ヴェイルの守護者
十九章
「足りぬぞ」
冷たい冷たい、声が響いた。闇に浮かぶ白き肌。黒衣を纏ったその影が、足を地につけず、ふわりふわりと浮いたままでいるのは、自身の力を見せつけるためか。怜悧な刃物のように鋭い銀の視線に、男は喘ぐような呼吸を繰り返す。
「精一杯、やっている」
大量の冷や汗をかきながら、なんとかそう口にした。普段は恐れられ、かしずかれる側にいる男だったが、この存在を前にすると自信も余裕もすべて吹き飛ぶ。顔を合わせるのも話をするのもこれが最初ではなく、二人はお互いの利のために強力しあう立場──取引相手であるのだが、それにもかかわらず、男は圧倒的に劣勢にあった。常のように威厳を持って接しようとしても、視線という刃が男の腹を抉り、胸を刺す。その痛みに耐えかねて、彼はいつも敗北感のもと地を見つめるのだ。
「精一杯? 面白い冗談を言う」
面白い、と言いながらその声はまるで笑っていない。男はからからの喉を振り絞るようにしてかぶりを振る。
「冗談などではない」
「力が必要なのだろう? 我らの力が」
必死の言葉を紡ごうとした男の言葉の上から、囁かれた。
「約定は違えぬ。そちらが対価を渋らなければ、な」
何が、渋らなければ、だ。怒鳴りだしたい気持ちを、男はぐっと飲み込む。求められた対価はもうすでに十分払っている──十分過ぎるほどに、払っている。けれど相手の要求が止む事はなく、突きつけられる条件は厳しくなるばかりだ。銀色の目をもつ種族を相手に対等な取引を望んだのがいけなかったのか。他に道はなかったというのに……しかし、これではなお悪い──。
だが、始めてしまった以上、もう引き返すことはできない。選んだのは、そういう道だ。
「なにが、望みだ」
苦渋に満ちて絞り出される声に、銀の瞳が満足げに細められる。そして、告げた。
「『眼』を潰せ」
「オフィル、聞いたか」
くすくす、と肩を震わせる少女に、青年は首を傾げてみせた。
「なにをです?」
午後の昼下がり、向かい合って座り、青年がいれたお茶をゆっくりと飲むのが最近の二人の日課である。それは、危うい嘘を重ねながら日々雑事に追われる二人にとって、やすらぎのひととき。……しかし。
「巷では、わたしとお前は恋仲ということになっているらしい」
ぶふっ。
大変不本意なことながら、オフィルは飲みかけのお茶を吹き出さずにいられなかった。彼らしくない反応に少女が目を丸くする。
「……お前、もしや……」
濡れた口の周りを拭いながら、彼は向けられる疑いの眼差しにかぶりを振った。
「ありえません」
にっこりと笑って断言する。可能性のかけらすら残さないその口調に少女は小さく口を尖らせた。何もそこまで嫌がることもあるまいに、と。
「まったく、どういうふうに思考をめぐらせばそういうことになるのやら。暇な人がいるものですねぇ」
少女の反応は目に入らなかったかの如く、あくまでいつもの調子でお茶をすするオフィルである。そんな青年に、少女はふん、と小さく鼻を鳴らし、そういえば、と話を変えた。
「気になることがあると言っていたが、それは解決したのか」
問いかけに、オフィルは数瞬沈黙する。それは彼女の問いに答えることができなかったからではなく、ただ彼女の動きに気を取られていたせいだった。
優雅な仕草で器を操り、上等の葉で入れたお茶を美味しそうに飲む、少女。彼女が生まれたのはまだ、ほんの数日前のことだ。たどたどしい言葉遣いとぎこちない動き、それがあっという間に上達し洗練されていく。そのように仕掛けたのは自分だというのに、変化があまりにも鮮やかで戸惑いを感じずにいられない。そうして胸の中に重いものが降り積もってゆく。
彼女は、人ではないのに。
けれど少女は自分を人だと思っている。なぜならば、そのようにオフィルが作ったから。彼女は自分がディナティアという名前をもつ人だと──そう信じて、生きて、いる。そうして、人としてふさわしくあるよう、常に努力と進化を続けているのだ。それがオフィルにはたまらなく痛くて、辛い。
いつまで、続くのだろうか。
そして。
いつまで、続けられるだろうか。
用済みになったら、人ではない彼女は。
痛くて、怖くて、その先を考えないようにしている。
「オフィル?」
ひらひらと、少女が彼の目の前で手を振った。はっと我に返る。
「いえ、それが……」
慌てて答えを口にしようとした、その時。にわかに部屋の外が騒がしくなった。なんだろうと耳を澄ませば、イヴライが必死に制止する声が聞こえる。どうやら、招かれざる客の訪問らしい。
「……なんだ?」
かわいらしく眉をひそめてつぶやくディナティアに笑って見せて、オフィルは立ち上がった。
「──『青』の術師長オフィルは、王女ディナティアへ不貞な行為を働いたものであり、よって厳罰に処するものである」
開かれた扉の前で朗々と読み上げられる文面に、オフィルは苦笑した。その書状を持ってきた書記官は生真面目に音読を続けているが、肝心のところさえ聞けばもう十分だった。ちらり、と部屋の中を振り返る。
「だ、そうですよ?」
いったい誰に話しかけているのかと、オフィルの肩ごしに部屋の中をのぞきこんだ書記官は、次の瞬間ぎょっとしたように目を見開いた。不貞な行為を働かれたとされる当の王女が、なぜか面白そうな表情でこちらを見ているではないか。
「その件に関しては、つい先ほどきっぱりはっきりと断られてしまったところなのだがな。なんならもう一度再現するゆえ、見ていくか?」
にやりと笑って尋ねる少女に、慌てた表情で辞退する書記官。蒼ざめる、というほどではないが、多少血の気の失せた顔をしている。王女が同席している、という事態は想定していなかったのだろう。頷かれなくてよかった、と思いながらオフィルはにこりと笑う。
「そういうことですので、何かの手違いかと思われます。今一度お調べくださいと責任者にお伝えを」
それから、と付け足した。
「いつから『青』は王の麾下に入ったのですか。出直す前に今一度そのこともご確認を」
今度こそ、書記官は蒼ざめた。「青」は王制から完全に独立した組織だ。そういうことになっている。なってはいるが、しかし。それは名目上のことだとされている昨今、こうまで露骨な表現をする者がいようとは思わなかったに違いない。まして、それが術師長本人であるとすればなおさら、己を王と等しく扱う行為に映っただろう。怒りに肩を震わせながら去っていく書記官を見送り、オフィルは一人ごちた。
「こうまであからさまな手を使ってくるとは。いよいよ楽観できなくなってきましたね」