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君がここにいる奇跡

四章 時を告げる鐘 其のニ

「それじゃこれ、温めてくるからね」

茅乃にそう声をかけ、千津穂は病室を出た。

自宅で作ってきた煮物の入っている器を手に給湯室へ向かおうとして、ふと視線を背中に感じる。

くるり、振り返ったその正面に、背の高い男性が少し驚いたような顔をして立っていた。

「…………先生」

茅乃の主治医である大下だ。

驚いているのは、千津穂がいきなり振り返ったせいだろう。

大下とは茅乃が最初に病院にかかったときからの付き合いであるので、もうかれこれ4年くらいにもなるだろうか。

背が高くがっしりした体格の彼は、父親と呼ぶにはいささか年齢が若すぎたが、千津穂にとってはそれに近い存在でもある。

大病院の医師であるから、彼が抱える患者は決して少なくはない。それでもその一人としてなおざりにすることなく、親身になって診てくれる彼を、千津穂はとても信頼している。

────だから、大丈夫。

いつからか心の底に溶けないわだかまりとなっている不安も、だから否定できるのだ。

「どうしたんですか?退院のお話?やっと帰れるわってお母さんたら勝手に決めちゃってるけど、本当にそうなんですか?」

最近の母の様子に弾んだ声になる千津穂に、大下はそっと人差し指を口に当てて見せる。

しぃっ。

千津穂は少し首をかしげた。

「……帰れるって、お母さんがそう言ったの?」

……なぜ、悲しそうな顔なんてするんだろう?

不思議に思いつつ、問いかけにうなずく。自分の内に沸いた疑問の答えは……知っているような気がした。でも、目をそらす。

「少し、向こうに行こうか」

扉の向こうの人に何かを聞かれるのを怖れるように声をひそめて、大下は千津穂を促した。

千津穂は器を抱える手に、ほんの少しだけ、力を込める。

────だから、大丈夫。

何度この言葉を繰り返してきただろう。……繰り返すしか、自分には術はない。

だから今もまた、この言葉を自分自身に言い聞かせる。

大丈夫。きっと、大丈夫だ……。

「はい」

答えた声は、けれど自分のものとは少し、違う気がした────。


看護婦詰所の一角。

周囲から隔てるようについたてに取り囲まれた空間に千津穂は案内された。

以前にもここに来たことがある。確か、茅乃が入院したての頃だ。

長い入院になりそうだけれど、がんばれるかい?────そう、優しく尋ねた大下にうなずいたのが、この場所だった。

今度は、どんな話……?

悪いことでないといい。そんな願いは当たり前過ぎて、改めて願うまでもない。

「退院のことなんだけれどね……そういう話がないこともないんだ」

歯切れの悪い口調で大下はそう言った。

「……先生は賛成してないってことですか?」

パイプ椅子のかたい感触が居心地悪くて、千津穂は少し身じろぎする。

────椅子の、せいだと思った。

「僕はもう少しいてもらいたいと思っている。……帰っても、今の状態ではまたすぐに病院に逆戻りということになるだろうし」

歯切れが悪いのは、言葉を選び選び話しているからだと気付いた。

選んで話さなければならないのは、なぜ……?

────なにかを、隠しているから。

……なにを?

「先生……」

なにをどう聞けばよいのか。どきどきする心臓を落ちつけるように、千津穂は両の拳を膝の上でかたく握り締めた。

「…………もう少しって、どれくらい……?」

茅乃が入院してから四ヶ月。その間、寂しくなかったわけはない。早く帰ってきて欲しいと、そう願わない日などありはしなかったけれど、無理をさせてまでそう望むわけではなかった。

昔と同じ日々を。

二人笑いながら過ごす事、それが第一の条件だ。それがかなうなら、「もう少し」がどれほどの期間であろうと耐えられる。

────かなうなら?

千津穂は小さくかぶりを振った。毛先がわずかに揺れる程度。

大下には震えたようにしか見えなかっただろう。

「大丈夫だよ。お母さんはよくがんばっている」

答えではない、励ましの言葉。

違うんです。欲しいのはそんな言葉ではないんです、先生。

喉元まで出かかった訴えを、けれど千津穂は飲みこむ。そうやって自分を抑えこむ術を覚えたのはいつだったか────それはもう、思い出せないほど昔のこと。

……そんなことは、関係ない。

大下にはわからぬよう、静かに深呼吸した。

「先生────治るんですよね?」

今まで一度も口にしなかった言葉を、唇が紡ぎだす。

考えまい考えまいと、その可能性をひたすら否定してきた。

巣食う不安から目を背け、笑顔でいることだけを考えてきた。

何度も何度も脳裏に浮かんだ疑問。答えを与えぬまま放っておいた問いかけ。

大下が自分を信じていればこそ嘘をつくことはないだろうと……それもまた分かっているから聞けなかったこと。

だけど────。

大下の目が、静かに千津穂を見つめた。何も語らないそのまなざしが答えだった。

くらり。

眩暈を起こした……そんな錯覚を千津穂は覚える。錯覚だ。大下を見つめ返したまま微動だにしない自分を、感じている。なのに、頭の芯が揺れていた。

────だから、大丈夫。

これまでずっと支えにしてきた言葉。呪文のように何度も繰り返した。

大丈夫。きっと大丈夫。

そう信じれば、願いはきっとかなうはずだった。かなわなければ、ならなかった。

けれど今自分を見つめる瞳の語るもの。

────聞いてはいけない。

すぐに背を向けて逃げ出せば……きっとまだ間に合う。

なにも知らずにすむ。にこにこと、ただ明日を見つめて笑っていられる────。

…………ほぅ。

深いため息を、千津穂はついた。

もっと子供でいたかった。そうしたら泣いてわめいて大下を責められた。嘘つきと、裏切り者と罵倒できた。黙って事実を受け入れるなんて分別くさい真似、しなくてもよかったのに……!

「あと、どのくらい……?」

落ちついた声がそう尋ねる。

ほっとしたように大下の口元が少し緩んだ。

「無理をしなければ、年を越せるだろう」

答えを聞いても何の感慨もわかない。揺れていた芯が今度はじんとしびれて感覚を麻痺させているかのようだ。

「そう、ですか……」

普通ならここで涙をこぼすのだろうか?

なんとかもっと生きられる方法はないのかと医者に詰め寄るべきなのだろうか?

けれど、そんな気は全然起こらなかった。

告げられた言葉を、事実として受け取った。そこからアクションは起きない。

「千津穂ちゃん?」

今、自分はどんな顔をしているのだろう。千津穂にはそれもわからなかった。

大下の呼びかけに、少し微笑みかけた……つもりではあったけれど。

「大丈夫だね?がんばれるね?」

いつか聞いたと同じ言葉────けれどまるで違う重さの言葉にうなずく。

なにが大丈夫なんだか、なにをがんばるんだか、そんなことはまるでわからなかったけれど。

大下がうなずいてほしそうな顔をしていたから……うなずいた。


「あら、遅かったのね」

病室に戻ると茅乃の変わらぬ笑顔が待っていた。

「ごめんね、混んでたから」

常と同じように笑いながら器を渡そうとして、それが冷たいことに気付く。

思わず表情が固まった。手の中の陶器の器は指先をしびれさせるほどに冷たい。そんなはずはないのに。

「……ちいちゃん?」

呼びかけに千津穂は無理やり顔に笑みをはりつけた。

「と、途中で友達に会ってね……ほらこないだ言ってたでしょ、夜宵ちゃん。偶然また会っちゃって、思わず話しこんじゃったの。そしたらまた冷えちゃったみたい。ごめんね、もう一回あっためてくるね」

母の顔を見ぬまま、くるりと背を向けた。入ってきたばかりのドアをまた開く。

その背中に。

「夜宵ちゃん、こないだで終わりだって言ってなかった?」

追いかけてきた声は、聞こえないふりをした。