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君がここにいる奇跡

六章 還りゆく場所 其の一

すっかり明るくなった窓の向こうを赤い目でぼんやりと眺めて、貴文はため息をついた。

彼の心を映したように、昨晩は大雨だった。雨音を聞きながら一晩考えた。睡魔がまるで押し寄せてこないなんて、いつ以来のことだったろう。

けれど結局答えは出るはずもなくて……根本からして信じられるものがないというのに、なにがどうなっているのか理解できるはずもなくて。

理帆が生きている。志鶴という名前で、目の前に生きている。

そう聞いて自分が取った行動は、長年思い描いてきたものとはまるで違っていた。

逃げ出した。

そう、逃げ出したのだ。

混乱と当惑と後悔と疑問の渦が心の中に嵐を呼んだ。

そうして……怖く、なったのだ。

理解できない状況にいきなり放りこまれて、それでも自分の想いだけを支えに反撃してみたけれど、どれもすべて否定されて。

いや、否定、とは違うのかもしれない。

けれど、勝てなかった。

自分が一番の被害者だと……そう思い込んでいたから、千津穂の言葉は衝撃的だった。

───血がつながっていなければ、それは家族じゃないの……?

尋ねられるまでもなく、それは自分が一番よくわかっていたことのはずなのに……!

貴文の母可南子は貴文の生みの親ではない。貴文を生んだ母親は、彼がまだ生後間もない頃に命を落とした。

その一年後に父が再婚した相手が可南子だったのだ。

可南子は貴文のことを実の息子のように扱い、それは理帆を生んだ後も───そして、理帆を失った後も、変わらなかった。

貴文をなじる言葉の一つとして、彼女は口にしたことがない。

それだからこそ、貴文の中の罪悪感は増していく。ひそかに涙を流す母の姿を知っているから。

たったの4つだった。

可南子が我が子を失ったとき、理帆はまだたったの4つだったのだ。言葉の発音もままならず、「はひふへほ」の発音が苦手で自分の名前すらしっかりと言えなかった。「りほ」と言っているつもりが「りお」と聞こえる……そんな舌足らずさがかわいい盛りだったのだ。

重い、重い枷。

自分のせいではない?

そんなこと、どうしたら思えるのか。

理帆はいなくなった。この手の中から消えて。

その事実は決してなくならない……だから自分はずっと、罪人なのだ。

俺が殺した。

十二年、ずっと目をそむけながら、それでも抱き続けた思い。

だが、可南子は母であってくれた。

血のつながらない息子を、時に呆れた顔をしながら、ちゃんと愛してくれた。

わかって、いるのに……いや、わかっていたからこそ、なのか。

どうしても理帆に戻って来てほしいのは、なにも自分の罪を償いたいためだけじゃない。

無論、それが大きなところを占めることは否めない。

理帆が生きているなら。

自分は、解放されるのだ───。

忌まわしい罪悪感から。夜な夜な訪れる幼子の夢から。

救われる。

けれど、それだけじゃない。

今も小さな麦藁帽子を抱きしめる、そんな母の想いを、理帆は知らぬふりをするというのか。

そう思うから……やりきれないのだ。

けれどそれもすべて、理帆が手の届かない場所にいるからこそ言えた話。

目の前にいると、そう突きつけられた瞬間、すっかりわけがわからなくなった。

信じられなかった、というのももちろんあるけれど……なにかが、違うのだ。

理帆との再会はもっと感動的なものであるはずだった、自分の想像では。

誰に教えられなくともきっと心に触れるものがあるだろうと、そんな期待がどこかにあった。

それは、そんな奇跡がありえないと思っていたからなのか。

いずれにせよ、自分が逃げ出した事実は変わらない。

けれど、ではあの時どうすればよかったのだろう?

覚悟もなくいきなり妹ですよと言われた志鶴を、久しぶりだね会いたかったよと抱きしめればよかったのだろうか。

だが、妹だなんて思えない少女にそんなことができるわけもない。

何を誰にどう話せばいい……?

わからなくて、気がついたらあの家を飛び出していた。

聞かなければよかった。

こんな苦い思いをするのなら。

現実は、描いた夢とは天と地ほどもかけはなれていた。


家にいたらそのままずるずるといろいろなことを考え続けてしまいそうで、貴文は外に出た。

どこに行こうという目的もあてもない。

朝もまだ早いのにすでに高く昇った太陽の光が、徹夜明けの目に痛かった。

ぶらぶらと足の向くままに歩くことしばし。

自分の周囲をゆっくりと流れていく景色に、思わず立ち止まる。

───どこへ。

どこへ行こうとしているのだろう、自分は。

気づいて、愕然となった。

学校へ向かう坂。いつもは自転車で通る道を、ことさらゆっくり時間をかけて歩いていた。無意識に。

…………違う。学校じゃない。

立ち止まったまま、脇を見上げた。

そびえたつ、コンクリの壁……その、向こう。

青々とした緑が「隠し山」の存在を物語る。

なんでここに来た……?

自分にとって鬼門であるはずのこの場所に、なぜに自然に向かってしまったのか、貴文は一人首を傾げる。

混乱しているんだ。

昨日聞いた話があまりに突拍子なさ過ぎて、混乱している。だから、こんなところに足を向けてしまったんだ。

小さく首を振って、道を戻ろうと振りかえった。と。

「………────っ」

わずか数メートル先に見知った人物を見つけて、思わず息を飲む。

「リョウ……」

いつもと同じキャップをかぶった少年が、やはり足を止めてこちらを見ていた。

「なに、してるの?」

彼らしくない、少し硬い声でリョウが聞く。

昨日からなにか違和感があるな、と思った。……無邪気な、あの屈託のなさがない。

妙に人懐こいあの笑顔に、少なからずほっとしていたのだと知って、少しばかり動揺した。もちろん表には出さないけれど。

「…………散歩」

嘘ではないが事実とは少し違う答えを返す。

「ふぅん」

なにが、ふぅん、なのかよくわからないがそう言って、リョウは近づいてきた。

どう接すればいいかわからないまま、貴文はそれを待ちうける。

「……お前はなんなの」

ぼそりとこぼした言葉は、一瞬自分でもよくわからなかった。思わず口走っていたけれど。

え、というようにリョウが首を傾げる。

「千津穂の弟じゃないんなら、お前はなに?志鶴と一緒にいたよな?……向こうの、家族だとかいうわけか?」

言葉を足して尋ね直すと、

「まぁそんなとこ」

と味も素っ気もない返事が返ってきた。

そのまま、すれ違う。立ち止まらない。

「リョウ!」

自分の脇を通り過ぎてさっさと行ってしまおうとする少年を、貴文は思わず声で追いかける。

「……なに」

三歩ほど行きすぎたところで、リョウは仕方ない、というように立ち止まり振り返った。

「まだなんかあるの」

用件がないなら呼びとめるな、と言わんばかりの……いや、実際にそう言っている彼の態度に、貴文はいまひとつ強気になれず困惑する。

なんだろう。どうして。

「なんでお前が怒ってる?」

当事者ではないはずのリョウが、なぜ不機嫌にならなければいけない?

「俺が理帆を連れ戻そうとしてるからか?」

そう尋ねると、彼は少し顔を歪めた。

なんだ……?

そうして。

「……ほんとに帰ってきて欲しいの?」

リョウはそんなことを聞くのだ。いまさらなのに。

「当たり前だろう!」

間髪入れず答えた貴文に返るのは、けれどどこか複雑な表情。

リョウ……?

なにが言いたいのか、といぶかしく思った時。

「信じてないくせに?」

決して強くない口調で放たれた言葉が、ぐさりと胸を刺した。

「桂人の言ったこと、信じてないんだろ?俺が言ったことも、信じてないんだろ?なのに自分の妹が生きてるってことだけは、信じるんだ?信じたいんだ?それって勝手じゃない?」

言い募るリョウの言葉の一つ一つがぐさぐさとくる。

けれど、でも。

「だからって信じられるわけがないだろう!そんなお伽話みたいな話……!」

言い返した刹那、リョウの顔がまた少し歪んだ、ように見えた。

「本当はわかっているくせに……自分だって時空の歪みに入ってたじゃないか!」

投げつけられた言葉に、貴文は思わず息を飲む。

なに……?

そんなことは知らない。俺がいつそんな体験をしたと……?

「初めて会ったときだよ。この山の中で倒れてた。あの時、なにか変だと思わなかった?なにかおかしいと思わなかったの?」

「そんな……」

そんなことはなかった、と。

言おうとした口が途中で固まった。

無意識のうちに左手が首の後ろを触る。日焼けした肌。

ほんの数分気を失っただけだった……はずなのに、何時間も焼いたかのようになっていた、その場所。

まさか、そんな。

「あの場所で理帆はいなくなった。あの場所から理帆は帰ってきた。……あそこは、そういうところだよ」

遠い昔、幼い日。

康之と二人、遊んだあの場所。いつも日に照らされていた、不思議の場所。

理帆がいなくなった、場所───。

川に落ちた理帆が流れてついたのは、違う時間の流れの世界だったというのか。

それを信じろと───?

否定したいのに、言葉が出ない。リョウの強い瞳に、強い口調に圧されてしまっている。

そんな貴文へリョウは同じ言葉を繰り返した。

「ほんとに、理帆に帰ってきて欲しいの?罪滅ぼしのためじゃなくて?」

瞬間。

ずきりと激しく胸が痛んだ。

罪滅ぼしのためじゃなくて……?

「あた……りまえ、だ……」

答えたのは自分なのか。

それすらも遠い世界のことのように……ショックだった。

考えたことがない。本当に、考えたことがなかった。

理帆に戻って来てほしいのは、妹として大切だからなのか。

それとも……ただ単に自分の罪をなかったことにしたいだけなのか。

そんなこと今聞かれたって答えられるわけもなかった。だって自分でもわからないのに。

けれど、口が勝手に動いた。

嘘じゃない。帰ってきて欲しいのは、真実だ。

「だったら信じてよ。あなたがしなきゃならないのは、まずそこなんじゃないの……?」

リョウの言葉。

だけどそんなに簡単なものじゃない。言葉で押しつけられて、それをはいそうですかと納得できるくらいなら、とっくにしている……!

ぎゅっとこぶしを握り締めて黙った貴文に、リョウはその手を差し伸べた。

「来て。"ほんとのこと"を教えてあげる」