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君がここにいる奇跡

三章 風の薫り 其のニ

「理帆」。

どうしても納得がいかなくて、自分でも何を探しているのか分からないままに、それでも答えが欲しくて。

なんでいまさらと、正直なところそう思う気持ちもあるけれど。

十二年。

そんな昔の話でも。

自分の知らない真実があるなら、それを確かめたかった。

そのために貴文は里中千津穂の家へ向かった。

向か……いたかった、のだが。

住所がわからなかった。

自分の部屋をひっくり返して見たけれどクラス名簿は見当たらず、これは康之に聞くほかあるまいと観念した。

康之ならばたとえクラス名簿を持っていなくとも、里中千津穂の住所を突き止めるのは簡単なはずだ。人付き合いの悪い貴文と違い、奴の交際範囲はひどく広い。そういう奴がお友達なのは非常に便利でありがたいのだが、ことこの件で協力を仰ぐのはひどく気が進まないのも確かだった。

思えば、事の発端は彼が里中千津穂に聞いた言葉ではなかったか。

あの言葉がなければ、自分だってこうも神経を尖らせたりしないものを。

あの言葉があるから、「りほ」という言葉を無視できない。

本人にその自覚があるからか、康之はここ数日姿を見せない。学校にはひょっとしたら顔を出しているのかもしれないけれど。

奴の柄ではないが、気にしているのだろうか。「理帆」がらみになると神経質になるのは、なにも自分だけではない。……あの場には、もう一人いたのだから。

気にしているのだとしたら里中千津穂について触れるのはよしたほうがいいかとも思ったが、背に腹は代えられない。とにかく今は、この頭を占領している疑問を解くのが先決だ。

そう思いつつかけた電話は、けれど繋がらなかった。何度かけても誰も出ない。康之の母親は専業主婦で、あまり出歩かない人だから、大体家にいるはずなのに。

夏休みだから旅行に出かけたとか……?

それならば一言言っていきそうなものだ。それに、……多分旅行ということはないだろう。家族旅行なんて、今はできそうな状態ではないから。あの家は。

康之がはっきり口に出して言うことはほとんどなかったが、彼の両親はうまくいっていないようだった。小さな頃から、貴文と康之が遊ぶのは樹川の家か、あの山か、とりあえず安西の家以外の場所だった。中学校の頃になると康之はあまり自分の家に寄り付かなくなった。べったり貴文の家に居座るか、そうでなければ当てもなく街をふらふらするか。それでも柄の悪い連中と付き合うようなことがなかったのは、ひとえに彼の高いプライドの故だろう。それでも教師は康之をそういう奴らと同じように見たけれど。

康之は髪が茶色い。少し赤みがかった茶色だ。これは生まれつきのものなのだが、教師はそれを規律違反として責めた。黒く染めてこいという。おかしな話だ。茶色く染めるのは素行不良で、黒く染めるのは社会順応の手段だというのだ。どちらも自分を偽ることに違いはないのに。康之は言わせておけって気にしていないふりを装っているけれど。

高校に入って、康之は少し落ち着いたように見えた。……傍目には。中学のときのように家を避けるようなことはなく、ちゃんと帰っていたけれど。

だが、時折ひどく疲れた顔で出てくる。そう、あの朝もそうだったな、と貴文はいまさらながらに気がついた。

図書館で会ったあの日。里中千津穂をお茶に誘った康之。

変だったのだ、確かに。

いつになくおしゃべりだったし、不必要に明るかったし。

……それにうちにも来た。

里中千津穂と別れた後、貴文を訪ねてきた。夏の間は樹川の家になんてほとんど来ない康之が。

夏以外なら足しげく通ってくる康之だが、夏の間は来ない。たとえ自分の家に身の置き所がなかろうとも来ない。その理由は貴文も知っている。同じ理由で夏の間は貴文も家にいるのを苦痛に感じるからだ。

……身の置き所がなかろうとも?

ふと、近頃やけに部活に熱心なことを思い出した。引退したくせに顔を出しに行っているはずだ。そんなにマメなやつではなかったのに。

……なにか、あったのか?

家にいたくない何か。それが理由で、だれも電話に出ないのだろうか。

そう思いついたらそれがなんだか事実であるような気がして、貴文は安西家へと向かった。里中千津穂に会いに行くのはもちろん諦めてはいなかったけれど、それは別に後回しでもいいのだ。

とりあえず康之。

安西家の門を叩くのは、なかなか勇気のいることだけれど、今はそんな贅沢を言っている場合ではなかった。

が。

「……貴文?」

安西という表札のかかった家の前。

来ては見たものの、いざインターフォンを押す段になってしばしためらっていた貴文は、背中にかけられた言葉に、正直心底ほっとした。

「珍しいね、お前」

言った康之は制服を着ている。また部活に出ていたのだろうか。

「ああ、えーと……うん、ちょっと」

なにやらわけのわからない返事をしながら、貴文はあいまいにうなずいた。

「……角のラーメン屋。今日半額なんだけど。食いに行く?」

言いながら康之はすでに歩き始めている。それを追いかけながら、貴文は彼がすこしほっとしているような感じを受けた。

なにに……?

わざわざ問うまでもない。

家に入らずにすんだことに、だ。

貴文がなんの疑問もなくそう納得してしまえるものがあったから。あの家には、昔から。

「貴文」

先を行く康之が振り返らずに呼んだ。

返事を待たず、続ける。

「俺、今学校行ってきた」

「……部活だろ」

肩を並べた貴文に、少し笑って首を振る。横に。

「違う。……やめるって言ってきた、進学」

少し遠くで、その声は聞こえた。


大学に行って何をするつもりなのかと問われたら答えられない。

大学に行って何をしたいのかと問われても、それは同じこと。

ただ、それが当然のように自分の前にある道だったから。

なぜ?

その問いに答えなんかなくてもいいのだと思っていた。

けれど。

「俺、行かないから、大学」

もう一度康之が繰り返した。

なんだろう、冷水を頭のてっぺんからぶっかけられたような衝撃。

行かない?

寝耳に水とはこのことだろう。

隣りにいるはずの康之。肩を並べて歩いているはずの、康之。

それが急に遠く距離を隔てたように感じた。

「だって首席だぞお前」

かろうじて出てきたのはそんな言葉。

何を言ってるんだか自分でもよくわからないまま、それは口から滑り出た。

進学校で首席を取っている康之にかかっている期待は生半可なものではない。そしてその期待に応えられるだけの能力が、康之には確かにあるのに……なぜ?

思わず足を止めた貴文を振り返り、彼は皮肉げに口元を歪める。

「だから?」

切り込むように返された言葉に、貴文はぐっと詰まる。

「お前長谷部と同じこと言う」

ほんのわずかにがっかりしたような口調で言う康之に、貴文は自分が間違えたことを悟った。

そうじゃない、そうじゃなくて。

言うべき言葉は。

「決まったから。離婚」

貴文がまだ言葉を探している間に、構わず康之は続けた。

単語を並べるようなしゃべり方。

話すのも面倒とばかりに投げやりなその口調。

「……お前は?」

何をどう言えばよいのだろう、こんな時。こんな話。

これだけ長く一緒にいたのに、言うべき言葉が見つからない。

「だから進学やめるって」

あっさりと康之はそう言う。なんでもないことのように。

なにが「だから」なのだろうか、と貴文は頭の隅でぼんやり考えた。それを見透かすように康之は言葉を継いだ。

「俺、どっちの世話になるつもりもないから。一人でやってこうと思って。だから働く」

その言葉を聞いた途端、貴文は泣きたいような衝動に駆られた。

不意に脳裏に閃くイメージ。

蜘蛛の巣に捕らわれてしまった蝶。

自由な自由な康之。

何ものにも縛られない彼が、見えない糸でがんじがらめに縛られてしまったような錯覚。

……錯覚、なのだけれど。

「貴文?」

なにがそんなにショックなのかは知らない。

けれど、頭が完全に混乱していた。

康之が大学に行かない?

ずっと同じ道を歩いてきたのに、その道が別れてしまう。

……それがなんだ?

その混乱の理由が貴文自身、わからなかった。

こんな、当然のこと。

いつか必ずやってくること。

そのいつかが今だからといってなんの不思議もないのに。

「おにー……さん?」

前触れもなく第三者の声が割って入ったのはそのときのこと。

視線の先には、気まずそうな顔で立っている少年の姿。

「……リョウ?」

なんでこんなところで会うのだろうか。

「おーかぁわいい」

すっかりいつもどおりのふざけた調子で康之が言う。

貴文の混乱など知らぬ顔だった。

「えーと、あの……」

声をかけたものの、康之の存在に戸惑っているらしいリョウに歩みより、貴文は取ってつけたような口調で康之に告げた。

「おれ、ちょっと用事思い出したから。……ラーメン、また今度な」

嘘ではなかったけれど、現時点でははっきりと口実だった。

それは康之にもわかっているだろうけれど、彼はほんの少し眉を動かしただけで、浅く肩をすくめる。

「そうだな」

それを視界の端におさめつつ、事の成り行きがわからずきょとんとしているリョウを半ば引きずるようにして貴文はその場を後にした。

ひどく重い気分だけが、その余韻で残っていた。