ヴェイルの守護者
二十一章
待っていた。
彼女が呼んでくれるのを、彼はただ待っていた。
「あいつはいったい、何者だ?」
ぽきぽきと指を鳴らすオルフェにそう聞いたら、彼は少し呆気に取られたような顔をした。
「なにもの、って。魔物でしょ? 人間の分け方で言うなら、悪魔族ってとこ?」
「でも、この間の奴より強いんじゃないか?」
この間のってザイシ? とオルフェが聞き返す。頷いたディナティアに返る答えは。
「あんなのより全然強い」
だからディナティアは混乱した。この間のザイシは人と同じ姿をしていた。なのに、悪魔族であるこの一つ目のほうが強い……? そんなこと、あるのだろうか。
人の形を取る魔物のことを「妖魔」と呼ぶ。魔物、魔性と呼ばれる存在には大別して三つの階級があり、下から、子悪魔族、悪魔族、妖魔族と呼ばれる。そして後者ほど姿は人に近く、力も強いとされている、のだが……。
「ああ、そんなのは嘘うそ」
ディナティアの混乱を見抜いたかのように、オルフェがあっさりとした口調で否定した。
嘘……?
「形が人に近いほど強い、なんて人間の勝手な思い込みもいいとこ。確かに人の形をとるだけあって奴らはそれなりに知恵を持ってはいるけど、純粋に力の強さを比べるとなれば話は別。人間が勝手に決めた階級なんて関係ない。だから、見た目で相手の強さを量ろうなんて、思っちゃだめだよ?」
一つ目が人の姿と大きく違うからといって、弱いということにはならない──いや、むしろ。ザイシを簡単に退けたオルフェが手強いと言った相手だ。気を引き締めねば、とディナティアは思った。彼女の視線の先で、件の魔物はこきりこきりと首を曲げている。あれは、準備運動なのだろうか。顔の大半を構成する一つ目が不気味にぎらりと輝いた。
それに、あの瞳。あの大きな銀の瞳は危険だ。心をまさぐられた先ほどのことを思い出すだけで、総毛立つ気がする。
「勝てるか……?」
小さく尋ねた彼女に、オルフェはにやりと笑った。
「さて、ねぇ。俺たちの目的は魔物退治じゃないし? いざとなったら逃げればいい……と言いたいところだけど、奴の力量を考えると逃げるのも一苦労な気がするから、できれば仕留めておきたいね。お姫様をさらわれるのはもう沢山だ」
自分とてもう沢山だ、とディナティアは思う。わざわざここまで来たのは助け出すためであって、助け出される側になるためではない。
「ならば、わたしは何をすればいい?」
あの魔物を退けるため、前へ進むために。力を持たない自分ができることは……?
「そこで、見ていてくれれば。祈っていてくれれば、いい」
「でも!」
オルフェの言葉が正しいと、頭ではわかっていても、ディナティアは声を上げずにいられない。自分が決めた、自分の旅だ。なのに危険なときに後ろで見ているだけだなんて、そんなこと。
けれどオルフェは笑って言うのだ。それでもやっぱりここで見ていればいいのだと。そして。
「わかってないなぁ、お姫様? 応援してくれる人がいるってのは、それだけで力だよ」
寄りかかっていた木から身を起こす。一つ目を挑発するように、こきりこきりと首を曲げる動作を真似た。一歩踏み出して、ディナティアの前へ出る。
「ああ、それから。 " リファス " って呼ぶのはやめてくれる? せっかく本当の名前を教えたのに、あれはちょっと切ないよ?」
振り向かず、彼はその背の向こうからそんなことを言った。そして、ディナティアの反応を待たずに地面を蹴る。
「………っ!」
だけどお前が、魔物の前では名前を呼ぶなと言ったんじゃないか……!
咄嗟にあげかけた声を飲み込み、ぐっと拳を握り締めて、ディナティアは少年の背を見送った。以前見た、光の翼がオルフェの右腕に出現する。それを見た一つ目の魔物が、ぐしゃぐしゃと笑った。否、嗤った。
「クルカ、アイノコ」
一瞬、奴が何を口にしたのか、意味がわからなかった。……アイノコ?
一つ目の懐に飛び込もうとしていたオルフェの動きがぴたりと止まり、ぎこちなく奴に向き直る。こちらに背を向けているせいでその顔にどんな表情を浮かべているのか、ディナティアは見ることができない。
オルフェ……?
嫌な予感がした。とてもとても、嫌な予感が、した。
「お前、何を知っている」
低く押し殺した少年の声が、空気を震わせる。いや、声ではない。声ではなく、けれど確かに彼から発せられる、何か。目に見えぬ力。それが空気を、大気を震わせ、ディナティアを包む光までもさざ波立たせる。
ぐしゃぐしゃ、という笑い声の合間に一つ目が答えた。
「ナニモシラヌ。ダガ、ニオウ。オマエノニオイ、ワレラトオナジ──」
「言うな……!」
どん、という音がオルフェの叫びをかき消した。地面がぼこりぼこりと盛り上がり、爆発して土柱を立てる。落下してくる土の塊に逃げ場所を求めて右往左往する衛兵達。
いったい何が起きた? 何が起こっているんだ、オルフェ──?
呼びかけたい。呼びかけたいけれど、その名前は彼に封じられてしまったから。ディナティアはただ息を飲んでこの光景を見守るしかない。この現象が、魔物と少年、どちらによって引き起こされているのか、それすらもわからぬまま。
守護する光のおかげで土片が彼女に降り注ぐことはなかったが、それでも吹き荒れる力を感じた。ちりちりと肌が焦げるような感触。ごう、という音が鼓膜を叩く。土と風が渦を巻くように爆発の中心である一つ目とオルフェのいる場所を取り巻いた。二人の姿を隠され、ディナティアの心はにわかに不安に占められる。
こんな時こそ名前を呼びたいのに。それが偽りでも、応えてくれればそれだけでどんなに安堵できることか。
不意に渦の中心からまばゆい光が放たれた。かっと目を灼く光が一瞬視界を奪う。そして細かなつぶてを全身に叩きつけられるような感覚。守護の光を貫通し、それはディナティアに物理的な痛みをもたらした。咄嗟に両手で顔をかばうが、そのまま何かに押し上げられるように街道から随分と離れた場所まで弾き飛ばされる。下草が緩衝材の代わりになったとはいえ、それは十分すぎるほど強い衝撃で。
「ぐ……っ」
打ちつけた外側の痛みより、内側の痛みの方が強かった。焼けるように痛いのは心臓なのか胃なのか。喉をせりあがるものを吐しゃしてディナティアはぐいと顔を上げた。
痛みと苦しさに目の前がにじむけれど、それでも自分は生きている。けれど、彼は、オルフェは……!?
晴れない視界になんとか求める人影を見つけようと目を凝らす。──いた。
ディナティアの目では追いきれないほどの速さで攻防を繰り返す、二つの影。猛烈な勢いで攻撃をしかけるオルフェを、しかし一つ目はまだ余裕ある風情でいなしていた。片手にはしっかりとおさげの少女を抱いたまま。両者を比べれば、どちらが優位にあるかは一目瞭然だった。
腕の翼を武器に切りかかるオルフェの切っ先をかわし、一つ目はぐしゃぐしゃと笑う。ディナティアは二人が戦う場所までずりずりと這うように戻りながら、その笑い声を聞いたような気がした。そんなわけはない、声が聞こえるほど近くにはいない。なのに。それでも確かに笑っているのが分かるのだ。
オルフェ──!
声をかけたかった。名前を呼びたかった。それが何の力にならなくとも、それでもそうしたかった。けれど呼びかけのための名前は封じられていて。
オルフェの翼が一つ目の手に捕らわれた。片手でその刃を握った一つ目の銀の瞳がぎらりと輝く。オルフェが渾身の力で取り戻そうとするが、どういう力の働きなのか、軽く片手でつかんでいるように見えて一つ目の手の枷はびくともしない。
「この……っ!」
怒号をあげる少年の喉元を、一つ目は器用にもその刃をもって傷つけようとした。すなわち、自分が捕らえている少年の翼でもって、彼の喉を切り裂こうとしているのだ。
自分の腕でありながら思うように操れない苛立ちと、襲いかかる危機にオルフェが体勢を崩す。その隙を一つ目が見逃すはずはなかった。倒れこむ少年の喉に、その腕の翼が振り下ろされる───!
「…………リファスっ!!」
呼ぶなと言われた名前を、ディナティアは呼んだ。
ザイシと対峙した折、オルフェは名を取られて窮地に陥った。あの時は偽の名前だったから、彼は呪縛をはねのけた、そうすることができた。けれど、今度は。ザイシ以上に強い敵を前に、真の名の元に呪縛を受けたら。その恐怖が脳裏でちかちかと光るから、彼女は他に呼ぶ名前を持たない。
だから。渾身の力で、彼女は叫んだ。少年の持つ偽りの名を。リファス、と。
ご、という音がしたのはその瞬間のこと──ディナティアだけでなく、今にも終止符が打たれようとしていた戦いの当事者二人ですらも動きを止めるほどに、それは不自然な介入だった。
いったい、どこから。なにが。
息を詰めて周囲を見回すディナティアの耳を、恐怖に彩られた複数の悲鳴が打つ。悲鳴の主は、外壁に背中を押し付けて震えていた、衛兵達。頭上を見上げ、立つこともできずに彼らは震えていた。
「なっ……」
揺れている。地の底から聞こえる咆哮があるとすれば、それはこんな音なのかもしれない、とディナティアは頭の片隅で考えた。そんな音とともに、ヴェイル・ハイノアの外壁が揺れていた。地震ではない、地面は揺れていない。けれど、外敵から街を守るため天高くそびえる壁は、確かに揺れていた。それはあたかも、見えない手に揺さぶられているかの如き様子で。
揺れて、たわんで、その壁は一つの影を生み出す。門ではなく壁そのものを通って、その人は出てきた。淡く銀に光る髪をふわふわと宙に遊ばせながら、深紅に輝く瞳で一同を見渡す。
「わたしを呼んだのは………」
穏やかな声には、聞き覚えがある。ディナティアの背中をぞくりと冷たいものが這い上がった。冷や汗が吹き出る。彼の声はやはり、彼女の中の恐怖を引き出した。あの時と同じように。
「あなた、ですか……?」
赤い瞳が、這うような姿勢で自分を見上げる少女を射抜く。ごくりと喉を上下させて、ディナティアは呟いた。
「リ、ファス……」
あの日、青年が残した、その名前を。