君がここにいる奇跡
六章 還りゆく場所 其のニ
その場所、は。
あの日と同じように晴れていた。
あの日と同じようにまぶしかった。
リョウに導かれるまま自分にとっての禁断の地に再び足を踏み入れた貴文は、そこに先客がいることに気づいて足を止めた。
「遅いぞ、あやうく……」
こちらに背を向けたままそう言いかけた男がこちらを振り向いて、途中で言葉を切った。
大滝桂人。
貴文にとってなんとなくけむたい、そして苦手な存在。
それは向こうにとっても同じことかもしれなかったが。
彼は貴文の姿を認めるとかすかに表情を動かし、リョウへ説明を求める視線を向けた。
「どこまで深入りさせれば気がすむ?」
ため息混じりの言葉は、けれど確かに優しげな響きを持っていて、それが貴文には意外だった。
冷たいだけの奴だと思っていたから。
感情の起伏も抑揚もない声と口調で衝撃的事実の説明をされたことが印象深すぎて、イコールそれが彼だと認識してしまっている。
ひよこの刷り込みと同じで、それはもうどうしようもないことだ。
けれどちらりと見せた違う一面に当惑したのもまた、事実だった。
「彼が納得するまで」
返したリョウの言葉は、貴文にとっては当然のことだったが、桂人にとっては違う意味に聞こえたらしい。
深い、深いため息で彼はそれに応えた。
「じゃあ俺は、お前が納得するまでおとなしくしてるさ」
そのまま、どっかりと木陰に腰を下ろす。
リョウは笑みを浮かべ、そして貴文を振り仰いだ。ここへ至るまでずっと引いていた手を離し、わずかに気遣う表情になる。
「……平気?」
一瞬何を問われたのか、理解できなかった。
けれどすぐに自分でも訝しげな表情になる。
……平気だ。
ここは鬼門であったはずなのに、あの日感じた頭痛も耳鳴りも、感じられない。
いたって平静な自分がいる。
そのことに自分でも首を傾げつつ、大丈夫だ、と答えた。
「そっか。ならよかった」
にこっと微笑んで、リョウは少し離れていく。
陽のあたるほうへ……川へ、近づいていく。
昨晩の大雨で増水したらしく、川の音は以前よりも近く大きく、激しく、聞こえた。
どくん、と心臓が音を立てた。
頭痛も、耳鳴りもない。けれど動悸がだんだん早くなる。
───駄目だ。
そっちへ行っちゃ駄目だ。駄目なんだ……!
けれど思いは言葉にならず、ぎゅっとこぶしを握って立ち尽くす。追いかけたくとも、体がこれ以上先へ進むことを拒否していた。
嫌でもあの日のことを思い出す。
リョウはいったい何がしたいんだ……?
彼が教えるといった「ほんとうのこと」。それがなんなのか、およそ見当もつかない。
本当のことならもう聞いた。
この場所は世界と世界の接点で、いわゆる時空の歪みってやつで、理帆はここから違う世界へ行ってしまったと。
それ以外の……それ以上の、どんな「ほんとう」があるというのか。
ただ思わず、その手を取っていたけれど。
「難しいことは俺にもよくわからないんだ。桂人なら専門的にも詳しく教えられるけど、そういうことが聞きたいわけじゃないでしょ?そういう意味で、信じられないんじゃ、ないよね?」
ゆっくりと振りかえりながら尋ねたリョウを、まぶしさに目を細めて見つめながら、貴文は答える。一言。
「ああ」
鬱蒼と茂る樹林の中、まぶしく開けた一角。
直径10メートルの円を真っ二つにぶった切ったような、形と広さの緑の地。
貴文と桂人はその半円の外に、リョウは中に、いる。
そうして川の方へと……半円を円と考えたときの中心の方へと、近づいていくのだ。
半円の中は、陽の当たる場所。
遠い昔、幼い貴文と康之がよく遊んだ場所だ。
そしてリョウは、理帆が消えたあの場所へ、到達しようとしていた。
「……じゃあさ。俺が今、ここから消えたら、信じてくれる?」
な、に……?
崖の淵、円の縁、そこからリョウが振り返る。
微笑んで。
「なに……する気だ……?」
心臓の鼓動がまた一段と早くなる。
やめろと心が警鐘を鳴らした。
あの日見たあの光景を、また俺に見せる気か……?
それだけは嫌だった。二度と、あんな思いはたくさんだった。
「おい!やめさせろよ……!何考えてんだよ、あいつ……あんたも!!」
貴文は脇の桂人へ向けそう怒鳴る。
悔しいことにそうするしか、できなかった。意気地のない自分の体は、今もなお、川へ近づくことを拒否する。
どうしても円の中に踏み入れないのだ。まるで金縛りにあったように。
桂人はそんな貴文の怒声もどこ吹く風、といった様子で、手にした電子手帳のようなものを眺めている……おそらく電子手帳などではないのだろうが。
と……不意にその余裕綽々な態度に亀裂が生じた。彼の表情が一瞬にして硬くなる。
「駄目だ……今"跳んで"は駄目だ……!タイムアウトになる……!」
その、切羽詰まった叫びと。
崖の淵のリョウの肩が不自然に揺れるのと。
それが、ほぼ同時。
そして。
貴文と桂人、二人の足がリョウへと走り出したのも、ほぼ同時だった。
桂人の言葉の意味なんて知らない。
奴がなんで走っているのかも、そんな必死の形相をしているのかも知らない。
けれど。
落ちて行く。
目の前で、また失われようとしている。
なにかに押されたように背中から川へ、リョウは落ちようとしていた。
昨夜の雨のせいで水かさが増している、その川へ。
───どくん。
耳のそばで、心臓の音がする。
───どくん。
あれほどに言うことを聞かなかった足が、けれど今は猛烈な勢いで駆けている。
なのに感覚はまるでスローモーションで。
───どくん。
手を伸ばす。この手に命を掴むため。
あの日と同じ間違いを、繰り返さないために。
───どくん。
触れる感覚。リョウの手首。
すりぬける……!!
見開かれたリョウの瞳にまっすぐに射抜かれる……その黒いキャップが風にさらわれ、視界の端に消えた。
……あの日の、麦わら帽子のように。
長い髪が中に舞う。
「おにいちゃん…………!!」
あと、一歩…………!!
手の中から命がすり抜けて行くのを見るのは、もうたくさんだった。
あの日踏み出せなかった一歩を、あの日足りなかった距離を、無我夢中で引き寄せる。抱きしめる。
腕の中のぬくもり。
つかまえた……!!
十二年かけて、やっとたどり着いた。
この瞬間に。
夢でなく、幻想でなく、ぬくもりがある。
確かめるように、かき抱いた。
すり抜けてしまわないように。
奪いとられてしまわないように。
ここにある、命を。
「理帆───!」
呼んだ名前は、間違いじゃない。