雨恋
3
「あれ、なんか疲れてる?」
あの雨の日に話しかけたことがきっかけで、あたしと彼はバスで会ったら話をするようになっていた。
今日はなんだか目が赤かったからちょっと気になったんだ。
また、絵を描いてたのかな。無理してるんじゃないのかな。
ちょっとそれが心配だったから。
「あ……ちょっと寝不足。夢中になって描いてたら、朝になってて」
苦笑いっていうか、照れ笑いっていうか、そんな笑顔で彼は答える。
「絵画展が近くて」
付け加えられた言葉にあたしは軽く首をかしげる。
「なに、それ?コンクールみたいなもの?」
自慢じゃないけどあたしは美術関係のことなんて素人だから、教えてもらわなくちゃ分からない。でも、徹夜までしてがんばるくらいなんだから、けっこうすごいものなんだろうなって、それくらいなら分かる。
「まぁ、一応。美大の推薦の基準に入るっていうから、がんばっておかないと」
……ああ、そうか。彼はもう二年なんだ。進路とか、考えなくちゃいけないのか。
「美大行くの?」
あたしは全然将来のこととか実感ないけど、まだ。
ただ、あたしは……。
「ああ。まだやめたくないからな、これ」
言って彼は左手をちょっと持ち上げて見せた。
あ。スケッチブック。
ほんとに絵描くの、好きなんだなぁ。
「なに描いてるの?」
「え?」
「絵画展。なに描くの?」
あたしは軽い好奇心で聞いただけだったんだけど。……というか、完成したら見たいなぁって思ったからなんだけど。
でもなんか黙り込まれちゃって、ちょっと困惑してしまった。
悪いこと、聞いたのかなぁ?
「……あのぉ、言いたくなかったら、別にいいですよ?」
うつむいてしまった彼の顔をのぞきこむようにして言ったら、彼ははっとしたように顔を上げて焦った声で否定した。
「いや、言いたくないわけじゃなくて、ただ……」
ただ?
その先を待って首をかしげた、その時だった。
何か言おうとした彼の言葉を待たずに、バスが急停車した。急停車……ううん、そんなもんじゃない。なんだか、横滑りでも起こしそうな激しい止まり方だった。
バスは相変わらず満員で、当然乗客はすごく被害を被った。あたしはもろに彼にぶつかって、おかげで全然平気だったけど、ぶつかられた方はそうはいかない。
「でっ……」
ぶつかった拍子にもれたそんな声にそっちを見ると、彼は真っ青な顔をしていた。
(なに……)
額に脂汗が浮いてる。痛そうに、すごく痛そうに顔をしかめてる。
右手押さえて。
(右手っ……)
「大丈夫っ?」
大丈夫なわけなかった。だけどあたしはばかだからそんなことしか言えなくて。
「……平、気」
頬をひきつらせるようにして彼は笑ってくれたけど、平気なんて嘘だった。
どうしよう。
どうしよう、あたしのせいだ。あたしがぶつかったから………!
「大丈夫だから。気にしなくていいから。羽澄のせいじゃないから」
でも。
でも、だけど。
(────絵が)
絵画展が近いって言ってた。美大の推薦かかってるって。
絵描くの好きで、やめられないって……。
「羽澄」
あたしは泣き出していた。あたしなんて泣く資格もないのに、涙がぼろぼろ出てきて止まらなかった。
違うじゃない。泣いてる場合なんかじゃないじゃない。そんなことは、わかってるのに。
駄目だ。あたし、彼を困らせてばっかりだ。
「あたし…………あたしっ」
なんて言ったらいいのか分からなかった。
「────武海?」
あたしの泣き声に重なるように声がかかったのはその時のこと。
きれいな女の人がびっくりしたようにこっちを見てた。
(誰……?)
彼と同じ制服着てた。ショートカットが似合ってる、綺麗な人。
なんだか胸のあたりがざわざわした。
「なに、右手、どうしたの?」
押さえた腕を目ざとく見つけて彼女は近づいて来て、あたしの肩を突き飛ばすようにして彼の顔をのぞきこんだ。
「……折れてんじゃないか、これ?」
制服の右手に触れながらそう言う。
(折れてる……?)
あたしは一歩身を引いた。人を押しのけるようにして。
(あたしのせい)
ふっと彼と目が合った。
責めてなんか、全然なかったけど、あたしはそれが苦しくて。
いたたまれなくて、あたしは逃げるようにしてバスを降りた。
「───羽澄っ」
追いかけてきた彼の声を振りきった。
(あたしのばか)
あたしのばか、あたしのばか、あたしのばか。
雨のしずくがあたしの肩をぬらす。あたしの髪をぬらす。
あたしと一緒に空が泣いていた。
(だから、雨なんて)
すごく惨めな気分であたしは天気をうらんだ。
雨なんか嫌い。雨の朝なんて大嫌い。
べたべたしてる、あのひとも嫌い。
……こんなに惨めな、あたしはもっと嫌い。
次の日も、また雨が降っていた。今が梅雨じゃなければよかったのに。
あたしはバス停で七時五十七分に来たバスを見送った。
乗車口から三つ目の窓に彼が見えて、だけどあたしは乗らなかった。
乗車口から三つ目の窓に彼が見えて、だからあたしは乗れなかった。
発車寸前、彼と目が合った気がしたけど。
(ごめんなさい)
あたしはそう言う勇気もなくて。
(────雨なんか)
雨なんか降らなければいいのに。
そうしたらあたしは、ずっとふわふわした気持ちでいられたのに。
だから。
────雨なんか、ずっと降らなければいいのに。