君がここにいる奇跡
三章 風の薫り 其の一
───どうして……?
尋ねたら、困ったように首をかしげていたっけ。
窓の外を切なく眺めながら理帆は思い出す。
───どうしてわたしが理帆だって知らせてはいけないの?
困らせるつもりなんてなかったから、その表情に戸惑った。けれど聞かずにはいられなくて。
だって。
だってきっと探してる。
探してるはず。……声が聞こえるもの。呼んでるもの。
だからわたし、忘れてない。
……なのに。
───彼はきっと信じてはくれないよ?
答えの代わりに与えられた言葉に、理帆はふくれる。
───そんなことないもの。だってわたしは理帆だよ?わかってくれるもの!
駄々をこねるようにそう言った。
無条件の信頼。
彼は、わかってくれるもの。
それがどこから来るかは知らない。根拠なんかないけれど。
でも、分かるから。絶対そうだから。
───おにいちゃんだもん!わたしのおにいちゃんだよ、お父さん!
大好きな優しい顔が、困ったまんまで微笑んでいる。
少し悲しそうな光が、その瞳に浮かんでいる……なぜ?
噛み締めるような口調で、父は言った。
───お前は選ばなくてはならないね、理帆。どちらかひとつだけを。
「選ぶって何?」
きょとん、とした。
なんだろう、どうして深刻な顔なんかしているのだろうか、父は。
見たことのない表情だった。いままで、こんな顔を見せたことなんてなかったのに。
「理帆はお兄ちゃんの所に帰りたいのかい?」
問われた言葉にまた驚いた。というよりそれはなじまない問いだった。
……………………帰る。
全然しっくりこない表現を父が使ったせいだと気がついて、理帆は首をひねる。
帰る……?
「わたしの家はここだよ?」
今までずっとそうだった。そしてこれからも。
帰る場所は決まっているのに。
「知らせるだけよ、お父さん。理帆は生きてるって。安心させてあげたいだけ」
……毎夜、聞こえる声。
───……理帆!
呼ぶ、声。
たった一つ、自分を繋ぐもの。
呼んでいるから答えたいだけ。不安がっているから大丈夫だよって伝えたいだけなのに。
「理帆はすっかりこちらになじんだね」
いつもと変わらない穏やかさで話している、はずの父の言葉が一つ一つ気にかかる。
それは、どういう意味……?
尋ねた方がよいのか、尋ねない方がよいのか……?
「……お父さん?」
言葉の裏側の意味を探り出すには、理帆はまだ幼すぎた。不安げな面持ちしかできない自分が歯がゆい。
「理帆は自分がどうしてここにいるのか、納得しているだろう?」
どうしてここにいるのか。
「お兄さんのところから離れて、どうしてここに来てしまったか、知っているだろう?」
どうしてここに来てしまったか。
「……なんだか、いけないことに聞こえるよ、お父さん」
ぎゅうっと両手を握り締めてそう言う。
なんだろう。
なんだろう、この不安は。なにが、怖いというの……?
「───お兄さんは、信じてはくれないよ?」
なんだか急に胸がどきどきしだした。わくわくするようなどきどきではない。
とても気持ちの悪い、どきどき。
……なんなの?
「わたし、ここにいていいんだよね?わたしはお父さんの子供だよね?」
不安の正体がわからないから余計に不安になる。
父の服の裾をつかんで、訴えた。くん、と首をそらしはるか上の顔を見上げる。
「理帆」
すっと彼が腰をかがめた。同じ視線の高さ。それだけで胸のどきどきが少し静まった気がする。
「理帆はお父さんの大事な子供だよ?それは確かなことだ」
ほっとした。
けれど。
「でも、お兄ちゃんの妹でもあるんだよ」
……え?
でもってなに?
お父さんの子供であることと、お兄ちゃんの妹であることは、違うことなの?
どうして?
……どうして?
問いは声にならなかった。言葉にできるほどそれははっきりしたものではなく、漠然と頭に浮かんだその疑問を、理帆自身が受け入れられなかった。
まだ、十歳。
この父の娘になって六年。
すべてをありのままに受け入れてきた。なにも不思議になんて思わなかったけれど。
たったひとつ、悲しかったこと。
……おにいちゃんは?
父の娘になる前のことは、ほとんど覚えていない。けれど、毎晩見る夢のせいでたった一人だけを覚えている。
あれはおにいちゃん。
最初は誰だか分からなかった。どうして自分を呼ぶのか分からなかった。
それはとても悲しい声。
夢を見た後は、必ず泣きたくなる。
どうして?
無性になつかしかった。会いたかった。話したかった。彼に、答えたかった。
それだけ。
それだけなのに、今度はお父さんが悲しい顔をするの……?
「理帆は、選ばなくてはいけないよ」
同じ言葉を父が繰り返す。
「選ぶ」……?
それはどういう意味?
「焦ることはない。ゆっくりでいいんだ。……けれど、どちらか一つを選ばなければいけない」
どちらかひとつ。
それはお父さんかおにいちゃんてこと?
どうして選ばなくてはいけないの?
尋ねたかったけれど。
……お父さんもおにいちゃんも両方持ってる子、たくさんいるよ?どうして理帆は違うの?
そう言いたかったけれど。
父の悲しそうな顔に黙り込んだ。
喉もとの言葉を飲みこんだ。
「……わたしはお父さんの子だよ?」
一生懸命そう言ったのに、父はますます悲しそうに……微笑んだ。
「焦ることはないんだよ、理帆。まだ今は決める必要はないからね」
そうして、頭に手のひらを乗せた。
焦ることはないと父はあのときそう言った。
けれどそれから時は流れ……「選択」のときは来てしまった。
考える時間は山ほどあった。そのために父は幼い自分にあんなことを言ったのだから。
答えはちゃんと出ているはずだった。……いや、出したのだ。
出したから、「選択」は終わった。そのはずだったのに。
「……どうして、会っちゃったの」
理帆の唇から落ちるつぶやき。
会ってはいけなかった。
会ってはいけなかったのに。
会ってしまった。
決めたはずの心が揺らいでしまうと、わかっていたから会いたくなかったのに。
あの声を必死に振りきって決めたのに。
「もう、なにも変えられない」
……変えるつもりが自分にないことも分かっている。
「選択」に迷いなんか残っていない。あれは確かに自分が選んだ道。
その心を自分が一番知りながら、けれど揺れるのだ。
切り捨てたもう一方の選択が、後ろ髪を引く。
「……早く、帰りたいよ……」
でなければ何をしでかすか。
帰る日は近づいている。そうすればもう怖いことはない。不安に思うこともない。
きっぱりはっきり訣別できてしまうはず。
だけれど。
ぽたんぽたんと落ちてくる雫に、唇を噛み締める。
この涙は何を想ってわいてくるのか。
……その答えは、わからないふりをした。