君がここにいる奇跡
ニ章 記憶の跡 其の四
「理帆」。
確かにそう聞こえた。
「プアゾン」でその言葉を聞いてしまってから、それは貴文の頭を離れない。
聞き間違いかと、一瞬だけ思ったけれど。否。そう思おうとしたけれど。
聞き間違いじゃない。
それは確かなことだった。
志鶴という名の少女が口にした名前。
だけどなんで?
その疑問も、「理帆」という名と共に頭の中をぐるぐるしている。
あそこにいたのがリョウと志鶴だけならなんてことはなかった。聞き間違えたと思ったかもしれない。いや、思っただろう。そんなばかなと一笑に付したか、あるいは同じ名前の他人だと。
……そう、他人だと。
「りほ」なんて名前、ごろごろとまではいかなくとも、「理帆」だけなわけはない。この広い世の中、同じ名前の人間などたくさんいる。
けれど。でも、あそこには。
里中がいた。
───樹川くん、妹さん亡くしてるよね。わたし、その頃に今の親に拾われたの。
その言葉を伝えたのは康之だった。だが貴文の脳裏で響くのは確かに里中千津穂の声だ。
そう言った彼女が、あそこにいたから。
なんで、あいつの名前まで知ってる……?
それに、あの二人。
リョウとかいう少年と、志鶴という少女。
あの二人はなんなんだ?
「隠し山」にいたり、「理帆」を知っているような口ぶりだったり。
……知って?
閃くように脳裏に浮かんだ言葉に、貴文は自分で驚くほど動揺した。
強烈な違和感。
───傷つくのは理帆。
志鶴はそう言っていた。
傷つくのは理帆。
明らかに理帆を知っている口ぶりで。しかも現在進行形で。
「……まさか」
思わず声がもれた。
そんなまさか。
あり得ないことだった。あり得ないことの、はずなのだ。
だって、理帆は。あの幼い女の子はいないのだから。
十二年前、貴文の前から消えたまま、帰ってきてはいないのだから……。
それは十二年前の夏のこと。
あの日も、やけに暑かったと覚えている。
理帆は貴文より二つ下の、腹違いの妹だった。母親は可南子だ。貴文の産みの母翔子は彼が一つになる前に交通事故で他界し、その後可南子が父利夫の後妻となった。
多少複雑な家族関係ではあるものの、貴文にとって可南子は本当の母親も同然であったし、可南子もふたりと分け隔てなく接した。遊ぶときも出かけるときも、可南子は貴文と理帆を同じように扱い、そのせいか理帆はすっかりおにいちゃんっ子になっていた。
いつでも貴文の後についてまわり、なんでも一緒にしたがった。可南子はそんな二人を見て、
「わたしがいなくても全然平気ね」
などと呑気なことを言ったものだが、貴文にしてみればいい迷惑である。
たかが二つの年の差。されど二つの年の差。
幼い頃は特に、それが出るものだ。だがそんなことにはおかまいなく、理帆は貴文を追いかける。真似をする。彼女には絶対に無理だとわかっていることでも。
貴文にとって理帆は大事な妹だった。かわいい妹だった。けれど、おにいちゃんおにいちゃんと追いかけられるのが嬉しい反面、ひどく邪魔に思えるときもあった。
時に貴文六歳、理帆四歳。夏の盛りのある昼下がり。
小学校に入る前だった貴文は、ちょうど親の目を離れて遊べるようになり康之という同年代の遊び相手もいて、しかも「隠し山」と呼ばれる絶好の遊び場もあって、後をついてまわる理帆をうっとうしく思っていた。ついてこられても足手まといなだけだから。
木登りはできないし、虫も採れないし、鬼ごっこをしても足が遅いからてんでお話にならない。
一緒に遊べというほうが無理な注文だった。
だから泣くのもかまわず放って出かけた。あとで叱られるとしても別にいい。理帆なんかと遊んでるよりずっとましだ。
行き先はいつもどおり、「隠し山」。……他に遊べるような場所など、このあたりにななかった。
大人たちは山に入ってはいけないという。危ないから、と怒る。
なにが危ないもんか。
危険な動物がいるわけでもなし、大人たちが何をそんなに怖がるのか、貴文たち子供にはわからない。
そう、怖がっているように、見えた。変なの、としか思わなかったけれど。
変といえば「隠し山」という名前も変だと思った。何を隠してるというんだろう。
「かくれんぼにいい場所だから?」
試しに言ってみたら、康之におもいきり馬鹿にされた。
「なに言ってんだよ。宝物が埋まってるからに決まってんだろ」
すこぶる偉そうな態度の彼の言葉に、貴文はあっさりと納得した。
宝物。
考えただけでわくわくするではないか。
ああ、大人たちはこれを怖がっていたんだな、と思った。
俺たちが宝物を横取りしてしまうと思ったんだ。
そう考えると無性にその宝物がなんなのか知りたくなった。康之もそれは同じらしい。
今から考えると、なんでそうなる、と突っ込みたくなるほどの子供特有の短絡さで、ふたりの探険は始まった。いままで行った事もないくらい奥まで、踏み込んだ。
それまではやはり多少の怖さもあって、道路沿いのすぐ山から出れるようなところばかりで遊んでいたのだけれど。
木登りもできたし、虫も採れたし、かくれんぼもできたけれど、そろそろ飽きてきていた。
二人の子供は、体を寄せ合うようにして山の奥へと入っていく。
しんと静まり返った世界。一歩進むごとに音が一つずつ消えていくような。
けれどやがて、その静けさの中に新しい音が聞こえ出す。
「……水の音がする」
康之が言って、走り出した。負けじと貴文も後に続く。
「……………っ!」
いきなりまぶしくなって、思わず腕で顔を覆った。恐る恐る目を開けてみて驚く。
こんなに綺麗な場所は知らない。
「緑が光ってる……」
思わずそう言ってしまったほどに、そこは光にあふれていて。地面には光るような芝が生えていて。そして、数メートル先で途切れていた。
その先はどうなっているのだろう?
近づき崖になっているのを確認して、腹ばいになって下をのぞきこんだ。
「川だ……」
澄んだ流れが見える。かなりの高さがあるから落ちたら危ないな、と思った。
それほど大きな流れではなかったけれど、子供にとっては充分危なかった。
川に下りていけそうなところはなかったのが残念だったが、それでもそこは二人のお気に入りの場所になった。見つけてからというもの、ふたりはそこに通いつめた。
やわらかな芝の上、寝転がって寝るのが二人は大好きだった。
そこはなんだか不思議な場所で。いつ行ってもお天気で。
そこにつくまで雨が降っていても、そこはやっぱり晴れていて、芝も乾いていた。
二人の秘密の場所だったから、遅くなっても誰も呼びに来ないし、しかもなぜか、そこで遊ぶときはあまり門限に遅れなかった。少し遊びすぎたかなぁと思っても、門限の前にちゃんと帰ってこれるのだ。
そんな毎日に、二人は忘れていたのだ。いつも二人を追いかけていた少女が、今どんな気持ちでいるかなんて。寂しさのあまり、どんな行動に出ているかなんて。
秘密の場所に、ひたりひたりと近づく足音に、彼らは気づかなかったのだ。
けれど、あの日。
二人してたどりついたあの場所。
そこには先客がいた。
こちらに背を向け、こともあろうか崖に足を投げだして座っている、幼女。
ピンクのリボンのついた麦わら帽子かぶって。
「理帆ぉ?」
貴文の素っ頓狂な声に、彼女は振りかえる。浮かぶのは無邪気な笑顔。
「おにいちゃん」
語尾がはねている。会えて嬉しいと、一緒に遊ぼうと、全身がそう訴えていた。
そういえば、もう何日一緒に遊んでいなかっただろうか。
けれども秘密の場所に勝手に入られたことに腹が立った。
ここは俺と康之が見つけたのに。
なんで理帆なんかに。
……だから。
「なにしてるんだよ、お前。ついてくんなって言っただろ」
そう、言ってしまったのだ。
理帆の顔がくしゃっと歪む。
それがまた気に障った。
思い通りにならないとすぐ泣くし。
だからやなんだよ、と思う貴文の隣りで、康之が理帆に向かって手招きした。
「理帆ちゃん。とりあえずこっちおいでよ。そこ、危ないよ?」
ひっく、と理帆がしゃくりあげる。
「……おぼうし……」
ぼうし?
いきなり何を言い出したのか分からず、貴文と康之は顔を見合わせた。
「新しいおぼうし、買ってもらった……おにいちゃ、見せる……」
泣き出しながら言っているのでいまいち聞き取りにくかったが、どうやら貴文に新しい帽子を自慢したかったようだ。いや、似合うと褒めてもらいたかったのだろうか。
「……そっち危ないからって言ってるだろ?ほら戻って来い」
まったくわけわかんないぜお子様は、などと自分だってお子様のくせに貴文は思う。
帽子くらい、家でだって見れるじゃないか。
むすくれながら妹の方へ近づいてゆく。それを理帆はどう受け取ったのか。
首にかけていた帽子のゴムを外し、帽子をとって貴文の方へ差し出した。
「あい」
舌足らずのせいか、「はひふへほ」がきちんと発音できない理帆は神妙な顔つきで貴文を見ている。
あい、じゃねーだろ。
緩慢に帽子へ手を伸ばした───その、時だった。
「あ、おぼうし!」
突然の突風に理帆の帽子がその手を離れて舞った。貴文も慌てて手を伸ばすが、わずかに届かない。
落とすものかと理帆が体を伸ばし手を差し伸べる……川の上へ舞ってゆく、麦わら帽子へ向け。
つかむ。けれど。
「……おにいちゃん!」
悲鳴が上がった。
それは一瞬の出来事。
理帆の体が貴文の視界から消える。
「理帆!」
必死に伸ばした腕の先、かろうじて妹の手首を捉えた。
……捉えたのだ、ちゃんと。
だが、二人とも腕が伸びきっていて、持ち上げられそうにない。
「康之……!」
崖の上に残った片手で自分も引きずられるのを押さえながら、呼ぶ。そうするまでもなく彼は走り寄ってきていたけれど……それはほんのわずかに遅く。
するり。
あまりにもあっさりと理帆の手首は貴文の手の中から抜けていった。
声を上げる暇もなかった。気づいたときには、すでに理帆は川の中にいたのだ。
「おにいちゃん!おにいちゃ、……おに…い、ちゃ!」
まだ泳ぎを知らない少女を、川の流れが押してゆく。離してゆく。貴文から。
「理帆!」
叫びが、届いたかは知らない。
彼女の頭が消えるのはあっという間だった。川面にふわりと舞い落ちた麦わら帽子。
それだけを名残に、また静けさが戻る。
───おにいちゃん!
声だけが、脳裏に響いた。
理帆の遺体はあがらなかった。麦わら帽子はかなり下流で見つかって、今も可南子が大切にしまっている。時折取り出して泣いているのを、貴文は知っている。
彼女は一度も貴文を責めなかった。ただの一度も。
父親には殴られたけれど。
「隠し山」の名前の由来を知ったのは、そんなごたごたの最中でだった。
こんなことは、以前にもあったらしい。「美咲山」に入って、二度と出てこなかった人がいるという。
「神隠し」だなんて、そんな言葉で片付けていたけれど。
神が人を隠す山。だから「隠し山」。
聞いたとき、貴文は思わず笑ってしまった。
神様がいるのなら、理帆を助けてくれたっていいじゃないか。
理帆は死んだのだ。神様なんかいやしない。
そして、貴文があの山に入ることは二度となかった……そう、先日、子供の泣き声を聞いた、あの日まで。
忘れたふりで、そうやって平気な顔をしてきたのに。
「理帆は、死んだんだ……」
そう、言い聞かせて。自分に、無理やり。
忘れられない過去。
断てない時間。脳裏で何度もループする。
そこから進めない。
……なのに。
───傷つくのは理帆。
怖くて、聞けやしないけれど。……生きて、いるのか……なんて。
だけど、それなのに。
この、心に。
消えない疑問を心に抱いて、貴文は里中千津穂を訪ねる。