雨恋
2
(あ・い・さ・わ)
ぽけっと口を開けて、あたしは心の中でつぶやいた。ゆっくりと。
一音一音、くぎるように。
(あ・い・さ・わ・た・け・み)
相沢武海。
そう、書いてある。
あたしがバスで出会った男の子。
雨の朝を大好きにしてくれた人。
相沢武海。
そういうのか。
そういう名前なんだ。
なんだか、宝物でも見つけた気分だ。
「沙央?あぁ、その絵?すごいよね、それ。それでまだ高ニだっていうんだから、まいっちゃうよねぇ。その赤なんか、どうやったら出せるんだか……」
いつのまにか葵さんが後ろに来てて、ちょっと悔しそうな口調でそう言った。
あたしたちが見てるのは夕暮れの公園の風景。
綺麗な夕焼け空の下、三人の子供が遊んでる。あたしはその場所を知らないけど、すごく惹かれる景色だった。優しい、景色だった。
あたしが今いるのは、とある絵画コンクールの入選作展示会場。
といっても、あたしは別に美術部でもないし、過去にそうだった経験もない。杏がそうだってわけでもない。彼女はずっと陸上一筋だし。
ここに来てる訳は、今美大生の葵さんの作品が入賞したからだった。
葵さんの描いた絵は、歩道橋の上で頬杖をついてる女の子の後ろ姿。そしてその足元にちょこんと座る子犬。やっぱり優しい絵だった。
でもね、ごめんなさい、葵さん。あたし、あなたの絵大好きだけど、今日はこの絵の前から離れられそうにないや。
それぞれの作品の下に、作者の名前と証明写真くらいの大きさの顔写真があって、葵さんの絵を見た後ふらふらと他の絵を見て歩いてたあたしは、「名残陽(なごりび)」って題のその絵の前でぴたっと立ち止まってしまったのだった。
彼だ。
バスで会った、彼だった。
本物よりちょっとかたい表情して写ってる写真。その横には「相沢武海」って名前が記されてた。名前だけは知ってる高校の二年生。一つ上の、人。
「知ってる人?」
杏とよく似た顔を小さくかしげて葵さんが尋ねる。造作は似てても、高さは顔一つ分くらい上にあるその顔を見上げて、あたしはあいまいに首を振った。
あたしは、知ってる。覚えてる。あの雨の朝から、二度、雨の日があった。その度、バスで彼を見かけた。見かけて嬉しかった。
でも……彼は、どうなのかな。覚えてくれてるだろうか。あんな、些細な出来事。
あたしにとっては全然些細じゃなかったけれど。
雨の日にしか会えない。
会えても話しかけることもできないまま、その背中を見つめてた。
振り向いてほしいなって、そう思いながら、でもその願いはかなってない。
当然だよね。あたしは願うことしかしてない。まだ。
でも。
でも、この絵。
抱きしめたくなるような、そんな感動をくれたこの絵。
立ち止まったのはね、あなたの写真に気づくより、先だったんだよ。
(相沢武海、くん)
明日、雨になるといい。
どうか、雨が降りますように。
翌日。
雨音で目を覚まして、あたしは思わず神様に感謝した。こんなときだけ、都合がいいけど。
窓を開けて見ると、どしゃぶりってわけじゃないけど、ほどよく降ってる。
少し前のわたしなら、これだけで不機嫌になるところだけど、今は違う。
口元がゆるゆるとほころんじゃう。
「沙央、起きて。雨だから………起きてるね」
いつものように起こしに来てくれた杏を振り返る。ちょっと意外そうな彼女に、にっこり笑いかけたら怪訝そうに首をかしげられた。
「どしたの?いつも寝起きは機嫌悪いくせに……」
だって、今日は雨だもの。
そう心の中で答えながら、あたしは首を振る。
「んーん、なんでも。もう行くの?」
尋ねると杏はうなずいた。
陸上部に入った杏は、最近朝が早い。あたしを起こしに来た後、すぐに出掛けてく。
雨の日でもそれはおんなじらしい。
「うん。バスじゃ遅くなるから自転車で行く」
「雨だよ?」
結構降っているけどなぁ。
「沙央と違って頑丈だから、あたしは」
そう言って杏は出ていった。のんびりしてると遅れるよー、と釘をさして。
わかってるよ。でもね、最近のあたしは、わざと一本遅いバスにしてる。
理由はただ一つ。
あたしはいそいそと鏡の前に立ち、丁寧にブラッシングして髪を編んだ。二つに分けて、サイドを編み込み、残りを三つ編みにする。
だって今日は雨だから。
バス停に向かう足取りは軽くて、スキップでもしそう。
今日のバスは七時五十五分過ぎに来た。いつもと比べたら、結構早く来たことになる。
バスのタラップをのぼり、顔を上げて、あたしは思わず立ちすくんでしまった。
だって。
だって、そこに、彼が。
すごい、近くに、彼が。
どん、と後ろから押された。ああ、後ろが詰まっちゃった。
慌てて奥に詰める。
すぐそばの彼の横を通って。後ろから押されるから、体は自然と彼の方に押しつけられる形になる。
心臓がばくばくした。息がうまくできない。
顔を上げたらすぐそこに彼がいる。体温を感じるほど近くに彼がいる。
(────死んじゃいそう)
どうしたらいいかわかんなくて、どきどきしてるのはあたしだけだっていうのに、すごく動揺して。
気がついたら、彼の腕つかんでた。
「好きですっ」
とっさに出てきたのはなんでだかこれで。
「あの?」
ひくっと片頬をひきつらせて彼があたしを見た。
ああ、違うの、違うんです、いや、違わないけど違うの!
変な奴だって思われたかもしれない。というより、きっと思われたよね。ってか、なんでいきなりこんなこと言ってるかな、あたしは!
ますます焦ってあたしは言葉を重ねる。
「あのっ、あたし、昨日見て、それですごい感激して。葵さんもむちゃくちゃほめてて、あ、葵さんていとこなんですけどやっぱりすごい人で、その人にほめられるんだからやっぱりすごいなぁって、あたし好きだなぁって、特にあの夕焼けの赤なんか、もうほんとにむちゃくちゃ」
───そこまで言ったら。
困惑しか浮かんでなかった彼の顔に、みるみる朱が走った。
(あ、あれ……?)
まっかっか、だぁ……。
「あれ、見たの?」
ものすごく照れた顔でそう聞かれて、あたしはこくんとうなずいた。
「……なんか、すごい照れる……」
真っ赤な顔が、なんでだかあたしはすごく嬉しくて、同じ言葉をもう一度繰り返した。
「あたし、あの絵、好きです。すごく」
そうしたら。
彼は笑ったんだ。すごく嬉しそうに。本当に嬉しそうに。
話しかけてよかった。
少しずつ、近づいていけたらいいな。
「あたし、羽澄沙央といいます」
ぺこん、とお辞儀をした。
「あ………相沢、武海、です」
名乗りあって、どちらともなく笑いあう。
折りしも季節は梅雨。
毎日毎日、降るといい。
毎日毎日、会えるといい。
そう思って、うきうきしていた。