君がここにいる奇跡
一章 夢追い 其の三
「うわっち」
突然首の裏側を走った痛みに、貴文は首をすくめるようにしながらシャワーを放した。
「なんだぁ?」
怪我をした覚えもないのに、シャワーの湯が当たった途端、ぴりぴりと痛んだのだ。
手で触ってみると、なにやら皮膚ががさがさになっている。いや、ざらざらというのか。
爪に引っかかるところがあったので爪先でつまんで引っ張ってみると、ぺりりとはがれた。
髪を伝ってそこに落ちたしずくが、強烈に痛い。
こんな痛みには覚えがあるぞ、と貴文は思った。なんのことはない、単なる日焼けである。
それにしてもいったいどこでこんなに焼いたのだろうか。貴文自身に、そんな記憶はまるでないのだが。
首をひねりながら、とりあえず体を洗い頭を洗って浴室を出る──その間ずっと押し殺したようなうめき声やら、泣いているのか笑っているのか分からないひきつったような奇妙な声が浴室から聞こえていたので、そこからそう離れていない洗濯場にいた母可奈子は、いったい何が起きたのかと再三訝しんだ──。鏡をのぞいてみると、ところどころ皮がはがれてみっともない。立派に日焼けであった。
洋服を身につけ、洗面台の脇においてあった腕時計を取り上げる。はめようとして、おや、と思った。腕もやはりずいぶん焼けている。内側と外側とでは食パンの耳とパンほどに違う……と言っても過言ではないように思われる程度にはしっかり焼けていた。腕時計の跡もくっきりはっきりついている。
ほんとにどこで焼いたんだ?
覚えがないだけになにやら気色が悪い。これだけ焼こうと思ったら、かなりの時間、身を太陽にさらさねばならないはずだが。
「貴文くん、あがったの?」
ドアの向こうから可奈子が問いかけるのに、うん、と答える。バスタオルを頭にひっかけたまま出ていくと、彼女は少しだけ口元をへの字に曲げた。
「さっきから何度も大きな声で呼んでるのに、ちっとも応えてくれないんだから」
すねた口調でそう言う様子はとても37歳には見えない。いつまでも幼い──いや、もとい。若々しい人だと常日頃から貴文は感心している。
「そうなの?ごめん、聞こえなかった」
聞こえなかったのか聞いていなかったのか、自分でもそれは定かではないが、とりあえず皮のめくれたところが痛かった。
「康之くん、来てるわよ。お昼、一緒に食べたら?」
バスタオルやらフェイスタオルやら、丁寧な手つきでたたみながら、可奈子は食堂の方を視線で示す。
分かった、と言って貴文はそちらへ向かった。
そういえば久しぶりだな、と思う。康之が家に来るのは。大体年がら年中貴文の家……というより部屋に入り浸っている康之だが、最近は滅多に姿を現わさずに部活に精を出していたのだが。
かかとを引きずるような歩き方でスリッパをぱたぱた言わせながら食堂(というほどご立派なものでもない。ただのダイニングキッチンなのだが)に入っていくと、隣りのリビングでソファに座って新聞を広げていた康之は、顔も上げずに、おー、と言った。
んー、などと返事のようなそうでないようなうなり声を返しつつ、貴文は冷蔵庫を開ける。
「昼飯は?」
今日のメニューは冷製スパげティらしい。貴文がシャワーを浴びている間にもう一人前追加したのか、冷蔵庫の中には大皿に盛られて食べられるのを待っているスパゲティが二人前入っていた。
とりあえず麦茶を出してコップに注ぎながら問うと、康之は新聞を閉じてこちらを振り返った。
「あーうん、まだだけど。さっきケーキを三つも食った後だからなぁ」
麦茶を飲みかけていた貴文は、思わず、げ、と顔をしかめる。
ケーキを三つ?
想像するだけで胸焼けしそうだ。
「結局行ったんだ、里中と。ケーキ屋」
自分の分だけ皿を取りだし食卓につくと、康之は近寄ってきて皿の中身をのぞきこみ、うまそーうまそーと連発した。
「やっぱ俺も食お。可奈子さんの料理は絶品だもんなぁ。……で、なんだっけ?」
人の話なんて聞いちゃいないし。知ってたけどこういう奴だってことは、と思いながら、けれどため息が出た。
「いや、ごめんって。里中?の話だっけ?そうよ、当然じゃん、かわいい女の子とお茶する機会、みすみす棒に振るなんてお馬鹿な野郎はお前くらいのもんだって」
上機嫌である。そんなに楽しかったのかな、と思ったが、理由はどうやら別のところにあるようだ。
「ん〜〜、うまいねぇ。いやぁ最高。俺幸せ」
本当においしそうにスパゲティを食べている。いや、事実おいしいのだが。
可奈子は料理が得意だ。和洋中なんでもござれである。おかげで樹川家の面々は相当に舌が肥えており、生半可なことでは外食もままならない。そこらへんの安いファミリーレストランで分厚いステーキを食べるより、たとえ味噌汁とご飯しかないとしてもそれが可奈子の作ったものであれば家で食べる方がよい、それほど彼女の腕は確かだ。だから康之の反応も変ではない。ないが。
人の話聞けよこら。
思わずテーブルの下から足を伸ばして康之を蹴ってしまう。
なんだよー、と言った康之は、次の瞬間ふと真顔になり、それからにやりと笑った。否、正確には、にやーりと。
「ひょっとして、もしかして貴文くんも里中さんとお茶したかったのかなぁ、ほんとは?」
なんだか目つきがいやらしい。呆れ果てて貴文は苦笑した。
それにしても。
康之が「お茶をする」という言葉を口にすると非常に軽薄な感じがするのはなぜなのだろうか。
まあ、実際軽薄なのだからしてしょうがないのかもしれないけれど。
これじゃただのナンパ野郎だ。
そのナンパ野郎が学年首席だというんだから、つくづく変な世の中だと思う。変なのは康之だが、そういう奴を存在させている以上、世の中だって変なのだ。
「安心しなさいって、俺はなんにもしてないから。良心に恥ずべきところはなんらございません」
あったらまずいだろう。なんでこいつの話はすぐに飛躍していくのか。頭のいい奴にはどうもついて行けない。
貴文の冷めた視線に、康之はわざとらしい咳払いをした。
「あのさ」
いきなり口調が改まっている。スパゲティを口に運ぶ手を止めて、貴文は康之を見た。貴文より後から食べ始めた上、倍はしゃべっていたはずなのに皿の中身をすでにたいらげてしまった康之は、テーブルの上にあるティッシュペーパーの箱を引き寄せながら、柄にもなく言いよどむような素振りを見せる。
……しかし、よく食うよな。
ケーキ三つ。食っておいてこのスピードとは。とても真似のできる芸当ではない。しかも究極の面倒くさがりやのこの男は、不得意でもないくせに体を動かすことを嫌う。だから食べた分をいったいどこで消費しているのだろうと思うのだが、ちっとも太る気配はない。どころか、どうやっているものやら、奴の体はなかなかに鍛え上げられているのだ。まったく謎な男である。
その謎な男は、口のまわりを拭くと、おもむろにうーんとうなり出した。
なんなんだ、いったい。
「ちょっと気になったんだけどさ」
食事を再開しようかと思ったとき、やっと口を開いた。タイミングの悪い奴だ。
「なに」
珍しくも深刻げな表情を浮かべているのが気になる。
少し眉をひそめて貴文が先を促すと、康之はまたしてもうーんとうなった。
「お前、里中千津穂と親しくないよな?」
唐突な問いに貴文は目を丸くする。
「は?」
思わず間抜けた声を返してしまった。
おれが?里中と?親しい……?
なんの話だ、と言いたい。大体そんなこと、わざわざ聞くまでも知ってるはずだろうに、康之なら。
「うん、いや、分かってるけど。知ってるけどさ、一応確認」
もしかしてあれは里中の冗談だったのかと思いたくってさ。
相変わらず重たい口調で康之はそう応える。
何かを言いたくて、でも言えずにいる、そんな感じ。
何を隠してる……?
嘘なんて平気でつける奴だった、他愛のないものなら。人を傷つけない嘘なら、とても上手に康之はつく。
とても要領がよくて、世渡りがうまくて、人受けがよくて器用で……だけど。
絶対に曲げられないものを、心に持っている。
それに対しては嘘をつけない。それくらいプライドが高い。
だから彼を快く思わない人間もたくさんいるが、貴文はそんなこととっくに知っているから。
彼がどんな奴かだなんて、そんなこと。
だから。
言いたくないことをそれでも言おうとする康之に、ちらりと不安が浮かんだ。
心の底。自覚できないほど小さな、けれど確かにあるもの。
「全然ない」
きっぱり断言しながら、じっと康之の顔を凝視する。
里中千津穂?
ただのクラスメートだ。それ以上でもそれ以下でもない。それがなんだというのか。
「……だよな。俺も分かってた。そうなんだよな」
落ち着きなく首を縦に振りながら、視線をさまよわせる。まるでらしくない康之の態度に、貴文は本気で眉をひそめた。
「それがどうしたんだよ?」
知らず詰問調になっていただろうか。歯切れの悪い康之の態度にいらついていたのは確かだが、それは彼に対してではなく、彼の歯切れを悪くさせているもの、に対しての苛立ちだったのだけれど。
康之がため息をつく。
「あのさ。里中はここの生まれじゃないんだよ」
……は?
いきなり意味不明の言葉だった。
口をはさもうとした貴文を、けれど康之は片手を上げて制する。
「まぁ聞けって。だから里中はここの生まれじゃないんだよ。去年、こっちに越してきたんだってさ。それまでは咲良川の下流の方に住んでたんだと」
咲良川。「隠し山」から流れている川だ。源はとても小さいが、山をおりたところで賀志川という大きな川と合流し、海にまで続いてゆく。本来こちらが傍流なのだが、賀志川と合流後はなぜか「咲良川」が河川の名称になっている。
康之が言っているのはそちらの「大咲良」の方だろう。「小咲良」ならば、いくら下流といってもこの街から出てはいない。
「咲良?」
貴文は少し目をすがめた。
康之がどういう方向へ話を持っていこうとしているのか、それを探るように。
咲良川。
この言葉は、貴文の心に暗い陰を落とす。
それをあえて出すからには。
生まれたばかりの不安が、徐々に形を成し始めていた。
「そう。……それで。お前のことを知ってた」
だがそこで唐突に康之の言葉は結論にたどりついてしまった。
お前のことを知ってた。
……それがなんだ?
身構えた肩の緊張を解いて、貴文は呆れた顔になる。
「だから?」
康之はそんな貴文を一瞬見据えた。真面目な表情。
「貴文。里中千津穂はみなしごだ」
貴文の動きが止まる。浮かびかけていた笑みがかき消える。
「みなしご?」
まだ全然話は見えてこない。見えてこないけれど。
なにかがどこかでカチリと合った。そんな錯覚を覚える。
「そう自分で言った。それからこうも」
康之は麦茶を一口飲むと、唇を湿らせるように舌でぺろりとなめた。
「『樹川くん、妹さん亡くしてるよね。わたし、その頃に今の親に拾われたの』」
────え?
貴文の表情が驚愕にこわばった。
なんの話だ……?
思考がパニックを起こしそうだ。
ちょっと待て、康之。それはなんの話だ……?
妹?だれの?
───おにいちゃん。
頭の奥に響く声。呼んでいる、声。
脳裏に鮮やかな映像が現われる。まぶしいほどの緑。きらめく川面。
少し前に見たばかりの、景色───。
ああ、と思い出した。
あそこだ。あそこで日に焼けたのだ。
納得すると同時に、おや、と思う。
焼けるほど長い時間、あそこにいたわけではなかったが……、と。
けれどそんな思いもすぐに消える。
───おにいちゃん。
呼ぶ声。幼い少女の、澄んだ声。
いつもいつも、自分のすぐそばにあった声。
───おにいちゃん。
「違う!」
叫んだ瞬間、ばんと大きな音がした。
「貴文!」
康之がテーブルをたたいたらしい。その音で現実に引き戻される。
「しっかりしろよ。あっちへ行ってたぜ」
たたいた拍子に倒れてしまったらしいコップを直しながら、彼はなだめるような口調でそう言う。
「……ちがう。里中のわけない……」
どこを見ているのか分からない表情のまま、貴文はつぶやいた。
咲良川の下流にいた少女。
咲良川の下流で拾われたという、みなしごの少女。
けれど。
「理帆と里中では年が違う……」
里中は同い年。
理帆は……妹は、二つ下だ。
「悪かった。ごめん、やっぱり聞かせるべきじゃなかったな」
言って、康之はくしゃりと前髪をかきあげた。そしてそのまま、彼の視線は凍ったように動かなくなる。貴文の後ろ。ダイニングのドアを見たまま。
不審に思った貴文が振り返ると、可奈子が蒼白な顔で立っていた。
「母さん……」
貴文の声にはっと我に返る。
「ごめんなさい、ちょっとびっくりしちゃった。……お買い物、行ってくるわね。康之くん、ゆっくりして行って?」
平静を装っていたが声が震えていた。そのまま逃げるように出ていった彼女の背を視線で追い、康之はテーブルの上に突っ伏した。
「馬っ鹿だなぁ、俺。なんでこんな話したんだろ?……里中としゃべってるときは別になんとも思わなかったんだ。だけど別れてから無性に気になって、どうしてもお前に言わなくちゃならない気がしてさ。ほんとに馬鹿だな、俺」
そんなことはないよと、言ってやりたかったが言えなかった。
考えてみればまったく馬鹿な話だ。ほんの一瞬でも里中千津穂が妹なのではないかと考えるなんて。
無理やりのようにこじつけて。
それでも、それをすんなりと受け入れてしまうほどの祈りが。
まだ自分の中に眠っている……。
だから夢を見るのだろうか、と思った。呼んでいるのはあの子ではなく、自分なのだろうか?
「名前、出したのはまずかったよな……」
落ちる、苦いため息。
今この季節に、よりによって彼女に、禁忌の言葉を聞かせてしまった。
あんな顔をさせてしまったことが、なにより胸に痛い。
十二年。
時が傷を癒してくれるなんて、あれは誰が言ったのだったか?
まるで時間など経っていないほど、傷跡はいまだこんなにも新しい。
たった一つの言葉が、記憶を鮮やかに引き寄せる。
「理帆」。
小さな小さな存在だったのに、何よりも影響を与える。
───おにいちゃん。
思い出せるのは悲鳴と泣き顔だけ。
指先にかすかに残る、幼いぬくもりだけ。
笑顔を思い出そうと努力してみたが、どうしても出てきはしなかった……。