざまな光景が次々と目まぐるしく映し出される、その中に。

心の琴線を震わせるものを見つけて、ヨーラは手を止めた。

少女、だった。ふんわりとした栗色の髪、少しきつめの顔だちにわずかなあどけなさを残した、人間の娘。どうやら何者かの守護を受けているらしく、時折鏡の表に波紋のような揺らめきが生じる。目を眇(すが)めて、ヨーラはその場所を特定した。……人間の、城だ。

──姫様!!

悲鳴のような、狂おしいほどの思慕の情に震える声が響いた。自分の内側で。その声にヨーラは戦慄する。

こいつか。このうっとうしい気配が、もはや自分のものではないと知っていて、それでもここに、この身体に宿りつづける、その理由は……!

「そうか……こいつか。お前がずっと執着していたのは」

憤りが心を支配したのはほんのわずか──くくくっ、と喉が鳴った。笑みをたたえ、ヨーラは両の手のひらで鏡に触れる。触れた先からずぶりと空間にのみこまれた。

「ならばこやつを消すだけのこと」

声なき悲鳴が全身を震わせる。ええい、忌々しい。だが、それももう少しの辛抱だ。そう思えば耐えられないほどではない。むしろ絶望に打ちのめされて消滅するさまを生々しく感じることができるのかと思うと、うきうきする。

見つけた、見つけたぞ。これでようやく自由になれる。

くくくくっ、ずぶり、くくくくっ、ずぶり。やがて主のいない部屋に、笑い声だけが残った。