君がここにいる奇跡
五章 夢幻想 其のニ
かたん、と。
置いたグラスの中の揺らめきを、貴文はどこか焦点の合わない瞳で眺めた。
───嘘だ。
体中に渦巻く言葉。思い。
それはひとつだけだ。
「……嘘だ」
全身を巡る血が叫び出すかと───そう、思った。彼の話を聞いたとき。
信じられない。信じられるわけがない。
信じるわけには、いかない───。
そんな話を、けれど彼はした。彼らは、した。
あの家に5人。その中で、それを信じられずに否定したのは、貴文ただ一人。
他の四人が事実と受け入れていることを、けれど彼はどうしても受け入れられずにいた。
こんな、馬鹿な話があるもんか……。
そう思うのに、なぜ自分は動揺するのだろう。彼の話が真実でないならば、その理由はないというのに。
また、一口。
置いたグラスを取り上げ、彼は喉の奥に水を流し込む。
家に帰ってきたのは、もう一時間ばかり前のことになる。家の中はひんやりとしていて、外の暑さはすでに過去のものだ。
けれど、貴文の喉は、いつまでたっても乾いていた。
頭の中も熱を持っているかのように、まるで考えがまとまらない。
ただ、繰り返すだけだ。嘘だ……と。
誰かに肯定してほしかった。自分が正しいのだと。彼らの言うことは嘘だと……あの話を信じる必要はないのだ、と。
だが───。
誰にできるというのか、こんな話。
誰が真剣に聞くというのだろう。誰に、真剣に話せるというのだろう。
こんなとき、脳裏に閃く名前はただ一つだ。
康之。
彼なら───彼なら、聞いてくれる。そして、きっと欲しい答えをくれる。
わかっていた。……だからこそ、その名を、心の奥深く、沈めた。
彼に頼るわけには、いかない。彼は彼の道を選んだ。
いつまでも同じ思い出に浸れるわけではない。
いつまでも───この重荷を共有させられない。同じ道を、歩むのではないのだから。
ごくり。
喉の奥に感じる冷たさに、祈る。願う。
これが、悪い夢であったなら───と。
我ながら情けないと思いつつ、けれどそうせずにいられないほどに貴文は、混乱、していた……。
───ここに、天秤がある。
そんなふうに、彼───大滝桂人は話し始めたのだった。
───ここに、天秤がある。
2つの皿には同じ重さのおもりが乗っている。
つまり左と右───ふたつは、つりあっているわけだ。
両手の手の平を天井に向け、天秤皿に見たてて同じ高さにしてみせる。
小さな子供に理科の実験をさせるような……そんな口調で。
───けれど、とある偶然で、左のおもりのごく一部がが風にとばされたとしよう。飛ばされたのは、とてもとても小さなものだ……一見しただけではわからないくらい、ね。
そう言った彼は、だが、と続けた。
───飛ばされたおもりが右の皿のおもりに加わったとしたら……この天秤は、どうなる?
この天秤は、どうなる?
答えを待たずに、彼の手が動いた。
左が上がり、右が下がる。……均衡が崩れた。
それを無感動な瞳で見やりつつ、彼はさらに尋ねた。
───この状態を元に戻すには、どうしたらいい?
話の主旨をいまだ飲みこめず、ただ黙っている貴文へ、彼は告げる。
───簡単なことだ……同じだけのおもりを、左に返してやればいい。
かたん。
天秤は、戻る。均衡を、取り戻す。
貴文は、ぎゅっと手を握った。わけのわからぬ不安に……握り締めた拳で耐えようとした。
───世界は、脆い。あちこちに穴があるくせに、バランスを崩せばあっという間に消えてしまう。われわれは、危うすぎるほどに儚い均衡の上に生きているのさ。
なにを……彼はいったい何を、言っているのだろう?
天秤と世界……均衡……。
何が、言いたい?
───人にも自然治癒力というものがある。それは知っているだろう?
彼の話は、まるで脈絡なくあちこちへ飛ぶ。
いや、脈絡はあるのかもしれない。自分が気付いていないだけで。
だとしても……理解できないことに、変わりはない。
だから、黙って彼の口にする言葉を、耳におさめていくしかない。
───世界にも、あるんだよ。自己修復能力……とでも呼ぶべき力が。
欠けてしまった部分を別のもので補う……足りない部分を補完しあう、システムが。
補完?
なにとなにが、補完しあうというのか。
世界は一つだ。自分たちが生きている、この時代。
他になにがあるというのか。
───穴から落ちた因子を、別の因子に置き換える。
左から失われたおもりを、右のおもりが補うように。それは、同じものでなくてもいい……質量が同じであれば、均衡は崩れない。
まるでわけのわからない言葉の羅列───それがじわりと形を成し始めていた。
同時に言いようのない不安が心に巣食うのがわかる。
痛いほどに拳を握り締めても消えようのないほど……それは、色濃く深く、貴文の内にあった。
───失われたのは理穂、補われたのが、千津穂……。
信じない、とかぶりを振った。
これ以上はもう、聞きたくない。
そんな貴文をしっかりその目は捉えているのに、けれど彼は続けた。
───補完しあう世界は……過去、現在、未来。時空の歪みがあるのは、そのためだ───。
貴文が信じようが信じまいが、それが真実なのだと彼は告げた。
それは宣告にも似て。
貴文が信じてきた日常を根本から揺るがすような、そんな力を秘めて。
「嘘だ……」
しぼりだした言葉。
握り締めた拳をかすかに震わせ。
「嘘だ……」
こんな、人を馬鹿にした話があるか。
こんな話を信じろと───!
四人を順に睨みつけた目が、最後に千津穂と合った。
悲しそうな……痛みを堪える色をたたえて。
「ごめんなさい」
否定ではない。
聞きたくなかった言葉を、彼女が紡いだ───。