君がここにいる奇跡
四章 時を告げる鐘 其の三
「………里中?」
かけられた声に、千津穂はびくっと肩をこわばらせた。
……この、声……。
聞き覚えのある、そしてある理由から聞き間違えるはずもない声。
「樹川くん……」
振り返り、その名をつぶやいた。
Tシャツにジーンズといったラフな格好で彼がこちらを見ていた。
「……偶然だね……」
ちょっと笑ってそう言うと、彼は少し首をかしげた。物問いたげな視線。
…………………?
つられて千津穂も小首をかしげる。
「いや……なんか、元気ないかなと思って」
そう言われて驚いた。
確かに元気はない。……あるわけもなかった。あんな話を聞いたあとでは。
でもそんなの、表には出していないつもりだったのに。
「そんなことないよ?」
いつものとおりに笑ってみる。
けれど、樹川貴文は渋い表情で自分を見つめるのみだ。
……笑えてない、のかな……?
今まで誰もなんにも言わなかった。だから大丈夫なんだと……ちゃんとできているんだと、安心していたけれど。
そんなことはなかった……?
少し、不安になる。
だって、だとしたら、あの人にも心配をかけていたことになる。
それだけはあってはならないことなのに。
「……無理、してるみたいに見えるけどな……」
だから、少しむきになった。
大丈夫なはずだ。そういうふうにがんばってきたんだから。
「大丈夫だよ」
少し強い口調でそう言うと、彼は少し驚いたように目を見開いた。
ああ、しまった。
そう思ったけれど、出てしまった言葉は戻らない。
うつむいて次に言うべき言葉を探す千津穂に、貴文はぎこちない口調で話し掛けた。
「ちょうど、探してた」
……え?
とくん、心臓がはねる。
───ちいちゃん、貴文好きなの?
いきなり脳裏によみがえった夜宵の言葉に、千津穂は戸惑った。
……なんで?
「リョウが病院だって言ったから、……ここかなって」
この町はそう大きくないから、病院と言えば限られる。家の場所と長期入院、ということを合わせ考えれば、どの病院かなんて、言わずと知れたことだった。
「おふくろさん……悪いのか?」
ずばり尋ねた貴文に、千津穂は自分でも思いがけなくうなずいていた。
本当ならここは否定すべきところだ。だって、そう信じているんだから。
…でも。
不器用だね、樹川くん。
そんなふうにずけずけ聞いたら普通気を悪くするよ?
そう思いながら、全然そう感じていない自分がいる。
直接的な言葉を使いながら、けれど彼に悪気なんてないのがよくわかる……そんな話し方をしてくれるから。
……だから。
「今年いっぱい、持つかどうかわからないって………」
言いながら、泣きたくなった。
どうして彼に話しているんだろう?
誰にも弱音なんか吐いたことない。吐かなくてもがんばれるもの。
なのに……わたしは今、何を言っているんだろう?
「……里中、帰ろう?俺、送っていくから」
貴文の声が、優しく聞こえる。……実際優しいのだろうけれど、きっと実物以上に、自分には優しく聞こえている。だから甘えてしまいそうになるのだ。
駄目だ。こんなんじゃ駄目だ。強くなくちゃ。
甘えたらいけない。他に、誰もいないから。
それに───。
「本当のこと」を知ったら、きっと彼もこんな優しい言葉をかけてはくれないはず。
だから。
「平気だってば」
かたくなに繰り返した。助けなんかいらない。
ほんのしばしの沈黙。
早く立ち去ってくれればいい、と思った。
彼がなぜ自分を探していたのかは知らない。でも今はそっとしておいてほしかった。
一人になって、なんにも考えず、ただぼんやりとしたかった。
なんにも……考えたくない。
なのに彼は言うのだ。
「帰ろう?」
とても心配そうな声。
優しいね。優しいね、樹川くん。
いつだったか、安西くんが言ってたな。貴文は女に甘すぎるんだって。
苦手なくせに甘すぎて、自分で墓穴を掘るんだって。
……わかる気、するな。
本当に優しい顔を、するんだね。
その表情がいたたまれなくて、千津穂はこくりとうなずいた。
並んで歩き出す。どちらも何も言わず、ただ黙って歩いた。
夕暮れの中を、ただ黙って歩いた。
……なんで、わたしを探してたのかな。
それが気になったけれど、貴文が黙っていたから聞かなかった。
「送ってくれて、ありがと」
家の前。
ぴょこっとお辞儀をした千津穂に、貴文は表札を見ながら尋ねた。
「遼平……って。弟?」
つられたように千津穂も表札に目を向ける。
里中秀一郎、茅乃、千津穂、遼平。
仲良く並んだ四人の名前。
「うん、そうだよ。二つ下の」
二つ下、という言葉に貴文は少し反応したようだった。
一瞬動く表情。
けれどそれはすぐにかき消える。
───この人も。
その横顔を千津穂は複雑な思いで見つめた。
この人も、同じ……。
でも、決定的な違いがある。そのことを自分は知っている。
「……元気、出せよ」
ぽつんとつぶやかれた言葉にうなずいた。…そのまま、家の中に入ってしまえば、よかった。
次の言葉なんて、聞くんじゃなかった。
「俺にも、わかるからさ……」
───泣きたく、なった。
慰めてくれてると、元気づけようとしてくれてると、頭ではわかったけれど。
…………違う。
違うじゃない。
半分背を向けかけていた少年に向かい、千津穂は思わず口走る。
「わかるわけないじゃない!」
驚いて振りかえる彼。
駄目。言っちゃ駄目。
駄目なのに───!
「里中……?」
うながされるように、言葉をたたきつけた。
「わかるわけないよ!だって理帆ちゃんは生きてるじゃない!!!」
ゆっくりと、貴文の表情が凍りつく。
それに比例するように、千津穂の心も凍りついた。
───わたし、何を……。
何を、言った?
決して言ってはいけない言葉を、決して聞かせてはいけない人に……告げた。
なんてこと………!
「今、なんて………」
知らない。わたしは何も知らない………!
言葉もなく首を横に振った。一歩、下がる。その、肩に。
とん、とあたる感触。
え?
肩越しに見上げるそこには、一度見た顔があった。
どうしてこの人が……?
ぐちゃぐちゃになった頭がさらに混乱する。
「言っちゃったね、千津穂」
ため息混じりの声が、後ろからそう言った。