ヴェイルの守護者
十四章
「──お前は、誰だ?」
剣を突きつけたまま、少女が尋ねた。
その瞳に宿るは、明確な敵意。
なんでっ?
一気に理解しがたい状況に追いこまれ、オルフェはただ瞠目するのみ。
助けに来た。
誰を?
一人の少女を。師である青年から、くれぐれも、と頼まれた少女を。
その彼女は目の前にいる。無事な姿で。
けれど──これは、なんだ? 一体どういう……?
少女の様子におかしいところはなかった。いや、自分に向かって剣を向けるなんてそれはもうとんでもなくおかしいが、そういうことではなく、目の焦点が合っていないなどという特徴はない。
何か術をかけられている可能性や薬物で意識が混濁しているといった兆候は見られないのだ。
それはつまり何を意味するのか?
彼女は正気の状態であるにもかかわらず、自分を敵とみなしている、ということだ。
ほんの数時間前まで共に旅をしていた自分を──短いとはいえ、あっさり忘れられるには少しばかり多すぎるのではないかと思えるほどの時間を共有してきた自分を。
「……本当に僕がわからないの?」
信じたくない気持ちで尋ねる。厳しく自分を捉える少女の瞳を真っ向から見返しつつ。
微妙に彼女の視線が揺れた。
けれど剣は引かれることなく、彼女の視線の強さが弱まることもやはりなく。
「ディナティア、僕だよ……?」
もどかしい気持ちで言葉を重ねる。
名を呼ばれ、初めて少女の表情に動きがあらわれた。動揺。瞳を大きく見開いて、彼女はオルフェを見る。
「……お前、わたしを知っているのか……?」
敵意が薄れ、困惑と戸惑いがそれに取って代わった。
その言葉も表情も、オルフェの胸には痛い。
本当に、わからないの……?
突きつけられた剣の切っ先はいまだ彼の首筋にぴったりと狙いを定めたまま。
「それ、本気で言ってるの、ディナティア……?」
信じたくないから、自然問い掛けは恐る恐るといったものになる。
少女は首を傾げた。
「──お前は、わたしを知っているのか?」
繰り返される問い。
全身に襲ってきた脱力感に、オルフェは思わず盛大なため息をつく。
剣を突きつけられている──その事実は変わらない。
だがそのことは大した問題ではなかった。この剣が自分の身を傷つけようとも、それはどうでもいいことだ。問題はそのことではなく、彼女の心にある。
その、嘘のない瞳に、ある。
そうだ、嘘じゃない。彼女の目は彼女が本気で彼に答えを求めていると伝えていた。それだからこそ、オルフェはため息をついてしまう。
本気で、忘れられているなんて。
いったい、なにがどうして。なにが、起こったというのか。彼女に。
「なんで……なんでっ!? 状況分かってるの? ボケてられる場合じゃないんだよ? もう一回自己紹介からやり直してる時間なんてないってのにっ!」
悲しいやら腹立たしいやら、もうなにがなんだかわからない。
助けにきたのに。
それがなんでこうなる?
「……別にわたしはボケているわけでは……」
律儀な反論に、さらに苛々が募る。
「ああ、そうだよね、ボケてるわけじゃないんだよね。本当に本気で忘れちゃってるんだろ、僕のこと。正真正銘の記憶喪失なんだよね、真剣な分、性質(たち)が悪いよ」
とげとげとげとげ。
ディナティアに対する彼の言葉には容赦がない。言葉の端々に怒りになりきれない苛立ちが棘となって見え隠れしていた。
「──記憶喪失?」
いぶかしげに少女は繰り返す。
かすかに首を傾げて。
「わたしは──そうなのか?」
先ほどまでの強い意志を持ったまなざしはなりを潜め、頼りなげに視線をさまよわせる彼女にオルフェも首をかしげた。
「僕のこと、わからないんだろ?」
こくり。
肯定を示す彼女に、だったらそうなんじゃないか、と肩をすくめる。
首筋の剣のことなど、まるで気にしない様子で。
「お前は、知らない」
きっぱりはっきり言いきられて、オルフェは傷ついた顔をした。
それはもうわかったけれど、改めて口に出されるとやはり悲しいものがある。
「わたしは……なぜ、ここにいる?」
力ない動作で剣を引き、ディナティアはそうつぶやいた。
「わたしは──なにを……」
額を押さえる彼女の様子にオルフェは眉をひそめる。
「……ディナティア、君はなにを覚えてる?」
彼女の記憶。
何が失われ、何が残っているのだろう。
この場所までやってきた目的、自分と出会った発端、すべての原点ともいうべきことは。
それすらも、忘れてしまっているのだろうか……?
彼女を動かす、唯一とも言うべき存在のことさえ。
「覚えている、こと……?」
記憶を探る少女の、けれどその表情は。
一言で片づけるなら、「呆然」と。
そう表現するしかないものだった──。
思い出せるのは、暗い廊下。
剣を握りしめ、立っていたのは覚えている。
なぜそこにいたのかはわからない。気がついたらそうして立っていた。
目の前には頭領がいて、──なんと言ったのだったか。
敵。
そう、敵が来るぞ、そう言ったのだ。
そいつはお前の命を狙っている。死にたくなければ戦えと。
だから、剣を構えた。
敵として現われたこの少年に殺されたくはなかったから。
だってわたしにはやるべきことが残っている。死ぬわけにはいかない。
やりとげるまでは。
──なにを?
自問に、けれど答えは出ない。
なにを?
なにをやりとげなければならなかったのか。
答えは遠い靄の中。自分の中に確かにあるはずの……あるべきはずの答えは、けれど出てきてはくれない。
「君はなにを覚えてる?」
目の前の少年がそう問い掛けた。
なにを?
繰り返される疑問。
覚えていること。
覚えて──。
思い出そうとしても、頭の中はからっぽだった。
からっぽに、思えた。
そんな馬鹿な。
なにもないはずはない。だってわたしは、わたしにはなにかあったはずなのだ。
だからここにいるのに──。
なのに、なぜ何も出てこないのだろう。
からっぽ。からっぽ。からっぽ。
なぜ。なぜ──!
「わたしは──ディナティア……わたしは、ディナティア……そうだ、そうなんだ……」
その、はずだ。
だがそのことすら、少年がいなければ思い出せはしなかっただろう。
彼が呼んだから、それが自分だとわかった。
どうして。
鼻の奥に残る、強い香りが涙腺を刺激する。
泣くな。泣いても解決などしない。事態はなにも変わらない。
「ディナティア?」
少年の優しい声。
彼は敵のはずだ。それなのにどうして安心感を覚えるのだろう。
一目見た時から違和感を抱いた。彼が敵であるということに。
優しく優しく名前を呼ぶ声。
強く自分を捉える真紅の瞳。
知っている、と感じた。でも知らない。分からない。
彼が誰なのか。名前を呼ばれても、彼の名を呼び返すことは、できない。
崩れ落ちそうになる膝をぎりぎりでふんばりながら、彼女はつぶやいた。
「わたしは……誰だ……?」
──刹那、彼女は…目の前の少年の真紅の瞳が悲しそうに……そう、失望という色に染まったのを見た気がした……。