ヴェイルの守護者
十五章
はぜる炎を、ディナティアは黙って見つめていた。
炎をはさんで向かい側。そこには昼間の少年がいる。
名は、知らない。尋ねても彼は教えてくれなかった。一体何者なのかも、自分とどういう関係であるのかも。なにも。
自力で思い出せ。
言葉によらず態度で、彼はそう言っていた。
そのくせ向ける瞳は恨みがましくて、彼女の罪悪感をひたすらくすぐってくれる。なんだというのか。
思い出してほしいのなら、ヒントの一つや二つや三つや四つ、提示してくれてもいいだろうに……!
それもせずに、すべて自分でなんとかしろと突き放しておいて、……それでその顔。
たまらない。
思い出したいのは山々だ。失ってしまった記憶──それが戻ることを願っているのは、なにより自分だと言うのに。
細身の剣を抱きかかえ、ただ炎を見つめる。
この剣を抱えていると、なぜか心が落ち着いた。
悪くない装飾と、悪くない仕立て。
自分の手に、驚くほどにしっくりなじむこの剣……そんなものを持っているからには、そこそこに恵まれた立場にあったのではないかと思われる。
そうして、この剣の装飾や仕立てに関して自分の目が利くということは、その筋の知識もある程度は備えていたということだ。
……わたしは、武人だったのだろうか?
なにか、違う気がしつつ、自問する。
この少年は、同僚かなにかなのだろうか。
盗賊討伐かなにかで一緒に行動していて、それで──?
「…………違う」
途中まで想像は膨らんだが、ディナティアはかぶりを振った。
少年が振るった力。……あれは、武人と共にあることはかなわない、不思議の力だ。
「違う……?」
彼女の言葉を聞きとがめ、少年が問い返してきた。なんでもない、とかぶりを振る。
……彼は、誰……?
一目見たときに、懐かしい思いに駆られたのは確かだ。彼が敵であることに納得のいかない自分がいた。
けれど、その理由はなにかと尋ねられても、答えられないのだ。それこそが一番知りたいところであるのに。
ただ、時間が過ぎていく。
そのことに、いわれのない焦燥感を覚える。
こんなことをしてる場合じゃない。そんな時間はない。
そう思う……焦る。けれどこれもまた、理由がわからない。
亡くしてしまった、大切な何か。取り返しがつかなくなる前に、どうあっても取り戻したいのに。
──取り返しがつかない?
脳裏に走った思いに、ディナティアは首を傾げる。
一体何が起こって取り返しがつかなくなるというのか。
それは、今感じている焦りに関係しているのだろうか。
そう思いついたら、怖くなった。わけのわからない恐怖に、体が怯えた。
「……ディナティア?」
不思議に思ったらしい少年が、首を傾げる。いきなり自身の肩を抱いた少女をまっすぐに見つめ。
「行……かなくちゃ……。行かなきゃ、ならないんだ、わたしは……」
自分を抱きしめ、剣を抱きしめ……ディナティアはつぶやく。
そのつぶやきが、どこから来るのかは──知らない。それでも、呼ぶから。
早く、と。
心に響く声……頭に、響く声。
──姫様…………。
どくり、と心臓が脈打った気がした。
「姫様…………?」
かすれた声が自分の喉から発せられたことなど、気づかず。
これは、誰の声……?
「姫様」と……そう自分を呼んだのは、誰だ?
見つめる、自分の心。感情はあるのに思い出のない、自分自身の。
思い出したい、取り戻したい……そう願うのに、強く強く願うのに、何かが邪魔をする。
鼻をつく、つんとした香り。
涙腺を刺激するその香りが、自分を捕らえている──。
それが全ての原因なのだと閃きのように不意にそう悟り……そうして。
知らず自分の鼻を片手で覆い、ディナティアは瞠目した。
今、脳裏をかすめたもの。遠い……それは、かすかな記憶ではなかったか。
この鼻の奥に残る、香り……似たものを知っていると感じた。……そう、知っているのだ。
思い出せ。思い出せ……どこで?
この香りを、どこで嗅いだのだったか──。
考え込むその形相は、恐らく必死のものであったのだろう。向かいに座り、自分を見つめる少年の心配げな視線を感じた。
けれど、今はそれにかかずらっている場合ではない。ようやく見つけた。ようやく探り当てたのだ……自分の記憶へと続く、眠った手がかりを。
けれどもそれは、手に入れたということを忘れそうになるほど淡い手応えで……ともすればまたモヤの中に消えていきそうな気配を見せていて。
二度と手放しはしない。
その決意を込め、考え続ける。今思考が途切れたら、二度とそれは戻ってこないような気がした。
そんなのは、ごめんだ。
だから、考える。この香り……どこで? 誰が?
香りを出すもの。……花。草。……草。香草──薬草。
薬、草……。
心の隅で、なにかが応えた。薬草。
薬草を扱う人? 庭師、医者、薬師……術師。
自らの連想の中に「術師」という単語が出てきたことに驚いた。自分の概念に、術師が薬草を扱うだなんて知識は──ない。
だからこそ、確信する。
薬草を扱う術師。それを自分は知っているのだと。
それは、誰だ……?
術師という単語自体が、あまり耳慣れない。親しみのない言葉だ。実際に不思議など目にしたこともない……いや。
目の前の少年に視線を向ける。
──彼は、その力をふるっていた…………。
扉を不思議の力でぶち破り乱入してきた、紅眼の少年。
「…………様なら、なんとかできたかもしれないのに……」
ディナティアの様子に、うつむき唇を噛み締め……ぽつりとそうもらした少年の言葉に、彼女はびくりと反応した。
今、なんと言った? ……誰の名を、呼んだ……?
小さな小さな声。それは聞こえるほど大きくはなかったのに……確かにディナティアの耳に届いた。そして、形を成す。
「……オ……フィ、ル……」
届かなかったはずの声。聞こえなかったはずの言葉。
忘れたはずの、名前──!
「オフィル──!」
はじかれたように少年がディナティアを見た。驚愕に瞠られた両の瞳。
それをまっすぐに見返しつつ……自分でも信じられないと言った表情の少女は、さらに驚愕することになる。
──はい?
脳裏に、声が響いた。肉声ではなく……頭の中、いや心の中に直接響くような、声が。
聞き覚えのある、温かい声。知っている……。
「オフィル…………?」
思わず声に出して尋ねた。彼の、声だ。
──ええ、そうですよ? どうなされました? ……姫?
姫。
大嫌いな称号のはずだった。けれど今そう呼ばれることがこれほどに嬉しいのは何故なのだろう。
そう思う自分の心が記憶喪失との矛盾を抱えていることに気づく余裕はなく、聞こえる声がただただ嬉しくて。
泣きそうになる。
響く声を抱きしめるように……剣を抱えたままの両手で自らの胸を押さえ、彼女は願った。懇願した。
「……助けて……!」
たった一人。
だれもいないこの心に、光をくれた人を、呼んだ。