ヴェイルの守護者
十八章
「思い出したの?」
師の力によって送られたディナティアに、オルフェは開口一番そう問いかけた。彼に対して言葉の準備をしていなかった彼女は、詰まりながらそうだとうなずく。一体何から口にすればいいのかとうろたえながら、今起こったことを伝える彼女の前で、一瞬だけ喜色を浮かべた少年はすぐにその表情を消し、その顔を彼女からそらした。
その彼の様子がディナティアの心にぐさりと刺さる。
謝らなければ。
そう、わかってはいる、いるのだが。
ぷい、と拗ねたように明後日の方向を見ている少年に、一体なんと声をかけたらいいのかわからなくて、ディナティアは途方に暮れた。もともと言葉数の少ない性質である、会話の糸口を掴むのは大の苦手だった。相手が怒っていて、その矛先はほかならぬ自分に向けられていて、さらにはその原因が自分にあって、それから。
怒らせたのは自分だと言う自覚が嫌というほどあるからなおさら、なんと言えばよいのか、わからない。
ごめん、とそう言えばいいのだろうか。けれどそれではこの思いを伝えることにはならないと思うし、すでに一体いくつのことに謝ればいいのかすでにわからないし、そもそも遡ればどこからまともに口をきいていないのだったか、とディナティアは内心で頭を抱えた。
野盗たちにさらわれたのは、覚えている。目を覚ましたら囚われの身で一体何がどうなったのかと仰天したこと、不思議な青年が現れて、あたかも自分を助けるかのごとくに剣を渡してくれたことも、覚えている。
けれどその後のことはぼんやりとした霧に覆われたようにはっきりとしない。克明に思い出せる最近の記憶は、オフィルにひっぱたかれて我に返った瞬間からだ。それまでのことはどこか夢の中の出来事のようで実感がない。オルフェが助けにきてくれた──ような、気がする。オフィルに助けを求めて名を呼んだ……そんな気も、うっすらと、する。
けれども、ああ。ふわりふわりとつかみどころなく逃げていく記憶のどこに頼って何を謝ればいいというのだろう。そんな謝罪ではまるで誠意がないではないか。
眉間の皺をどんどん深くしていくディナティアに、オルフェは諦めたように盛大なため息をつきつき、向き直った。
「そんなところで沈鬱に悩まれてもさ。僕だって困るんだけど」
「……ごめん」
上目遣いに睨まれて反射的に頭を下げ、ディナティアは違う、と思った。もっと先に口にすべきことがあるはずだ。それは同じ言葉でも意味は全然別で。
「オルフェ、ごめん……なさい」
さらに深く頭を下げた彼女を、オルフェはしばらく黙って見下ろしていた。そうして、やがて。
「ほんとにほんとにほんとに、もう……勘弁、だからね」
言って、そっと肩に手を乗せる。そのあたたかさに顔を上げたディナティアに彼はほんのりと笑ってみせた。
「今度僕を忘れたら……そのときは、承知しないよ?」
冗談めいて告げられた言葉の裏にある真摯な思いが痛いほどにわかったから、ディナティアは心を込めて頷いた。
「こんな失態は、もう二度と……」
「いや、そうじゃなくてさ」
決意の表情を浮かべる少女に、オルフェはやれやれと肩をすくめた。そんな彼をディナティアはきょとんとした表情で見つめる。そこへ。
「彼は失態を責めているわけではないのですよ、ディナティア様」
突然背後からかけられた声に飛び上がりそうになりながら彼女は振り向いた。いつの間に戻ったのか、オフィルがいつもの柔らかな笑みでそこに現れている。オルフェの方は気づいていたらしく、はぁ、とため息をつきつき、師へ恨みがましい視線を投げた。
「せっかくびしっと決めようとしていたのに、おいしいところだけさらおうなんて人が悪いですよ、もう……」
口を尖らせる少年に、オフィルはそれはすまないことをしたねと、大して気にとめていないような笑顔で返す。脱力するオルフェにディナティアは不思議そうな視線を投げた。
「びしっと決める……?」
ごっほん、と咳払いをしてオルフェは居住まいを正す。
「だから、つまりっ。失敗なんていくらしてもいいし、迷惑だってかけていいからさ、だから。だから、僕の……僕たちのことをもっと信用してよ。頼ってよ。忘れたりなんか、しないでさ」
そりゃ、タリアに比べればまだまだなのかもしれないけどさ。
最後の言葉はとても小さくて。聞き逃しそうなものだったけれども、ディナティアの耳はしっかりと捕らえていた。じわり、と熱いものが胸に広がる。言葉もなくこくこくとうなずく彼女の頭を、オフィルがそっと撫でた。小さな子供にするように、やさしく。
驚いて振り仰ぐそこに、いつもの笑顔が。出会ってから間もない、会った回数も少ない……なのにすでに「いつもの」と認識してしまうほど心に親しんだオフィルの笑顔が、あった。
「頼りに、してるから。もう忘れたりなんか、しないから。本当に……ごめん……」
どれだけの心配をかけたのだろう。多分自分の想像よりもはるかに心を砕いてくれたに違いない彼らに、ディナティアは心底、感謝した。野盗にさらわれて、魔性に狙われて、だのに無傷で永らえている自分。それが何よりの証拠だ。その気持ちに、自分も応えなければならないと、思った。
「では、わたしはまた少し手を打たねばなりませんので」
名残を惜しむオルフェの肩をぽんと叩き、後は任せたよ、と告げるとオフィルはふわりと宙に浮いて姿を消した。それがその力によるものだと頭で理解していても、やはりなにか奇妙な感じは拭いきれずに見送ったディナティアだが。
「そういえば彼は、わたしの不在を誤魔化して時間稼ぎをしていると言っていたが……一体どうやっているのだろうな」
オフィルの消えたあたりの空間をぼんやりと見ながら一人ごちた彼女に、オルフェは微妙な表情を浮かべた。
「どうした、オルフェ?」
こんなときだけ目ざといディナティアが見咎め、尋ねる。気を悪くしないでほしいんだけど、と前置きして彼は告げた。
「多分、だけどね。ディナティアの人形を作ったんだと、思うよ」
「ひとがた……?」
耳慣れない言葉に、ディナティアは首を傾げる。人の形と書いてひとがた、とオルフェは補足した。
「にんぎょう、ではないのか?」
「人形はただのモノでしょ。動かないししゃべらない、そんなものがあったって、誰も騙されてくれないじゃない。オフィル様が作るのは、一見人のように見える、動いたり考えたりする似せもの。ある程度の記憶を与えてやれば、しばらくの間は影武者に据えることだって可能だと思うよ」
少年の説明に、ディナティアは感心しきった顔でへぇと頷く。本当に、術者というのは不思議な存在だ。人のように動く人でないもの、そんなものを作りだしてしまうとは。
そんな彼女に、オルフェは釘を刺すような口調で続けた。
「でも、なんでもできるなんて、思ったらだめだからね。術者だって全能じゃないんだから」
きょとり、とディナティアが目を丸くしてオルフェを見る。何を言っているのかわからない、そんな顔で。
「そんなのは、当たり前だろう? 全能な人間など、いるわけがない」
今度はオルフェがきょとりとする番だった。目を見開いて言葉の見つからない彼に、ディナティアが不思議そうな目を向ける。
「……そんなふうに思わない人も、多いんだよ。力があるならなんでも可能だろうって、無理難題ふっかけてくるやつとか。いわれのない恨み受けたりとか……いろいろ……」
オフィルを師とするとはいえ正式な術師ではなく、師から庇護されている自分ですらその対象になることがある。「青」の宮の長であるオフィルが周囲から受けるものはその比ではなかった。それを見るたび感じるたび、オルフェは言いようのない悔しさと悲しさに襲われるのだ。
彼らが望みたい気持ちはわかる。けれど望みを向ける相手もまた人間であることを時として彼らは忘れるから。都合のいいように、望みたいままに望んで、求めるから。ディナティアの言葉はとても正しいのに、そんなふうに思う人はとても少なくて、だからオルフェは驚いた。そうして、思う。
ああ、だから。こんな人だと知っていたから、だから。自分もまた、望むのだろう。彼女に求められること、認められること。それをこんなにも切に。
「わからないな、わたしには。……ただ、こう思う。オルフェやオフィルが全能だったら、わたしはお前たちに何も返すことができないから、困る。だから、全能でないほうがありがたい。小さなことでもなにか……してやれることが、あるかもしれないから」
くすり、とオルフェが笑みをもらした。それはやがて屈託のない笑顔に変わる。
「期待してるよ、お姫様」
むぅ、とディナティアが渋面になる。
「だから、その呼び方は……」
「はいはい。そんなことより、先に進まなきゃ。タリアが待ってるんだろう?」
「そんなことよりって……まぁ、それも、そうか」
未だ納得しきれない表情ながらも矛先をおさめたディナティアに、お? とオルフェは軽く目を瞠った。ほんの少しだが、過剰反応が薄らいだだろうか? そうだとすればいい傾向だ。気持ちに余裕が出てきた証拠だから。
「じゃあ早いとこ囚われのお姫様を助けに行くとしますか」
ここ数日の出来事を払拭するかのように明るく声を上げたオルフェに、ディナティアはうなずく。目指すはガルス海。そこで魔性に囚われているだろうタリアと。
そしてもう一人。自分の言葉の意味に気づいてないだろう少女にちらりと目を向けて、オルフェは気を引き締めた。
その身は自由でありながら心が深い檻に囚われたままのお姫様を助けに。すでにいろいろありすぎた気はするが、旅はまだ、はじまったばかりなのだ。