君がここにいる奇跡
五章 夢幻想 其の三
嘘だ、と。
つぶやいた彼のかすれた声を思い出し、千津穂の胸はいたんだ。
あんな顔をさせたくなかった。
呆然としていた、彼。
信じられないと、必死で否定していた彼。
だけど、これは本当のこと。
そして、彼にあんな思いを、あんな顔をさせたのは、わたし───。
ほんの少し前、知ったかぶりな顔で理帆に説いて聞かせたところだというのに……。
「そんなに弱いかな、あの人」
膝を抱えてぽつりとそんなふうにもらした理穂に、千津穂は首を傾げる。
「貴文。そんなに弱いと思う?」
めったに見せない気弱な顔で聞かれて、正直困った。
彼女の求める答えはわかりすぎるほどにわかっている。
彼女と自分は違う。違うのに、同じ道を選んだ。同じ答えを出した。
……だから、彼女と自分では、捨てるものも違う。
時折彼女の瞳をよぎる羨望の色に、気づかないわけはない。……けれど、それも彼女の出した答え。
だから…………。
「理帆ちゃん。わたしの家族……どう言ってた?」
答える代わりに、そう尋ね返した。理帆はほんの少しきょとんとして、それでも律儀に答えてくれる。
「千津穂を心配してた。……わたし、嫌われるかなって少し怖かったけど……千津穂の選択を尊重するって」
記憶にかすかに残る家族の姿……そう、と静かにうなずいた。
「貴文もそうじゃないかな?物分かりよさそうに見えた……ちゃんと話せばわからないかな?「理帆」は生きてるって、それで安心しないかな?」
それが無理だと自分でもわかっているくせに、そう思いたがろうとしている……そんな口調の理帆へ、だから千津穂はわざと違う言い方をする。
「理帆ちゃんはすっかり向こうになじんだんだね」
かすかに笑ったのだろうか、自分は。
え?と理帆が首を傾げた。
「だって。忘れてる。樹川くん、そんなふうに思えないよ」
あえて決めつけた言い方をしたら、案の定だった。
むきになった顔をする。
「……なんでわかるの?」
予想していたから、静かな口調で答えられた。
「わたしがこっちの世界の人間になっちゃった、からかな」
いぶかしげな表情が返ってくる。
……その表情こそが、答えなんだよ、理帆ちゃん。
心の中でそっと、つぶやいた。
「理帆ちゃん。『これ』はね、この世界では『ありえないこと』なんだよ?それ、覚えてる?」
尋ねると、少しだけむっとしたみたいな答えが返ってきた。
「覚えてるよ。当たり前でしょ」
「でも、わかってない。ね」
ほとんど間髪入れないで、返した。ぴくん、と理帆の片眉が反応する。
その機先を制するように、千津穂は続けた。
「理帆ちゃんは、自分が体験してるから何の疑問もなく事実だって受け入れられるけど、樹川くんにとっては、違うよ?」
わからない、と理帆はかぶりを振る。
「なんで?だって事実じゃない。なにが違うの?」
小さく息をついた。
わかってるはずなのに。
誰よりわかっているから……わからないふりをしたくなるのかもしれないけど。
他の誰にも言えないことだから、わたしに言うのかもしれないけれど。
千津穂にも、重いと思うことがある。
……いくらにこにこと笑っていても。
「だから、『ありえないこと』なんだってば」
「だって!千津穂も千津穂の家族もわかってるじゃない。納得してるじゃない。どうして、わたしの家族だけダメなの?」
だだっこのように悔しそうにそう言ったって。
千津穂にはどうしてやることもできない。
「理帆ちゃん。人の言うこと、ちゃんと聞いてね?わたしはあっちの世界を覚えてる。あっちの家族を覚えてる。だから納得できる。わたしの家族はそういうことがあるって知ってる。ありうることだってわかってる。だから納得できる。理帆ちゃん、あなたは……あなたは、あまり納得してないね?向こうに行ったのが小さすぎて、向こうの方が本当の世界になっちゃったから。……だけど、樹川くんを覚えてた」
噛んで含めるような千津穂の言葉に、理帆は素直にうなずく。
「……うん」
「樹川くん以外はね、みんな『知ってる』のよ。世界が一つではないって。こういうことが『起こりうること』だって。でも樹川くんにとってこれは、常識どころか可能性の一つにもないことなの。樹川くんはこの世界しか知らないんだもの。……理帆ちゃん、あなたがいるのは『未来』なんだよ?だけどここでは、未来から人間がやってくるだなんてこと、空想の出来事でしかないの。現実ではあり得ないのよ」
ぎゅっと理帆がこぶしを握った。
「だけどわたしは来てるじゃない」
いつものあなたと、全然違うね。
心の中のため息をそっと底に沈めて、強く返す。
「それでも信じないよ。それが彼にとっての現実だもの」
「でも!わたしはいるよ?理帆は生きてるよ?貴文に知らせたいよ、生きてるって。心配しないでって」
きっとこんな彼女を、自分のほかの誰も、知らない。
強気で元気で……必死にそうやってる彼女しか、きっと知らない。
それが痛くて、そうだね、と同意しそうになるのをぐっとこらえた。
だけど。わたしにも守りたいものがある。あるから。
「でもあなたは未来の世界に帰るでしょ?選んだよね?」
言葉に詰まった彼女に、追い討ちをかけるように、尋ねる。
「あなたの妹は生きてます。未来の世界で暮らしてます。どうしても知らせたくて会いに来たけど、もう二度と会えません。……そう言うの?」
黙りこんだ理帆の口元が固く引き結ばれていた。
最後の意地で、泣かないでいるのがよくわかって……千津穂もそれ以上は言わなかったけれど。
言えなかった、けれど───。
なのに、なんという皮肉。
結果的に自分が貴文に知らせることになった。理帆は生きていると。
それも、自分の感情に流されてだなんて、なんて最低。
そしてあんな顔を、させた。
そのことが千津穂の胸に暗い影を落とす。
ごめんなさい。
そう言うしかなかった。
それ以外の言葉なんて、見つからなかったのだ。
その時の貴文の眼を、自分は多分一生忘れない。
愕然と、自分を見ていた。
裏切られた。……そう言われたような、気がした───。
「俺は……全然納得なんてしてないけど。信じられるわけなんかないけど。だけど今はそんなこと言ってたら話が進まないから──」
ずいぶんと長い沈黙の後、貴文はそう口を開いた。
そうして、今自分が聞いた話を自分なりに整理して、確認する。曰く、
「世界は一つだけど、一つじゃない……正確には、現在、過去、未来という世界が無数にあって、すべてはつながっているけれど、それぞれ独立した世界になっている。そしてそのつながりは時空の歪みという形で現れ……時にその歪みに巻き込まれた人間が、違う世界に飛ばされることがある。今回の場合、それが理帆で……。飛ばされた世界が過去だか未来だかは知らないが、そのことでその世界の均衡が崩れる危機に陥った。そこで世界の自己修復能力が働いた。つまり理帆が欠けたこの世界の穴を別のもので埋める……里中で埋める。……理帆は、違う世界で、生きている」
そういうことだよな?
尋ねた彼に、桂人は「頭は悪くないらしい」というような表情でうなずいてみせた。……彼に敵が多い所以はこのあたりにあるような気がしないでもない。
案の定、貴文はむっとしたようにわずかに口を尖らせ、言葉までも尖らせる。
「だったら……!理帆が生きて別の世界にいるというんなら、帰ってくるのが正当じゃないか?なぜ帰ってこないっ?」
声を荒げる彼に答えたのはリョウだった。
「『選んだ』からさ。理帆は向こうの世界を"選択"したんだ」
らしくないな、と千津穂が思うほどに冷たい言い方でリョウは告げる。
「選択……?なんだよそれ。関係ないだろ、理帆はこの世界の人間だ……ここが、あいつのいるべき場所だろう!!」
テーブルの上のこぶしを固く固く握って、彼はそう言う。
その一言一言に千津穂の胸は痛んで痛んで……けれどどうしようもなくて。
選らんだのは自分。固い決意を持ってそうしたのは、自分。そして、彼女。
なのだから。
「個体が一定時間以上一定空域に存在することは、そこに変化をもたらす。君の言っていることは一見正しいように聞こえるが、それはこの点を無視している」
淡々とそんな答えを返すのは桂人だ。理詰めで押しきろうとする彼に、その『理屈』すら納得できない貴文は食ってかかる。
「理屈なんか知らない。だけど理帆は俺の妹だぞ。ここで生きてくべき人間だ。本来そっちの世界とは何の関係もない人間だろう!」
がん、と彼のこぶしがテーブルをたたいた。それほど強い力ではない。けれどその行為を自制することができないほどに、彼が苛立っているのは確かなことだった。
「理屈じゃない、"真理"だ。無視すればバランスが崩れる」
「崩れたらどうなるって……」
「言っただろう。文字通り"崩壊"だ。すべての。過去も現在も未来も、すべて消えてなくなる。そういう、危うく際どいバランスの上に成り立っているんだ、世界は」
貴文と桂人の応酬。先に言葉に詰まったのは貴文のほうだった。
あきらかに戸惑っている。彼の予想以上に規模の大きな話になったからだろう。
だってこんな話、学校では教えてくれない。
受験にだって、出てこない。
「……けど、なら。理帆が自分で選んだことなら、いいんだな?」
さっきリョウが言ったことを思い出したのか、貴文はそう言った。話の矛先を変えるように。
そんな彼に、けれど桂人の返す言葉はやはり容赦もにべもない。
「理帆だけでは駄目だ。理帆と千津穂。双方が合意しなければ」
そこで。
もう一度彼がこちらを見た。
貴文が───千津穂へ、救いを求める視線を向けた。
きゅっ。
心が痛むのを嫌というほどに自覚しながら、それでも千津穂は強く彼を見返す。
強く、言葉を返す。
「わたしは変えないわ」
前と同じ言葉を繰り返した。
貴文の向ける視線が、失望に変わる。そしてそれは怒りへと。
「なんでだよ、里中っ?お前にだって家族がいるんだろう?本当の家族が!なんで帰ってやらないんだよ、きっと待っ……」
「わかったようなことを言わないで!」
彼の言葉は時として恐ろしいほどの鋭さを帯びる。そうして刃のように傷つける。傷つけられた痛みから自分を守ろうとして、千津穂の声も尖った。
「本当の家族……?それってなに?自分のことだけしか考えてないよ、樹川くん。十二年だよ?ずっと一緒に暮らしてきた。愛情を注いでもらった。それは家族じゃないの?血がつながってないからそう言うの?だけどわたしにはとても大切な人よ!どうして一人にできるのっ?」
───ごめんね、千津穂。迷惑、かけて。
脳裏に響く義母の声。
なにいってるの。
笑って否定した。あれは嘘じゃない。
迷惑?そんなこと、ちらとも思ったことなどなかった。
そりゃあ寂しくて心配で心細くはあっても。
ちゃんと役に立ててなかったら、と思うと申し訳なさでいっぱいになっても。
この人の為に何かができる。
そのことの方が嬉しかった。
この人が嬉しそうに笑ってくれるなら、なんでもしよう。
そんな想いは、けれど血のつながりがなければ否定されてしまうというのか。
貴文の気持ちがまるでわからないわけじゃない。自分にも覚えのあることだから。自分が別の世界から流れてきただなんて話、最初はどうしても信じられなかったから。
けれど記憶があった。
この世界とは違う場所の記憶。
母とは違う女性を母と慕う記憶。
『あちら』の世界では、16になると法的に成人したとみなされて、ある種の決定を下すことができるようになる。自分のもといた世界に戻るか、あるいは現状維持を望むのか。その決定を『選択』と呼ぶのだ。そして、この夏、理帆は16になり……『選択』の時は訪れた。
だが、選べと言われて迷うことはなかった。
考えるまでもなく心は決まっていた。
けれど……。
優しい人なのに。
なのに彼にはわかってもらえないのか……。
それが寂しくて、千津穂の胸はまた痛くなる。
その視線の先で、貴文ははっとしたような顔をした。
「一人……?」
「千津穂は母親と二人家族だ。彼女が帰れば、病床の母は一人で取り残される」
桂人の言葉に、彼の視線はリョウへと向く。
「親父と……リョウ、は……?」
突然の指名にリョウは面食らった顔をした。
「は?なんで俺?」
「だってお前、弟だろ……?」
リョウだけでなく、千津穂までもが思わず目をぱちくりとさせた。
そんなふうに思っていたとは。
「違うよ」
ふるふると首を横に振るリョウに、今度は貴文の目がぱちくりとなる。
「え?」
混乱しているような様子の彼へ、千津穂は静かな声で言った。
「父と弟は2年前に交通事故で死んだわ。今は二人っきりよ」
生きてれば理帆と同じ年だった……遼平。
そうか、と思い出した。
さっき聞かれたんだった。家の前、表札を見ていたときに。
遼平って弟?
それってこういう意味だったんだ。全然気づかなかったけれど。
あの時はただ、二つ下という言葉に妹を思い出しているんだなと思っただけだったけれど。
思わずといったように黙り込んでしまった貴文は、けれどやがて、だけど、と言葉を継いだ。
「だけど、里中だってわかってないよ。俺のおふくろは十二年、ずっと悲しんでる。理帆がいなくなった日が近づくにつれ、どうしようもなく重い空気が家の中に立ちこめる。……その度に俺は、自分のしでかしたことの大きさをつきつけられて、逃げるしかなくなるんだ。俺はあの人の娘を殺した奴なんだよ。理帆が戻らない限り、ずっと!」
悲痛な声だった。
知らない痛みの声だった。
だけど、だけど、だけど────!
「理帆は戻らないわよ」
それでも譲れない、と千津穂が口にするより早く志鶴の言葉が滑り込んだ。
「あなたの苦しみは認める。だけどそれはあなた自身の問題であってわたしたちの知ったことじゃないわ。……だってあなたはもう、理帆が生きているって知っている」
殺したと悔やむ日々に終止符は打たれたはずだと、彼女は暗にそう告げた。
「なんであんたがそんなこと……。それは本人が決めることだろう!」
むっとしたように声を荒げる貴文に、また別の声が割って入る。
「だから本人が決めたんじゃん」
リョウだった。
いつも見せる無邪気さもどこか飄々とした様子も鳴りをひそめて……今は、真剣そのものの表情。
そして。
「まだ気づかないの?本人が来てないわけないじゃない?理帆はここにいて、ちゃんと兄貴としゃべってるじゃない」
恐らく、その場にいた誰もが凍りつきそうになっただろうと、千津穂は後にそう思った。それぞれ違う意味で。
そんな一瞬だった。
まさか、という表情をする貴文、焦りまくる志鶴。
桂人は表情こそ変わらないものの何を言うのかとリョウを注視しており、千津穂もまた驚いて見つめるばかり。
そして爆弾発言をした当の本人はというと、
「ごめんね、志鶴。いや、…………理帆?」
悪びれもない様子で志鶴へ向け、にっこりと笑って見せたのだった。
「なっ……」
絶句する彼女に、リョウは続ける。
「秘密って約束、破るね。だってそれってやっぱりフェアじゃないじゃん?もうここまで首突っ込んだ以上、貴文にだって知る権利あるよね?」
それぞれの思いを乗せて、沈黙がその場を支配した。