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ヴェイルの守護者

十七章

走って走って走って。

知りもしない森の中をどう駆けたのかもわからず、己の現在位置とてやはりわからず。

汗だくの身体を木の幹に預け、ディナティアは荒い息をついた。

ここがどこかもわからない。二人の元を逃げ出してから、どれだけの距離を、時間を、過ごしたのかも、……そうして、自分の行くべき道も。

「……なんだっていう……」

汗で張り付いた髪をかきあげ、彼女はつぶやいた。

すでに足に限界が来ていた。今何者かに襲われたとしたら、敗北は必然だろうな、と思う。たとえ腰に帯びた剣があろうとも、奮う力なくしてはそれは意味をなさない。力を持ちはしないのだ。

客観的に見る努力をしなくともわかる現実に、彼女の口元には笑みが上る。

自嘲、そうとしか呼べないそれが。

「ほんとうに……なんだっていう……」

脳裏に閃いては消える、青年の姿。

優しげな声音、優しげな表情。なのに、全然優しくなかった、彼。

いったい、なぜ……?

なぜ自分は彼を呼んだのか。なぜ彼を求めたのか。

思い出したわけでもないのに、なぜ彼ならば救ってくれるなどと思ったのか──。

──忘れていたければ、そのままでいいのですよ。

彼の言葉が胸をえぐった。

忘れていたいわけじゃない。そんなわけなどない……!!

なのに、心が拒否する。思い出したくないと頭の中で警鐘が鳴る。

なぜ、なぜ、なぜ……!!

潤みかける視界に、ぐい、と手の甲で目じりをぬぐった瞬間。

パキリ。

下草を踏みしだく、小さな音が耳を打った。一瞬体を硬直させて振り向きかけたディナティアは、自分の肌がなにやらチリチリした痛みを訴えることに気づいて、今度こそ泣きたくなる。自分のなかでもがきながらいっこうに出てこようとしない記憶の片鱗が、足音の正体を告げていた。

魔性。

誰に何を教えられずともわかる " 危険 " がすぐそばにある。

逃げなければ。

鉛のように重く感じられる体を叱咤しながら、のろのろと動き出す。走る、という行為には程遠い緩慢な動作だった。それでもなんとかその場を離れようと気力だけで動く。

足音は、ただただ、彼女を追ってくるようだった。淡々と、一定の歩調を崩さないそれは、ディナティアの速度が落ちれば落ちるだけ間を詰めてくる。そうして。

それは、暗い森の中。大して夜目の利かぬ中、這うようにして前へ進む彼女に、 " それ " は声を投げたのだった。

「姫様」

と、そう。女の声で。


振り向いた先。

そこには白い夜着に身を包んだ女性が、小首を傾げて立っていた。暗くて顔立ちや背格好まではよくわからない。白い着衣だけが闇に浮かぶようで。およそこの場には似合わない風体の彼女にディナティアは瞠目し、動きを止めた。

いや、理由はそれではない……相変わらず肌はチリチリしながら危険を訴えつづけているというのに、立ち止まらずにいられなかった理由は。

知っている、と思ったのだ。自分は彼女を知っている、と。

魔性とは恐ろしいものだと思っていた。人を襲い、人に害を為す、そういうモノだと。そこに立ち尽くす女性がそんな印象とは程遠かったこともまた、彼女の注意を引いた。

彼女が……そう、なのか?

恐怖と嫌悪の対象であるはずの、魔性……とは、どうしても思えなかった。まだ、あの少年や青年がそうであると言われたほうが納得できるほどだ、という考えがちらりと脳裏に浮かび、心に痛みを引き起こす。

いや、彼らは関係ない。彼らは……もう、関係ない。

痛みがさらに別の感情を呼び戻そうとするのを振り切ろうとかぶりを振った彼女に、白い夜着の女性が問うた。

「こんなところで、なにをなさっているのです?」

詰問調ではないが、たしなめる響きを含んだやさしい声に、やはり知っている、とディナティアは懐かしさを覚える。泣きたいほどに求めた声だと、思った。

思わずくしゃりと顔を歪めた彼女に、女性はふんわりと笑いかける。

「なにか、悲しいことでもおありですか? 姫様?」

あれほどに忌まわしく聞こえた呼称が、なぜこんなにもすんなりと受け入れられるのだろう。自分でも不思議なほどに。

自分を取り巻いていた漠然とした不安や恐怖がすべて取り除かれた気分になるのは、どうしてなのか。

「探していた」

気づけばぽろり、と。そんな言葉が飛び出ていて。それは、何かに導かれるようにこぼれた言葉で。そうしてそう答えた自分に、そうだったのか、と納得した。

自分が誰で。何を求めていたのか。誰を、探していたのか。なにもかも、全部。

「お前を、探していたんだ……タリア」

なぜこんなところにいるのか、いままでどうしていたのか、そもそも魔性にさらわれたはずではなかったのか……瞬時にいろいろな疑問が浮かび上がったが、目の前にいる彼女を見れば問い詰めるなんてことは、後でよかった。ただ、その無事な姿に安堵した。

彼女を探して城を出た。彼女を求めて旅に出た。すべては、彼女を再び得るために。

「わたしもお探ししておりました。姫様……あなたを」

にっこり微笑んで手を差し伸べるタリアへ、一歩踏み出す。あれほどに重く感じられた体が、今はずいぶんと軽く思えた。けれど、なぜだろう。駆け寄って抱きしめようとしない自分がいるのは。なぜだろう、一歩近づくごとに肌のチリチリ感が増す気がするのは。そんなことが、あるはずはないというのに。

「ご案内申し上げたいところが、あるのです」

微笑むタリアの伸ばされた手を取るまでに、あと一歩。

暗い森の中である程度離れていた距離が狭まり、ディナティアはここでようやく彼女の顔をしっかりと確認することができた。

間違いなく記憶しているタリアと同じ顔。同じ体格。……けれど。

「……なぜ、泣いている……?」

浮かべた表情とは裏腹に、その眦(まなじり)は濡れている。表情も時折、ひどく悲しげなそれに、なる。それはゆらめきのように一瞬の変化。けれどディナティアは見過ごさなかった。

「泣いてなど……おりませんよ? さぁ……姫様……」

ゆるゆるとかぶりを振って手を取るようにと促すタリアに、けれど彼女もかぶりを振る。

「わたしをごまかせると思っているのか、タリア? お前がわたしの嘘にごまかされることがなかったように、わたしだってお前のことくらいわかっているぞ? 一体どうしたんだ?」

問うディナティアにタリアは一瞬怯んだようだった。だがすぐに穏やかな表情に戻り、微笑みかける。

「ええ、そうでしたわね、姫様。正直にお話いたします……ですが、その前にどうぞこの手をお取りになってください。そうして、あなたに会えたことを確かめさせてください」

そう言われ、それもそうだとディナティアは手招きに応じて手を伸ばした。そうしてその手が触れ合うかと思われた、瞬間──。

「いけませんっ!!」

割って入った声。そうしてさらうように自らの腕の中にディナティアを抱き込んだ人物。

かすかな薬草の香りと顔にかかる金髪に、それがオフィルであることを彼女は知った。その瞬間激しい怒りがわき起こる。なぜ彼が邪魔をするのか。

記憶が戻った今も、先刻彼に言われた言葉はまだ心に突き刺さっている。いや、戻った今だからこそなおさら、突き刺さる。

「放せ! 彼女はタリアだ、わたしが探していた人だ! 邪魔をするな!」

ぎゅうと締め付ける彼の腕に抵抗しながら上げた抗議の声に、青年は冷めた声で返した。

「タリアですって……アレが、ですか?」

よく御覧なさい、と。強く肩を掴まれて、前を向かされた。その視界に映るもの。それは。

「嘘だ……だってあれは、タリアなんだ!」

そこにあるのは朽ちかけた老木。それが意思あるもののように枝をくねらせる姿。幹に醜く浮き出た人型のようなものが口を開き、呼びかけている。「姫様」と。

白い夜着の女性はどこにも、見当たらなかった。

「確かに、いたんだ……!」

ここに、いた。会いたかったと手を伸ばしあっていたのに。

「お前が邪魔をするから……!」

瞬間。ぱしんっ、と乾いた音が響き、右の頬が熱くなった。

「しっかりしてください! 思い出したんでしょう! 会いたいんでしょう、彼女に! こんな幻覚に惑わされてどうするんです?」

怒鳴りつける青年の姿に、ディナティアはぶたれたことも一瞬忘れて、ぽかんとなった。こんなに必死な彼の姿は、初めて見る。

「幻、覚……?」

「そうです。あれは力のない魔性のなれの果て。人の心に強く宿るものの姿に己を見せて誘い、食らう……そういう輩です。断じてあなたの求めている人ではない。あれは、違うんです」

正され、もう一度老木を見た。やわやわと枝を動かすさまはひどく醜く、いじましい。あの手を……タリアだと思ったあの手を取っていたら今ごろ自分は、あいつに食われて果てていたのだろうか。

幻覚のタリアが泣いていたのは、自分がどこかで感じていた警告の現れだったのだろうか。

「……そうか」

素直にうなずいたディナティアに、オフィルは掴んでいた彼女の肩を放した。ほう、ともらしたため息は安堵したためのものか、それとも呆れによるものか。ディナティアにはわからない。だから、聞くことにした。

「どうして、助けた?」

青年の青い瞳が見開かれる。

「どうして……?」

なぜそんなことを問われるのかわからない、と。そう彼の瞳が物語る。

「お前にとってわたしは、どうでもいい存在だろう? 記憶があろうがなかろうが、どこでどうなろうが、どうでもいいんだろう? なのにどうしていつも、助けるんだ? 肝心のところで突き放すくせに、なぜ……!」

助けられたら、期待するのだ。人に求めることをあきらめたはずの自分が、けれどなぜかこの青年には期待してしまうのだ。また、助けてくれるのではないかと。やさしい言葉をくれるのではないかと。そうして裏切られて、傷つくのだ。嫌なのに。そんなのは辛いから、嫌なのに。

わがままだと、わかっている。期待するのも傷つくのも、それは自分が勝手にすることだ。彼には関係ない。でも……!

「……わたしにも、よくわからないのです」

オフィルが静かにそう告白した。その美しい面に浮かぶのは、かすかな苦笑。そうして、後悔の色。

「なぜ、あなたに肩入れしてしまうのか。あなたの願いをかなえるだけの力があるわけでもないのに、なぜ助けようとしてしまうのか。……けれどそれは、どうでもいいというのとは、違う。わたしはあなたのことをそんな風に思ったことは、一度もありません」

静かな口調のまま、ゆっくりとそう告げる彼に、ディナティアはさらに尋ねる。勢いに乗って尋ねるには少し勇気が必要すぎる問いを、それでも口にした。

「わたしが…… " 姫 " だから、ではないのか?」

オフィルの金髪が揺れる。首を横に振ったのだと気づいたとき、彼女は思わずため息をもらした。失望のそれではない。安堵から出たものだった。

「いいえ。それは違います……わたしはあなたという個人を助けたいと思った。 " 姫 " という地位や名称ではありません。……今は、そうとしか、答えられませんが……」

それ以上に答えを求めるかと、尋ねるように向けられた視線に、ディナティアはかぶりを振った。十分過ぎる言葉を、すでにもらっている。この上まだどんな言葉を望むというのか。

「それでは……一緒に戻っていただけますか? あの子も心配しています」

あの子。それがオルフェのことを指すのだと気づき、こくり、うなずいて。ディナティアはちらりと振り返った。その視線の先にあるものに気づいて、オフィルが言う。

「あれはわたしが始末いたしましょう。あなたは先にお戻りください。またどんな厄介ごとに降りかかられるとも知れませんから」

そうして彼はディナティアの額と肩に触れた。彼の部屋から送りだされた時、同じようにしてディナティアは " 跳ばされ " 、そうして旅が始まったのだったな、と思い出す。

「目を閉じてください。あの子のことを思い描いて。彼のところへ移動させます」

促され、目を閉じてオルフェのことを思い浮かべた。そうして、一瞬の浮遊感。オフィルの力が自分をオルフェの元へ導くのを感じつつ、ディナティアはつぶやきのようにささやいた。

「ありがとう」


「ありがとう、ですか……」

自分の放った力の軌跡を見やりながら、オフィルはため息をつく。礼を言われるようなことなど。

「なにもしていないというのに言われてしまうのは……なかなか辛いものですねぇ……」

やれやれ、と肩をすくめながら、逃げようとする老木の姿をした魔性の傍らへと滑るように移動した。

「ですからね? やはり礼を言われただけのことはしておきませんと」

その言葉が宣告。宣告は力を帯び凶器となって老木へと襲い掛かり、その命を屠る。触れもしていないのに朽ちかけた魔性の体は火を噴き、短い雄叫びとともに燃え尽きた。その間、わずか数瞬。

砂塵と化したそれが、突如起こった風に吹き散らされるのを眺めながら、オフィルはゆっくりと闇の奥を見据える。それは先ほどディナティアが必死に逃げてきた道のりの向こう。

「あなたも、出ていらしたらどうですか」

ディナティアを追い詰めたもの。それが先に消した魔性であろうはずのないことに、彼女は気づいていないようだったが……。老木に擬態したあれに、そんなおとなしい真似はできない。朽ちかけた体でぼさぼさの枝を揺らしながら森の中、彼女を追いかけたとしたら、足音など聞こえようはずもない。ただ、枝が騒々しい音をたてて周囲の木々のそれとぶつかり合い絡み合ったことだろう。第一、老木に " 足 " などないのだから。

では、一体何が彼女を追い詰めたのか。心に強く願うものを餌に人をおびき寄せる老いた魔性の元へと。

意図的にそちらへ彼女を追いやったものがいることに、オフィルは気づいていた。そうして " 彼 " がいまなお、ここにとどまっていることにも。

「わたしはただ、思い出して欲しかっただけです」

遠くで、声が聞こえた。オフィルはそれを静かな表情で受け止める。

「あなたは、誰ですか?」

彼が発した問いに答える声は、なかった。ただ、闇と風と。静けさだけが残った。追う事は、しなかった。