雨恋
4
雨が、降らない。
梅雨だっていうのに、六月もそろそろ終わろうとしてるのに、雨はいっこうに降らない。
「ほんとにどうしちゃったんだろうねぇ……」
ため息混じりにおばさんが言ったり。
雨が降らないせいで農作物に被害が出てるって新聞やニュースで取り上げられたり。
蒸し暑い毎日だけが過ぎていく。
(雨なんか、降らなければいい)
あの日、そう願ったのはあたし。
まさか、今雨が降らないのはそのせいじゃないとは思うけど。
……でもね。
ほんとは後悔してるの。そう願ったこと。
会いたかった。
逃げちゃったけど、二度も逃げてしまったけど、でもやっぱり会いたかった。
バスに乗る彼を外から見送ったあの日。
一本早めに行けばよかったのに、わざわざ時間を合わせたのは、会いたかったからだった。なのに結局乗れなくて。
ごめんなさいとか。
ありがとうとか。
言いたいことはたくさんあって。
嫌われるのが怖くて、逃げ出した。
「自分が」傷つきたくなくて、逃げ出したんだ、あたし。
会えずに過ぎる毎日が、心に重い。
怪我の具合はどうなんだろう。
描きかけの絵はどうなっただろう。
会いたい。会いたい。会いたい。
名前しか、知らない人。
ううん、ほんとはもっといっぱい知ってるけど。優しい目をしていて、絵を描くのが大好きで、照れ屋で、我慢強くて………。
でも───今、どこにいるかも知らない人。
高校の名前は知ってる。知ってるけど───そこまで行く勇気はわいてこなかった。
だって……あの人がいるかもしれない。
あの、綺麗な女の人。
それを思うと、とても行こうなんて思えなかった。つくづく駄目なあたし。
(今日も晴れてる)
朝起きるとすぐ、窓の外を確かめる。
そしていつも、ため息をつく。
泣かない空の代わりに、あたしの心が泣く。
会いたいよって。
降らないかな。
降らないかな、雨。
雨乞いでもしてみたらいいのかな。
てるてるぼうずを作って、逆さにつるしてみようか。
(きっと明日は)
希望を空に託しながら、次の朝を待つ。
彼に、会いたい。
「どうしたの?」
いきなりそう聞かれてあたしはきょとんとした。
なに?
聞いたのは杏。いつになく神妙な顔で人の部屋にやってきたと思ったら、ぽてっとベッドにひっくり返り、そうつぶやいたんだ。
「沙央、最近、元気ない」
言い当てられてあたしはびっくりした。
同じ家で生活し、同じ高校に通っているとはいえ、ここのところ杏とはずっとすれ違いの日々でろくに顔を合わせてもいなかったから。
毎朝起こしに来てくれるのは相変わらずだったけど、それ以外じゃほとんどない。
あたしより全然早く彼女は家を出てしまうし、学校じゃクラス違うし、放課後も部活で遅くなる杏と違ってあたしはさっさと帰ってくるし。
晩御飯の時間も違うから、話をすることもなかった。
なのに……なんでわかったんだろう。
あたしが答えられずにいると、杏は天井を見つめて、ふぅ、と息をついた。
「あたしだって、話くらい聞けるよ?」
話………。
あたしは、正直言って、戸惑った。
こっちに引っ越してきて三か月が過ぎようとしてる。学校での生活はそれなりに楽しいし、一緒にお弁当を食べるような友達も出来た。
でも、相談とかできるような人はいないの。どうでもいい話しか、みんなとはできないの。
元気がなくてもぼうっとしてても、誰も気づいてなんかいなかったし。
だけど、違うんだね。杏は、違うんだね。ちゃんとあたしを見ててくれたんだね。
「ほら。お姉さんに話してごらん?」
ニか月しか違わないくせに。
あたしは思わず笑ってしまいながら、ありがたいなと思った。
杏には昔っから、いつもいつも助けられてる。
「あのね……」
彼女が背中を押してくれることを願って、あたしは事の顛末を話した。
相変わらず甘えてごめんね、杏。
いつもいつも助けてもらうばっかりだね。
あたしの話を、彼女は黙って聞いてくれた。それから。
「雨乞いの前に、バスに乗りなよ」
そう言った。
バス……?
「バスに乗って、その人のいる高校まで行っておいでよ。謝る気があるなら、ちゃんと謝らなきゃ。……もっとも、あたしだってそれは、沙央の責任じゃないと思うけど。でも、会いたいんでしょ?」
会いたいんでしょ?
(会いたい)
うん、会いたい。すごくすごく、彼に会いたい。
あたしはこくりとうなずいた。
「だったら会いなよ。先のことを考えてぐじぐじするより、できることをやりなよ。泣いて帰ってきたら、あたしが待っててやるからさ」
ぽん。
杏の右手があたしの頭に乗る。
「雨になんか頼ってちゃ駄目だよ」
─────────。
きゅうって、あたしは杏に抱きついた。
「なに?なんだよ、もう……」
呆れた声で言いながら、杏はあたしの頭を、背中をなでてくれる。
ありがと。
ありがと、杏。大好きだよ。
翌日。
雨はやっぱり降ってなかったけど、あたしはバス停へ向かった。
ほんとは帰りの方がいいかと思ったけど、それじゃ彼をつかまえられないかもしれないから。
今日は雨じゃないから、遅れずに定刻通り五十三分のバス。
あたしはのろのろとタラップを上がる。決意は固めたけど、それでもやっぱり気が重い。彼はどんな顔をするだろう?
今日は雨じゃないから、車内はすいていた。そっか、雨じゃなきゃ、こんなもんなのね。
そう思いながら車内を一巡したあたしの視線は、とある一点で釘付けになる。
(……うそっ)
心臓が跳ね上がる。すごい音が耳元で鳴った。
(なんで……?)
雨は降ってないのに。
今日は雨の日じゃないのに。
「おはよう」
……幻聴じゃない、声が聞こえる。
運転席の裏側によっかかるようにしてこっちを見てた人が言ったんだった。
彼が、あたしに。
びっくりしすぎてとっさに返せないでいると、彼は足元の荷物を取り上げてこっちに歩いてきた。
「……お、おはようございます」
あたしはやっとのことでそれだけを言う。聞き取れたかどうかは、わからない。
「──────この間」
無理矢理みたいに沈黙を破って彼が言った。
「この間、バスに乗らなかったの見えて……俺のせいだったら」
あたしは慌てて首を横に振った。
違うの。違うの、あなたのせいじゃない。
「姉貴が邪険にしたみたいで、ごめん」
───え。
ふわり、と心が軽くなった。
姉、貴。お姉さん……。
「あたしこそ、逃げ出したりして……」
今度はちゃんと声が出た。
「やっぱり気にしたんだ?」
ちょっと笑って彼が言う。
「そうじゃないかと思った。でもほんとに大丈夫だったんだ。怪我も大した事なかったし。……それから」
カバンのほかにもう一つあった大きな荷物をあたしに差し出した。
なんだろう……?
彼の表情を伺いながら、あたしはそれを受け取る。上半身が隠れるくらいのキャンバス。
(──────え)
あたしは止まってしまった。
だって。
だって───。
「絵もちゃんと完成したから。羽澄が気にすることなんてなんにもないから」
照れた顔で彼はそう言って、少し横を向いた。
キャンバスに描かれた絵。
変わらずに優しいタッチで描かれたその風景を、あたしは知っていた。
雨の朝に、バス停でバスを待つ、女の子。
(あた、し……?)
びっくりして、なんにも言えなかった。
どうして、あたし?
「……このバスに乗ってれば、会えるかと思って。それを見せたくて毎日このバスに乗ってた。会えて、よかった」
毎日………?
「あたしを……待っててくれたの?」
照れた顔のまま、彼はうなずいた。
「雨の日なんて嫌いだったのにな。こんなに雨が降ればいいと思ったのははじめてだ」
(………あ)
あたしはとても嬉しくなった。
この人も、あたしと同じ事を思ってる。思ってくれてる。
それがとても嬉しかった。
「あたしも。雨が降ればいいのになって、ずっと思ってた」
胸の中のキャンバスを抱きしめる。
「──────あ」
彼の声にその視線を追いかけたら、窓の外ではいつのまにか、久々の雨が降り出していた。
あたしと彼は思わず、顔を見合わせて笑う。
雨だね。大好きな、雨の朝。
「タイトルはなんていうの?」
尋ねると、ものすごく困ったような、照れたような複雑な表情が返ってきた。
……どうしたのかな?
ずいぶん迷った挙句、やっと彼は口を開く。
「笑わないで欲しいんだけど」
そうして耳元でささやかれた言葉に、あたしの心はいまだかつてなくふわふわになった。
「───────『雨恋』」