君がここにいる奇跡
三章 風の薫り 其の三
「……俺、声かけちゃまずかった?よ、ね?」
いつになくらしくなく、リョウはおずおずとそう尋ねた。
彼と並び、どこへというあてもなく歩きながら、貴文は首を振る。
「いや……?」
まずいことはない。その機に便乗して逃げ出した自分がいる。
……そう、あの場で彼が声をかけてくれなければ、自分は一体どうしていたのだろう。
なにげないふりをしたまま、康之と肩を並べつづけていたのだろうか……?
何がここまで自分を動揺させるのか。
その理由は、貴文には今もって謎だ。
康之との付き合いは、十三年……いや、十四年にもなるだろうか。その間ずっと一緒にいたから、それが当たり前になりすぎて……だからなのか?
それほどお互いがお互いにべったりしてなどいないと、思っていたけれど。
「お前、家に帰るのか?」
それならば是非連れて行っていただこうと、そんな思惑を抱きつつ貴文は尋ねた。
康之のことは、考えたって分からないし、悩んでもしょうがないことだ。
決めてしまった以上、あいつはあいつの道を行くだろうし。
────あいつの、道を。
切り換えたはずの思考がまた逆戻りしそうになって、一つ頭を振る。
消えてしまえ。
そう念じた。
「えぇっと……そうじゃないんだけど」
なにやら歯切れ悪くリョウはそう答える。
今日はなんだかいつもとリアクションが違うな、と貴文は思った。
どこか、なんだか距離を感じるような……それほど親しいわけでもないのに、そう感じた。
いつもの屈託のなさが、今日のリョウにはない。ような気がする。
「家、里中いるかな?」
ただの知り合い程度の自分が、どうかしたのかと尋ねるのもおこがましい気がして、貴文は追及することはしなかった。代わりに口にした問いに、リョウはびっくりしたような顔をする。
「ちい?……なんで?」
声に宿るのは、確かな警戒の色。
彼の視線の鋭さに、貴文はほんの少し気圧されながら眉をひそめる。
……この間と同じ。
この間の「プアゾン」での彼と同じだ。
「そんな人は、ここにはいないよ?」
微笑み。
にこやかな表情に潜む刺が、ちくちくと刺した。
あれと同じ。
なぜ……なにが?
なぜ警戒されねばならないのか。
なにがそんな刺になるというのか。
これと同じ顔を、口調を、他のどこかでも知っている気がして、貴文は記憶をまさぐった。
そんなに以前の話ではない。ここ最近────ごく、最近だ。
そう、あの少女がそうだった。
志鶴、と呼ばれていた少女。
彼女がそんな目で自分を見、自分と話した。
それもまた、話題が里中千津穂に及んだときのこと。
「……話がしたい」
簡潔な貴文の答えに、リョウは即座に切り返す。
「どんな?」
貴文は少しばかり機嫌を損ねた。
どんな、だと……?
「お前には関係ない」
まるで尋問調だった。それが気に入らない。
だが少年はいつも通りあっけらかんとした態度で答えたのだった。
「だけどさ?誰もいない家でいきなり口説き倒されても困るし?」
………………はい?
貴文は一瞬返す言葉を失う。
なにやら凄絶な誤解が存在するようだ。
「なんで俺が里中を口説くんだ?」
リョウはきょとんとした。
「なんでって……他にどんな理由があるの?」
そう問い返されるとなぜだか答えに詰まってしまう貴文である。
他の理由……と言われても。
聞きたいことがあるのだ。
彼女が言った言葉の意味を。
彼女が知っている全てを────「理帆」についてのすべてのことを。
「プアゾン」での様子からすると、この目の前の少年はまず口を割らないだろうし、志鶴はほとんど面識がないし、……やはり里中千津穂に聞くのが一番だろう。
元はといえば、すべての原点は彼女だ。……と、貴文には思えるし。
本当はこの場で少年を締め上げて全てを吐かせたい、などとも考えているのだけれど。
先ほどの同様で感情が不安定になっているのか?
貴文の思考は常より少し過激であったりする。
しかしそれをぐっと我慢し、適当な言い訳を探した。
ただのクラスメートである自分が、彼女の家を訪ねていくもっともらしい理由は……。
うーむ。
とっさには思いつかない貴文に、リョウは呆れたように笑った。
「なんで今ごろ悩むの?……まぁ、いいけど。でも、家に行っても、ちいいないよ。病院だし」
貴文は驚いて目を瞠った。
「病院?あいつ、どっか悪いのか?」
この間見かけたときは、いつもと変わりなく見えたけれど。
色白のせいで、顔色が悪く見えなくもないが。
そんな貴文にリョウは、違う違う、と手を振る。
「ちいじゃなくて、おかーさんがね。春からずっと入院してるんだよ」
その言葉に貴文はさらに驚いた。
全然知らなかった。
それって……大変なことなんじゃないのか?
母親が入院。
もし自分の家がそうなったら────と想像してみて青くなる。
間違いなく餓死だな。
「家のこととか……里中がやってるのか……?」
スーパーで会った時、大きな荷物を抱えていた彼女。
家の手伝い、ではなく、彼女自身が家事を切り盛りしていたのか。
春から、ということは一学期の間中ずっと、彼女は学校と家事を、そして母親の世話を掛け持ちでこなしていたことになる。
実はすごい人かもしれない、と思う貴文であった。
全然目立たないけれど……それは、人に愚痴や弱音を吐いたりしていないせいなのかもしれなくて。
そう考えるとなにやら尊敬とも言えるような感情が胸の底にわいてくるような気がする。
「そう。ちい、料理うまいよ。俺が嫁にもらいたいくらい」
貴文の反応が面白いのか、くすくす笑いながらリョウが言った。
「もらえばいいじゃないか」
その答えにさらに笑いを増幅させる。
「無理だよ」
けらけら笑いながら、彼の体がふと下に沈んだ。……のではなかった。いつのまにか二人は大通りの交差点にたどりついており、リョウは地下鉄の階段を降りだしていたのだ。
「それじゃ俺、こっちだから。じゃーねおにーさん」
ばいばーい、と。
人になにか言う隙も与えず、駆け下りていく。
ちょっと待て。
住所くらい聞いておくんだった……。
後悔してもすでに遅し。
残された貴文は。
ただひたすら呆然とその背中を見送るのみである────。