君がここにいる奇跡
ニ章 記憶の跡 其の三
「うるっせえんだよ!」
そんな乱暴な言葉が突然耳に飛び込んできて、千津穂は思わず身を縮こまらせた。
なんだろう。喧嘩……?
争いごとは好きではない。……まあ、好きならそれはそれでまた問題ありだが。
ともかく、喧嘩であるのなら、どこか道を迂回せねばなるまい。
そう思いつつ、声のしたほうをうかがった。
今日は2年の1学期の期末テストの最終日で早く帰れるはずだったのに、先生に用事を手伝わされてすっかり遅くなってしまって。
お母さん、心配してるだろうな。
早く帰ると言っておいたから、昼食を準備して待っているはずだ。なのにもう1時すぎ。おなかもすいてるのに先生てば人使い荒すぎ、と頬を膨らませつつ、常は通らない路地裏を早足で通っていた。早く帰りたくて、近道していたのだ。この細い入り組んだ通りには、なんだか柄の悪い男の子──たまに女の子も混ざっているが──たちがたむろしていて、あまり好きではないのだけれど。
まだ明るいし、さーっと通り抜けてしまえば大丈夫。
そう、思って急いでいたところに……さっきの声が聞こえてきたのだ。それも、自分が進もうとしている方向から。
一つ先の角を右……曲がってさらに左、そして右に折れればもう大通りに出れるはずだった。そこから家は目と鼻の先だ。けれど声は角を右に曲がったあたりから聞こえた。
とりあえず角まで行って、そっと顔だけのぞかせる。ほんの少しだけ振っている雨にさしていた傘だが、邪魔になったのでたたんだ。優しい感触が肩に落ちてくる。
まだ喧嘩にはなっていないようだった。男の子が五人と、女の子が一人。男の子のうち三人は千津穂と同じ中学の制服を着ている。夏服の白カッターの左胸に校章の縫い取り。
女の子を含む残りの三人は、どうやら隣り町の中学のようだ。小学校が同じだった子が何人か行ったので制服に見覚えがある。その子たちはこちらに背を向けているのでどんな人なのかはよくわからなかった。服装から察するに、このあたりにいるような人たちとは違う感じがするけれど。
だが、両者の間にあるものは、まぎれもなく剣呑な雰囲気。
やっぱりここを通るのはまずい遠くなるが回り道をしよう、と千津穂が頭をひっこめたとき。
「でもお前が殺したんだろう?」
物騒な言葉が耳を打った。
ころ……え?
びっくりして思わず鞄と傘を抱きしめた。
「おまえ……」
続いて聞こえたのは低い、押し殺したような声。怒りのためか、幾分かすれていた。
「お前が妹殺したんだよなぁ?」
恐る恐る、もう一度のぞいて見た。そして、こちらに背中を向けた少年のうち一人が、立ち尽くしているのを見たのだ。
それは、なにげない立ち姿だったかもしれない。うしろから見ただけではその表情は分からなかったし、彼はまるで動かなかったから。
けれど。
……震えている?
彼の肩から先。小刻みに揺れている。握り締められた白い拳に、千津穂の胸がなんだかぎゅうっと痛くなった。
なんの話なんだか、全然わからない。ただ、彼の震えた手が、泣きそうに痛かった。
「謝れよ……貴文に謝れっ!」
もう一人の少年が、体をしならせるようにして相手に殴りかかって行く。相手、とはすなわち、千津穂の中学の少年たちだ。彼らの方が年上なのだろうか、多少体躯が発達しているように見て取れた。けれど飛びかかった少年は全然負けていなかった。
一人で三人を相手にしているのに、そんなことはおかまいなしで暴れまわって三人全部地面に倒してしまうと、そのうちの一人に馬乗りになって殴り始めた。
容赦ない音が千津穂のところまで聞こえてくる。
「おまえなんかに貴文が分かるかよっ!」
悲鳴みたいな声。
殴られているのは、多分「貴文」くんに言葉の暴力をふるった奴なんだろう。
「おまえに貴文の何がわかんだよ、言ってみろよ。ほら、言ってみろ!」
駄々をこねるみたいに何度も何度も、相手の胸板に拳をたたきつける。
「貴文、康之止めてよ。止めないと康之あいつ殺すよ?そんなのどうすんのよ!」
女の子が泣きそうな声で立ち尽くしている少年の腕を揺さぶった。
ほんとにそんな勢いで「康之」くんは殴りつづけている。……ほんとに殺しちゃいそうな。
千津穂はその様子を息を止めて見ていた。
動けない。
怖いのに、目が離せなかった。
「そんなの康之がかわいそうだよ!」
その言葉に。
びくり、と「貴文」くんの肩が反応する。
「康之」
低い、聞き取りにくいほどの小さな声。けれど千津穂の耳にはしっかり届いた。そして、「康之」くんの耳にも。
「もういいよ、康之。やめろよ」
「康之」くんは、振り上げた腕を空中で止めて、相手に馬乗りになったまま、「貴文」くんを見上げた。
「だけど……だけど貴文っ!」
まだ全然足りない、って声が言っていた。こんなんで許せるわけないだろう?って、そう。
「貴文」くんと同じくらい、傷ついて。
「もういいって」
淡々と「貴文」くんが繰り返す。
「俺は大丈夫だから」
乾いた口調でそう言った。
俺は大丈夫だから。
嘘だって、千津穂にすら分かった。その言葉は絶対に嘘だった。けれど。
それが嘘だったから。
「……くそっ」
「康之」くんはそう毒づきながら腕をおろした。……おろしたというのは適切な表現ではない。
まだむかついている証拠とばかりにおもいっきり強く、相手のみぞおちのあたりに振り下ろした、というのが正解だ。
つかんでた襟元投げ出すように放して、立ちあがる。
こちらを半分向いた顔。
全然納得していない表情だった。
女の子が心配げに近づくけど、うっとうしそうに体そむけていた。
「貴文」
呼ぶ声に背を向けつつ──つまり、千津穂のほうに向きつつ──彼、「貴文」くんはもう一度繰り返す。
「俺は大丈夫だから」
顔を見たのはその一瞬きり──けれど、鮮やかな記憶として胸に焼きついた。
「貴文」くん。「康之」くん。
映像と一緒に記憶された名前。
まさか、高校で同じクラスになるなんて思っていなかったけれど……なにより、こんな形で彼らと関わることになるなんて、想像だにしていなかったけれど。
もしあのとき、あそこにいたのが今の自分なら。
彼にかける言葉があったのに。彼を癒す言葉を、あげられたのに。
それはかなわぬ願いであるけれど。
「ちい?」
声をかけられ、千津穂ははっと我に返った。志鶴とリョウが困惑したように彼女を見ている。
「……わたし、前から樹川くん、知ってたよ」
何を言おうとしてるんだか自分でもわからないまま、千津穂は言った。
ぽつんぽつんと言葉を落とす。
「樹川くん、傷ついてるよ。……変なふうに障ったら、その傷えぐることになるよ?そっとしておく方が、いいんじゃないかな……」
千津穂は後悔している。先日、安西康之にぽろりと言ってしまった自分の言葉を。
どうしてあんなこと、言ってしまったんだろう。
そっとしておいてあげたいと、本当にそう思っているのに。
彼が「樹川」くんになる前から。「貴文」くんだった、あのときから。
「……分かったよ」
なんだか苦い口調でリョウが応えた。思わず顔を見ると、そっぽを向いている。
「そっとしとくよ」
「リョウちゃん、ごめんね」
なんとなく謝らねばならない気がした。
彼には彼の、貴文に関わらねばならない理由というのがあるのだし、これはわがままなのだから。
全然主張する権利なんかないはずの、勝手なわがままなのだから。
だがリョウは肩をすくめる。そして言った。
「なんで謝んのさ。別にさ、どーせ『彼女』と貴文は会えないんだし、俺のやってることは無駄だからさ。……ちいや志鶴のが、正しいってわかってるよ……」
黒いキャップのつばを深く下ろす。そうして表情を隠す。そのまま、勢いよく自転車をこぎだした。
千津穂は切ない気持ちでもう一度つぶやく。
「ごめんね、リョウちゃん……」
届かなくても、届けたかった。