雨恋
1
雨の朝って嫌い。大嫌い。
前はそうでもなかったけど、高校生になってから嫌いになった。
朝、目が覚めて意識がはっきりした途端、ベッド脇の窓から雨音が聞こえてくると、一気に憂鬱になる。
思わず舌打ちしちゃうくらい。
「沙央(さお)、起きた?雨降ってるよ。早くしないと間に合わないよ」
ノックもなしに部屋のドアが開いたと思ったら、顔をのぞかせたのは、いとこの杏(あん)だった。黒髪のショートボブがちょっとはねてる。朝に弱いあたしと違って杏はすごく早起きだ。中学の頃から部活の朝練とかで慣れてるかららしい。だから毎朝あたしを起こしにくるのは彼女の日課。あたしは高校に入ってから、杏の家に居候してるんだ。
「うん……」
ため息混じりにそう答えて、だけどあたしはまだふとんの中でぐずぐずしていた。もう五月だからふとんから出るのが寒いとか、そういうわけじゃないんだけど。
あんまり気持ちよくて。
「ほーら、起きた起きた。ふとんをひっぺがされたいのか?」
ちょっと呆れたふうに笑って、杏は部屋に入ってくる。彼女の手が本当にふとんにかかったものだから、あたしは慌てて首を振った。
「だめー、起きる起きる。起きるからそれはやーめーてー」
だけど杏は容赦なく、べりっとあたしからふとんをひきはがし、さらにその手をあたしの頬にぺたっとくっつけた。
うひゃあっ、冷たいっ。
思わず肩をすくめたあたしの耳に、くすくすという杏の笑い声が聞こえた。
「どーだっ、起きたかっ」
………嬉しそうだねぇ、杏。
今度はあたしも素直に起きあがる。これ以上ぐずると、次になにされるかわからないし。
「その手、どうしたの?」
なんだか、この世のものとは思えないような冷たさだったんだけど。
「これ?冷凍庫につっこんだのよ。目、覚めたでしょ?」
覚めすぎです、杏さん……。
にやっと笑ってまた手を近づけてきたから、あたしは急いでベッドを降りて彼女の後ろに回り、その背中を押した。
「もうちゃんと起きたから。着替えるから出てってね」
いつも寝起きが悪くて苦労をかけてる自覚はあるけど、だんだん手がこんできたなぁ。今まではせいぜいくすぐられるとか、その程度だったのに。
次はどんな手を使われるやら。
あたしは杏を部屋の外まで押し出し、ドアを閉めてベッドを振り返った。宮においてある目覚まし時計に目をやれば、もう七時二十分だった。
嘘ぉ………。
遅刻を免れるためには、七時三十八分のバスに乗らないと遅刻しちゃう。あとニ十分もない。
遊んでる時間なんかなかったんじゃないよ、杏……。
勝手に責任転嫁して、あたしは大慌てで着替え出した。
「もーっ、沙央のドジっ。のろまっ。完全に遅刻じゃない、ばかっ」
もみくちゃにされながら、だけど杏の愚痴は絶えない。まぁ、理由は十分にあるんだけれども。
「…………ごめんなさーい」
あたしはちょっと下を向いて、ぼそぼそと謝った。
あたしたちは今、バスに乗ってる。一応。
だけど予定してたバスじゃない。それより一本遅いバス。さらには、雨のせいで十分遅れてきたバスに。
雨の朝はよくバスが遅れる。だからちょっと余裕を見て早めのバスにしなさいね、というのは、杏のお姉さんの葵さんが教えてくれたこと。
いつもは自転車通学だから、八時過ぎに出ても間に合うんだけど、雨の日は、だから七時三十八分のバスがベストってわけ。
だけども、家からバス停まで歩いて五分、七時二十分に起きたあたしが十五分弱で支度できるわけもなく、でもどうせ十分遅れてくるんだからと、急かす杏をなだめながら家を出て、バス停に着いたのは七時四十五分。間に合ったと思ったの。思ったんだけど、バスが来たのは八時二分だった。だからこれは一本遅い五十三分のバス。じゃあ、三十八分のバスはどうなっちゃったかって、まさか消えるわけもないから、あたしたちがバス停に着くより先に行っちゃったんだろう。
だから今日、遅刻するのはあたしのせい。ごめんなさい。
小学校中学校と無遅刻無欠席の杏だったのに、ほんと、申し訳ない。
だから雨の朝って嫌いなんだ。……なんて、責任転嫁だけど。
でも、やっぱり雨の朝って嫌い。なにもバスが遅れるだけが理由じゃない。雨の朝はバスがとっても混雑する。いつも自転車通学の人がみんな流れてくるからね。バス通学組にとってはいい迷惑なんだろうけど。
「あーあ、あたしの内申がぁ……」
杏はまだしつこく言ってる。あたしからは杏の姿は見えないんだけど、ため息だけはしっかり聞こえてた。
あたしも人のことは言えないんだけど、杏は小柄だ。身長152センチのあたしより、さらに3センチ低い。本人は150あるって頑固に言いはってるけど、入学したときの健康診断、一緒だったあたしはちゃんと知ってる。
だから、人が多いと埋もれちゃって、人ごみなんかではよくはぐれちゃうんだけど。今もそうで、声はすれども姿は見えず、ないとこ殿に、あたしは肩をすくめて答えた。
「悪かったと思うけど、遅刻の一回や二回、快く許すくらいの度量なきゃだめだよ、杏。心のひろーい人間になりなよ」
ぎゅうぎゅうづめのバスの中、右も左も前も後ろも逃げ場なんかないのに圧力だけかかってくる。もう前には進めないのに背中はぐいぐい押されるし、吊り革も遠くて持てないから、バスが揺れるたんびに不安定に体勢が崩れちゃう。人口密度が高いからこけはしないけど、なんだか変な体勢とかになっちゃって冗談じゃなく苦しい。
あたしが言えた義理じゃない台詞をもっともらしく杏に言ったときもそうなった。バスがなんでだか急停車して、それであたしは……もとい、あたしの体は前に投げ出されるような勢いで倒れた。もちろん人が多いから床に這いつくばったわけじゃないけど。
ちょうど前の人にのしかかっちゃうような感じ。あたしだって必死に足をつっぱらせてるけど、これぞまさしく不可抗力ってやつね。
「いっ………」
あたしにのしかかられた不運な人の声が下から聞こえて、あたしは慌ててどこうとしたけれど、肩にかけてたカバンがどこかの隙間にはさまっちゃって、それで体を自由に動かすことができなくて、ただなんだかじたばたするだけになっちゃった。
「ごっ、ごめんなさいっ、あのっ、今っ、今どきますからっ」
あたしは───わからないけど多分───真っ赤になりながらもがいた。
「なにやってるのよ」
ひどく呆れた調子の杏の声がそう言って、あたしの襟首を後ろからつかみ、猫でも持ち上げるようにひっぱって。
「い、いたいっ」
髪の毛がどこかにからみついてるらしい。すごい痛みが頭に走って、あたしは思わず悲鳴をあげる。時間がなくて結んでる暇がなかったのよ。いつもはちゃんと束ねてるのにっ。
どこかにあるカバンのひももピンと張っちゃって、右肩も痛いし。
最悪。
(だから雨の朝なんて)
なんだかもう、泣きたい気分だ。
「ああ……俺か」
あたしの下の人の声がまたして、なにかなと思ったら、ふっと頭の痛みが消えた。それからカバンもどこからかするっと出てきた。
それから。
ふわってちょっと体が浮いて、あたしの足は床に着地した。当然体勢もちゃんとなる。
(──────え?)
あたしは一瞬ぽかんとしてしまった。なんか手品でも見せられた気分。
この瞬間だけ、あたしはぎゅうぎゅうづめのバスに乗ってることを忘れた。
周囲の雑音も圧迫感も何もかも自分から閉め出して、見上げていた。背中にのっかかっていたあたしごと立ちあがり、無造作に、だけどとても優しい仕草で降ろしてくれたその人を。
その人の背中を。
「あ…………やべぇ」
ぼそぼそっとした声が言ったかと思うと、目の前の背中がくるりと振り向いた。……もとい、人が。
で、いきなりにゅっと手を突き出される。
(へ………?)
「悪い、気をつけたけど、抜いちまったみたいだ」
あ。
申し訳なさそうに謝られて、見れば突き出されてる手には二本の髪がからまっていた。
ちょっと薄い茶色の、細い髪。………あたしのだ。
「これにひっかかっちまってさ」
髪をからめたまま、指がブレザーの襟を指す。校章。どこのだかは、知らない。あたしはもともとこの辺りに住んでなかったし。
あたしは指の動きにつられるように視線を移動させ、そこで初めて相手の顔を見て、なぜだか止まってしまった。
本当に理由なんてなかった。と思う。
別にすごい美形ってわけじゃない。俗に言う十人並み、というくらいの。
色黒で、スポーツ刈りみたいな短髪で、すごく背が高いからバスの天井が低く見える。
体つきもがっしりしてた。サッカーとか、ラグビーとか、そういうスポーツでもしてそうな感じ。
あたしはどっちかっていうと貧弱な……つまりガリガリの体つきだから、ちょっと圧倒されてしまったけど。
見とれた理由はそれじゃない。
………うん、そう。
あたしは見とれていた。
いかにも体育会系風の彼に似つかわしくない、優しい目に。
たれ目とか、そういうんじゃなくて。
むしろ、きりっとした濃い眉からあまり離れていなくて、しかも上がり気味の目で、だから怒ってるみたいな印象を与えるきつい目なのに、だけど。
そのまなざしがすごくやさしくて。
だから驚いて見とれたんだった。
「沙央?何ぼけっとしてんの?」
無理矢理人を押しのけてあたしの真横に顔を出した杏の声に、あたしははっと我に返る。
目の前にいた男の子はとっくに前の方に行っちゃってた。
「………別になんにも?」
なんでだろう。なんでだかわからないけど。
内緒にしておきたいなと思った。
優しい目をした男の子。
これはあたしだけの秘密。
「そう?……別にいいけど、あんた髪ぐちゃぐちゃだよ?」
………あっ。しまった。
さっきもみくちゃになったのできっとすごいことになってる。
さっきの男の子にも二本抜かれちゃったし。
あたしは、心底申し訳ないってふうに謝ってくれた彼の顔を思い出して、思わずにやけてしまった。
杏が、なにこいつ、って顔したけどいいの。
なんだか気分がふわふわしてるから。
これから遅刻してくことも全然忘れて、あたしはすごく浮かれてた。なんでだか。
そして。
あたしは、雨の朝が大好きになった。