君がここにいる奇跡
六章 還りゆく場所 其の三
「この……馬っ鹿っ!!」
バチーン、と。
小気味のいい音が響いた。
平手打ちを見舞われた少女は頬を抑えつつ、殊勝な態度で頭を下げる。
「ごめんなさい」
長い髪がはらりと落ちて、彼女の顔を隠した。その、陰から。
「……って、叩いた方が泣くのはこの場合なにか逆よね……」
ぼそり、そんな言葉がもれたりして。
涙でぼろぼろの顔をしながら平手を見舞った少女の神経を逆撫でる。
「あんたは……っ!全然反省してない……!」
ふるふると拳を握りしめる様子に、今度はその拳を見舞われては困ると思ったのか、ぷるぷると首を横に振り、
「してるしてる。誠心誠意平身低頭ほれこのとおり」
……どこがと思わず突っ込みたくなるような態度であった。
「……志鶴ちゃんかわいそう……」
横で小さくつぶやいた千津穂の言葉に、貴文は思わず苦笑する。
千津穂はそう言うが、志鶴の気持ちはわからないでもない。どころか、先刻彼だってまるで同じような反応をしたのだ。
あの、後。
あわや増水した川へ転落……といった事態を免れた、後。
貴文がまずしたことは、今の志鶴とまったく同じことだった。
さすがに手加減したけれど。
リョウという少年だったはずの少女は、そのときはとてもしおらしくしていた……が、今のこの態度をみると、あれも演技だったのでは、と思えてくる。
計画では、川に落ちずに時間を移動する予定だったらしいのだ。だが、それにはタイミングが必要らしく、ちょうどあのときは時空の歪みとやらが消えうせている瞬間、だったとあとで桂人が説明した。
あのまま川に落ちていたら、ほんとうに危なかったと……青い顔の彼の言葉に改めて肝が冷える思いだった。
あまりに強烈な種明かしを食らったせいで、どこか麻痺したような感覚が残っている気もするし。
だが、不思議と順応している自分がいた。
理帆が生きていると聞いたときも、別の世界から来ただなんて言われたときも、志鶴が妹だとはっきり言われたときも……いつも壁一枚を隔てたような、ブラウン管でも眺めているような感覚があったが、今はそれがない。
志鶴も桂人も、そして理帆も。
同じ世界の住人だった。
手を伸ばせば届く。ちゃんとぬくもりがある。
確かめずともそれが実感できた。
「樹川くん、びっくりしたでしょう?」
まだ志鶴のお小言が続く中、千津穂の小さな声がささやいてくる。
「そりゃあね」
かすかに浮かぶ苦笑は、けれど、決して苦いものではない。
人懐こい少年だと思っていた。その次は千津穂の弟だと思った。そして、理帆の新しい家族だと。
気づく機会はいくらでもあったのだ。そう、本当にいくらでも。
彼女は何度も何度も自分の前に姿を現しては、ヒントを残してくれていたのだから。
彼女がそう意図したにせよ、しなかったにせよ、それは確かにあったのだから。
なのに、まるきりそんなことをちらとも思わなかったのは。
「……なんで男の真似があんなに板についてるんだ?」
よもや十二年成長してああなるとは予想できなかったぞ、と貴文はぼやく。
志鶴がそうだと言われれば、ああそうかも……とは思う。千津穂を指してそう言われても、そう思うだろう。
けれどまるきり少年にしか見えないのに、もしや妹かなどと疑うはずもないではないか。
すっかりだまされた、といじける貴文に、千津穂はくすくす笑いながら答えた。
「どうしてもおにいちゃんに会うんだって頑として言い張るから、だったら絶対ばれないようにしろって志鶴ちゃんが言ったんだって。それならいっそ男になりすませばいいんだろう、やるからには徹底的に……って張りきっちゃったらしいのね」
なんというか、らしいというか。
結果的にはばれてしまったわけだが、あんなことがなければ自分は今も、リョウは男だと信じていただろう。そうしてきっと、真実も見つからなかったのだ。
幼い頃「りほ」という自分の名前がきちんと発音できずに「りお」と言っていた彼女だが、助けられた当初はそれがどうも「りょう」と周囲には聞こえたらしいのだ。ゆえにそれが彼女の通称となっていたわけだが……それもだまされる要因の一つであったと、貴文は思っている。
志鶴にしても千津穂にしても、「リョウ」と呼ぶことにまるで違和感がなかった。
疑いをさしはさむ余地を、みんなして自分から奪っていたのだ……。
などと。
だまされたことが悔しくて悔しくて、心ひそかに恨めしく思っていたりする貴文なのだが、問題はそれで終わりではない。
理帆が生きていた。それは認める。
彼らの住む世界が、別にある。それも……実感はないが、認めよう。
だが。
理帆がそこに戻ることに賛成も納得もまだしていない。
全然、していない。そのことを忘れてもらっては困る、とじゃれあう志鶴と理帆を見つめた。
その視線に気づいたわけでもあるまいに、理帆はくるりと兄の方を振り向くと、ぱたぱたと近寄りその背中に隠れて、志鶴にあっかんべーなんてものを向ける。
あのなぁ……。
呆れて思わずがっくりと肩を落とす貴文の肩を、ぽんと叩く者一人。
振り向くと、康之だった。
「おまえ、なんでここに……」
ここ、とは、里中家のリビングである。
先ほどまでその影などちらともなかったのに、いつのまに現われたのやら。
「わたしが呼んだの。みんなの了解をもらって」
千津穂の言葉に、康之が軽く肩をすくめた。
「大体の話は聞いた。……なんか、聞くだけ聞いてまだ頭がついてってないけどな」
苦笑する彼に、貴文も同じ笑顔で返す。
「俺も似たようなもん」
当事者がこれでいいのかと、相変わらず声を大にして言いたいが、
「これで全員集合だね」
にっこりと笑った妹の笑顔にその言葉はどこかへ消える。
思わずつられて笑い返した貴文に康之が呆れたような顔をしたが、見ないふりをした。
どうせ俺は女に甘いですよ。
人間、たまには開き直りも肝心である、と悟った貴文だった。
「では、本題。まず……おにいちゃん。それから、やっちゃん。ずっと心配かけて、ごめんなさい」
ぐるり全員を見回し、ついで貴文と康之の前でぺこり、と頭を下げた理帆に、康之がくすぐったそうにつぶやいた。
「やっちゃんだって。懐かしい呼ばれ方だな」
そういえばそんなふうに呼んでいたっけな、と貴文も思い出す。
自分を呼ぶ声ばかり夢で聞いていたから、すっかり忘れていたけれど。
「それで、……いきなり信じろというのが無理な話なのはわかるの。わかってるつもりなの。だけど、否定しないでほしい。わたしが未来の世界で生きてきた、生きているっていうのは、本当のことだから。おにいちゃんたちがこの世界で生きているのと同じほど、確かなことだから」
まっすぐな目で、真摯な瞳で理帆は言った。
そして、と続ける。貴文だけを見つめて。
「わたしがわたしの家に帰ることを、許してください、おにいちゃん。……おにいちゃんにとってははるか未来の、だけどわたしにとっては今の、家に」
貴文は黙って妹の瞳を見返した。しばしの沈黙。
ややしてから、静かに尋ねる。
「理由を聞いてもいいか?」
千津穂がとどまることを望んだ理由は聞いた。納得もした。
けれど理帆のそれは聞いていない。
頭から駄目だと言わない自分を内心で誉める。そうすることでなんとか平静を保った。
「……たくさん、あるの。今の家族が大事、友達が大事。好きな人もいる。でもね、それっておにいちゃんが大切じゃないってことじゃないの。こっちの世界のお父さんやお母さんが大事じゃないってことじゃ、ないの。だけど、わたしにとっては、未来の世界が、自分のいる場所なの。帰るところなの。大切な思い出を、そこで築いてきたの」
偽りのない言葉で、理帆が懸命に伝えようとする。
比べられるものじゃない。けれど選ばなければならない。
たくさんたくさん考えて、悩んで、彼女は決断したのだ。
「……母さんに、会わないのか?」
「悲しませるから。本当は、だからおにいちゃんにも会っちゃいけなかったんだよね。……だけど、会いたかったから。わたし、向こうに行ったとき、おにいちゃんのことしか、覚えてなくて」
きっと最後の記憶があまりにも鮮烈に焼きついたためにそうなったのだろう、と医者は言ったという。
両親についての記憶は希薄というよりもむしろ皆無に等しい理帆だったが、兄についてだけはよく覚えていた。
会いたい会いたいと、始終泣いていた……ということは、後で志鶴がこっそり教えてくれたことだ。
「おにいちゃん、ごめんね。……ずっと、辛い想いをさせて、ごめんなさい。これからも……ごめんなさい」
理帆のつむぐ言葉の一つ一つが、心に積もっていく。
それは寂しさを伴うものの、苦さと痛みをもたらすことはなかった。
「俺を、恨んでないか?」
小さな妹を1人ぼっちにした。
たった1人、知らない世界に放り出されて、彼女はどんな思いをしただろう。
そんな経験のない貴文には、ただ想像することしかできない。
けれど、理帆は笑うのだ。ふんわりと、とても優しく笑うのだ。
「そんなこと、一度もなかったわ、おにいちゃん。わたし、とっても幸せだった。これからも幸せでいるつもり。おにいちゃんを恋しく思うことはあっても、恨んだことなんてなかったよ」
そうか。
じわり、と目の前が滲んだ。
あれは、悪夢なんかじゃなかったんだな。
毎夜訪れては呼んでいた、あの子。
恨んでいたんじゃない。探して、くれていたんだな。
会いたいと、そう思ってくれていたんだな。
「おにいちゃん」
呼ぶ声がする。耳元、とても近くで。
みんながいるのもおかまいなしに、貴文は理帆を抱きしめた。
その肩に額を乗せて、ささやく。
「……ありがとう」
かすかにうなずいた妹のぬくもりを感じながら、彼は静かに泣いた。
別れは、とてもあっけなかった。
幼い頃よく遊んだあの場所から、理帆と志鶴、桂人の姿はまるで溶けるように消えてなくなった。
貴文たちの見ている前で。
別れも言葉も、再会を誓う言葉もなく。
ただ、じゃあねと言って理帆は帰って言った。
我ながらよく行かせたものだと、彼女がいなくなった今でも貴文は思う。
本当は何がなんでも止めるべきではなかったのか。
そう思う気持ちは残っている。
たかが数日共に過ごした程度で、それは消化できるものではない。
けれど。
妙にすがすがしい気分になっているのも、また確かなことだった。
理帆が、しっかりと自分の目を見て正直な心をさらしてくれたからだろうと、そんな推測はするのだけれど、はっきりとした理由はわからない。
帰り際、桂人がささやいていった言葉がある。
「俺が、ちゃんと見ているから」
その言葉に、数瞬首をひねった。どういう意味かと。
やがてそれこそが彼がここに来た意味なのだと理解して、安心した。
理帆が言っていた好きな人というのも、彼のことだろう。いつだったか、志鶴が言っていた、理帆は桂人を選んだと。だからきっと、そういうことなのだ。
一抹の寂しさがあるにはあったが、あの頼り甲斐のありそうな男のことだから、任せても平気だろうと思うことにした。
心配しても手の届かないところではしょうがない。信じるしかないのだから。
「それにしても、志鶴はなんだったんだろうな」
帰り道、何気なく思って口に出した。千津穂はそのまま病院へ行ってしまったので、今はいない。
「検分役だとかって言ってたぞ」
康之の答えに、わずかに首を傾げる。それに対して説明してくれるところによれば、なんでも「選択」には立会人のようなものが必要で、志鶴と桂人はその役目を担っていたということらしい。
本来桂人はその立場ではなかったのだが、あまりにも貴文が深入りしすぎたことを見かねたお偉方がなんとかしてこいと送り出したのだ……そうだ。
「なんでお前のほうが詳しい……」
ぼそりとそうもらすと、康之はしれっとして答えた。
「俺はお前と違って、ポイント押さえるからね〜」
悪ぅござんしたね、と小さく拗ねる。
「それにしても、あの人若いよなぁ……」
なにか感心したように康之が言うので、貴文はん?と首を傾げた。
一体誰の話だ?
流れから察するにそれは志鶴のことなのだろうが、感心するような年齢なのだろうか。……というか、見た目通りではないのか?
訝しげな貴文の様子に、康之はやっぱりな、という顔をする。
「気づいてるはずないとは思ってたけどな。……まぁ、自分の妹のことも、ずっと男だと思ってたんだから、しょうがないか……」
でもなにか嘆かわしいよなぁ。
などと言われても。
「だって、わからなかったんだからしょうがないだろう……」
「俺なんか、一目で女の子だってわかったのになぁ……」
………………。
だからあの時、かわいいだのなんだのと言っていたのか、と思い出した。
康之の家の前で理帆に会ったときに。
自分が鈍感なのか、康之が鋭すぎるのか。
大体、女の子への免疫に差が有りすぎるというのに比較してほしくない、と思う。
「……結局お前、どうすんの」
話をそらそうという意図半分、真面目に聞きたかった気持ち半分。
なにを、という主語はあえて省いた。
わかっているのかいないのか、ん〜?と康之はのんびりした口調で答えた。
「前に言った通り。卒業したら働くよ。真面目に就職活動やってますよ?」
冗談めいた口調の中に、確固とした意志が見える。
そっか、とつぶやいた。
彼は縛られたのだと思った。けれどそうではないのだ。
彼は自分で自分の道を行く、そんな自由を選び取った。
それだけのことだ。
そうして、この先の道に、康之はいない。同じ道は、歩まない。
「俺は大学に行くよ」
静かに、貴文は伝えた。
それはここ数日ずっと考えていたことだった。そうして出した、結論だった。
「物理、一から勉強する」
康之がまじめな顔でじっと見た。やがてその口元にゆるやかに広がる、少し皮肉げな笑み。
「……へぇ」
「なんだよ?」
その反応に、貴文は少し眉をひそめた。
そんな彼に康之は変わらぬ表情のまま、言うのだ。
「別に。……がんばれよ、未来の博士」
「なんなんだよ?」
貴文は照れ隠しのようにそう言ってあらぬ方をみやった。
人に笑われる道を行くのかも知れない。
けれど、いいじゃないか。
理帆たちは未来の世界からやってきた。今はまだ未知の方法で。
その領域を誰かが開拓したから、来れたんだ。
だったら。
その誰かになれる可能性はゼロじゃない。
少し前の自分なら、決して考えもしなかったであろう未来のビジョン。
だがそれは今、確かな目標としてそこにある。
そして。
隣りでくすくすと笑う康之を横目で睨みつけながら、貴文の口元にも笑みが浮かぶ。
一から十までをいちいち説明しなくても、康之にはわかっているみたいだ。
大丈夫。
進む道が分かたれても。
同じ時の中にいる。
「それで……志鶴っていくつなんだ?」
そういえば、と思い出して聞いてみた。にやり、と康之が笑む。
「聞いて驚け。あの人はな……27歳だ」
ぱちり。
ひとつ、瞬いた。
「……げ」
思わずつぶやく。
それは詐欺ではないのか。
いくら自分をごまかすための嘘をつかれたとはいえ、一時は妹と思った少女が実はそんなに年上だったなんて……と貴文は並々ならぬショックを受けた。
見た目と違い過ぎる。……というか、言動だって若かった。
「ついでに教えとくと、あの桂人ってやつと志鶴は姉弟だそうな」
完璧に逆だよなぁ、などと呑気な口調でつぶやく康之の声を聞きながら、貴文はなにか複雑な胸中を噛み締めた。