君がここにいる奇跡
一章 夢追い 其のニ
平均評定4.72。
まあ、悪くはない。先刻受け取ったばかりの成績表を面白くもなさそうに眺めながら、貴文はそう思った。希望している大学はそれほどランクが高いわけでもなく、今のままならば問題はないと長谷部は言っていた。
『火曜はどうしたんだ?』
そう尋ねられて、風邪で寝ていたと答えた自分。長谷部の反応は、
『まあ、体を休めるのも大事だがな。でも今は出席日数も大事だぞ』
というものだった。別になんとも思いはしない。生徒の心配より生徒の成績の心配が教師の仕事だ。そんなこと分かっている。
なのになんだか苛つくのは。
……風邪なんて嘘だ。
自分がついた嘘のせい。
風邪なんて嘘だ。ただ行く気がしなかったというだけの話で。なんで行く気がしなかったかというと、そんなことに理由はない。
面倒だったから行かなかった。それでも風邪と言えば通る。なんだか馬鹿みたいだ。
成績表を鞄に入れ、貴文は自転車を押して歩き出した。なだらかな坂。彼が通っている高校は、閑静な住宅地域の外れ、緩やかな丘陵地の頂上付近にある。辺鄙なところに建てたものだが、進学率の良さがものを言うのか、毎年入学志望者の倍率はかなり高い。
それほど進学校然としていないのがかえっていいのかもしれない。
だが、通学は不便である。バスならともかく、貴文の場合、なまじ家が近いだけに自転車通学なものだから、行きは上り坂が辛い。帰りは非常に楽であるが。
曲がりくねる下り坂を、わざとゆっくり歩いておりる。別に意味はなかった。ただ家に帰るのを先に引き伸ばすためだけの行為。
午前11時43分。家では母親が自分の分の昼食を用意している頃だろう。分かっていたが、帰る気にはなれなかった。
誰もいない家で、母親とふたりきり。仲が悪いわけではない。どころか、いいほうだと思う。……けれど。今は。
夏の、間は。
道路の脇はコンクリートで固められた壁面になっている。その向こうは山だ。少し奥に入ると川が流れている。小さな川。けれど、下流になるにつれ、幅も深さも増していく。小さな頃はよく遊びに行ったものだ。この辺には公園なんかないから、山の中が遊び場だった。危ないから子供だけで行くのはやめなさいと何度注意されたことか。けれど忙しい大人を待っていたらちっとも遊べない。
言いつけなんて聞く耳持たずで日参していた。裸足になって駆けずり回り、大声で歓声を上げていた……。
貴文は小さく首を振った。つまらないことを思い出してしまった。これもみんな暑さのせいだ。
『潮時なんじゃねぇの』
康之が、あんなことを言うから。
そんなものがあるなら、もうとっくに来ていると思うのだが。
ため息をひとつ。
うだるような暑さに、自転車に乗って走り出そうとしたとき。
かすかに声が聞こえた。
泣き声……?
周囲を見まわすが、人影はない。車だって全然通っていない。この坂の上には学校があるだけだから、休みの時期はもともと人通りが閑散としているのだ。
けれど、声は確かに聞こえる。
貴文は足を止め、脇にそそりたつコンクリートの壁面を見上げた。声はそちらの方から聞こえる。
否、そのもっと奥、山の中から。
迷子か……?
かつての自分のように遊びに来た子供が迷って助けを求めているのだろうか?
ありうることだった。大人たちが口をそろえて危険だと言ったのは脅しではない。この小さな山は、見かけによらず険しくて、小さな子供がよく迷うのだ。迷うほかにも無論危険はある。
泣き声はまだ聞こえている。周囲には誰もいない。そう、その子の声を聞くものは、貴文のほか、誰もいなかった。
けれど、貴文の足はすくんだように動かなかった。すぐそばの鉄はしごをのぼれば、もうそこは山だ。声の主までそう遠くはない。昔の記憶はまだ残っているから、迷うことはないだろう。
……だが。
それでも足が動かないのは。
「隠し山」。地元の人間がそう呼ぶこの山に入っていけないのは。
───おにいちゃん。
貴文は激しく頭を振った。
うるさい。うるさいうるさい、消えろ!
お前の声なんか、聞きたくない。
脳裏で響く声。そして鼓膜に届く声。
二つが重なり合うように聞こえてくる。
乱暴に自転車を壁にたてかけた。うまく立たないのを鞄ごと放り出す。
「ちくしょう!」
毒づきながら、鉄はしごに腕をかけ、一気に上まで上った。
どこだ。子供はどこにいる?
こめかみがどくどく鳴っていた。頭の芯が痛い。
ここは、だめだ。だめなのに……!
「隠し山」。本当の名前はそうではない。「美咲山」というのだ。だが、その美しい名前は地元の人間には忘れられたものだ。ここの住民にとって、この山は「隠し山」以外のなにものでもない。
大人がここに来るなというのは。この山が本当に子供を隠すからなのだ。
「おい……!」
次第に動悸が激しくなってくるのに顔をしかめながら、貴文は呼びかけた。
泣いている子供。どこにいる……?
もう何年も踏み込むことのなかった場所。けれど、体が覚えている。道を違わず声へ近づいて行く。
子供の声。それだけを頼りに一歩ずつ奥へ、奥へ入っていく……その、耳に。
「……っ!」
一瞬、呼吸が止まった。
届いてしまった音に。
だめだ……!
ここから先へは行くなと、体が全身で訴えている。行きたくないと拒否している。
けれど呼ぶ声。先ほどよりはるかに近く、もうすぐそこで聞こえている声。
行ってやらねば。でないと、"また隠される"。
その思いに体を無理やり動かした。なんで俺はこんなことをしているんだろう。頭のどこかでそう思いながら。
一歩、進むたびに近づく声。そして近づく音。
川の、せせらぎ。
「おい……」
いるはずの子供に呼びかけた、瞬間。
視界が開けた。
木の茂る鬱蒼とした陰から、突然の光の洪水。目が眩むと同時に、心臓が跳ね上がる。
この、場所。
なんということはない、ごくありふれた風景なのに。
強い日差しを照り返しながらさざめく川面。
耳の横をかすめていくかすかな風。さわさわと葉鳴りが聞こえる。
なにもかも、あの日と同じ。
───おにいちゃん。
頭の奥で声がする。あの声が聞こえる。
頭が、痛くなる。
こらえきれなくて、貴文は片手で両のこめかみを押さえた。
けれど止まらない痛み。
急激に押し寄せてくる、罪悪感。そんなもの、とっくに消えたと思っていたのに。
なのにいまだにしつこく、こんなにも鮮やかに残っていたなんて。
この指先に。左の。
───おにいちゃん。
違う。俺は悪くなかった。
あれは事故で、俺にはどうしようもなくて。
指先をかすめた感触。耳をすり抜けていった悲鳴。
───助けて、おにいちゃん!
叫んだ、あいつの目が。
追いつめる。
夢になる。なって苦しめる。縛り付けて放さない。
───助けて!
やめろ。
耳鳴りがする頭の中で何かがわんわんと響く。
気持ちが悪い。目が回る。
うねる流れ。遠ざかっていく麦わら帽子。必死にのばされた幼い手……かすめる感触。
感触。
ぐうっと貴文はうめいた。喉の奥にせりあがる熱い塊。
……なんだ、これ。なんだこれは。
指先に伝わったかすかな温度。体温。
ぐにゃり。
目の前が歪む。映像がぶれる。
耳鳴り。めまい。感触。すり抜ける。
───おにいちゃん……。
聞こえる、声。
ぐらりと体がかしいだ。意識が吸い込まれてゆく。真っ暗な闇の中に。
かくんと折れた膝から前のめりに、貴文はゆっくりと倒れこんでいった。
「…………さん、おにーさん。……おにーさんてば」
どこか遠い場所から呼ばれているような気がして、貴文はぼんやりと目を開けた。途端、飛びこんでくる光。眩しさに目を細める。
「あ、気がついた」
声だけが脇から降ってくる。
と、唐突に眼前に顔が現われた。本人、気軽にのぞきこんだだけなのだろうが、心臓に悪い。
思わず目を見開いてしまった貴文である。
「気分は?平気?」
わずか20センチばかり上からそう尋ねて、ぺたっと手を貴文の額に当てる。
「熱はないよね。さっきも計ったけどさ。いきなり人がぶっ倒れてるからびっくりしたよ」
言って顔をのけた。貴文はゆっくりと体を起こす。まだ頭の中心のあたりがぼんやりと痛い。
「おれ……倒れてたの?」
記憶がなにやらあやふやだった。いったい何が起こったのだったか。
「そうだよ。あそこにばったりと。一瞬死んでるのかと思った」
人懐こい口調で屈託なく彼はそう言う。
彼。
貴文に呼びかけていたのは、少し年下であろう少年だった。大きな瞳が印象的な。
ハーフなのかと思うほど、色が白い。
「とりあえず生きてたから日陰につれてきたんだけど。そのあとどうしていいかわかんなくってさ、ずっと呼ぶだけ呼んでみたんだけど、良かった、気づいてくれて。ほんとにどうしようかと思ったもん」
黒のキャップをかぶり直しながら笑った少年に、貴文は軽く頭を下げた。
「ありがとう」
他になんと言うべきか言葉を見つけられず、とりあえずそれだけ口にすると、少年はくすくすと笑った。
「やだな、いいよ、そんなの当然のことじゃん?それにしてもあんたさ、具合でも悪いの?ずっと辛そうな顔してたけど」
問われ、小さくかぶりを振る。
「いや。……夢を……」
答えるつもりのなかった言葉がついこぼれた。一瞬きょとんとした少年がまたも笑い出す。
「夢?面白い人だなー。こんなとこで倒れて夢なんてみるの?」
デリカシーのかけらもない言い方だが、悪意がないのが分かるから腹は立たない。
それよりも、と貴文は周囲をきょろきょろと見まわした。
「このあたりに子供はいなかったか?」
泣いていた子供。あの子を見つけたくてこんなところまで来たのに。
問いかけに少年は、ああ、と言った。
「あの迷子?あれ、おにーさんの知り合いの子だったんだ?今、俺の友達が送ってったとこなんだけど、余計だったかな?」
そんなことはない、と貴文は首を振る。だがそれでは、さきほどからあまり時間は経っていないのだろうか、と思い腕の時計に目をやると、12時を回ったところだった。10分ほどしか経っていないのか。なんだかやけに長い時間を過ごした気でいたのに。
「おにーさん、ひとりで帰れる?ほんとに顔色悪いけど。俺、ついてってやろうか?」
少年の親切な申し出に、大丈夫、と答えながら立ちあがる。多少頭がふらふらするが、さっきのことを考えれば嘘みたいに平気だった。
一人で大丈夫だと言ったが、俺も山を降りるから、と言って少年は自転車のところまでついてきた。明るいところに出てみると、少年は思いがけず小柄であることが判明した。貴文より頭半分ほど低い。162、3というところだろうか。まあ、まだ成長期だしな、などと関係ないことを考える。
「ほんとにほんっとに大丈夫?……言っておくけど、俺が心配する程度には充分顔色悪いよ?自覚ないでしょ、あんた」
心配しているのか馬鹿にしているのかからかっているのか……心配しているのだと思いたいが、しかし信じきるには今ひとつ信憑性に欠ける口調で少年が念を押すのに、大丈夫、ともう一度うなずいた。
「ゆっくりだよ。また倒れても知らないからね。……あ」
唇を尖らせ、指をつきつけた少年は、そこでふと言葉を途切らせる。視線を少し先のほうへ走らせた。
少し下方から坂を少女が登ってくる。長い髪をひとつにまとめてポニーテールにしている。Tシャツにジーンズというラフないでたちの彼女は、少年に気づくと少し笑って手を振った。
「リョウ」
呼びかけに少年も笑顔で応じる。
「お帰り。……ほら、さっき言ってた友達。子供送ってった」
ああ、と貴文は納得した。
「リョウ?」
尋ねると少年はそう、とうなずく。
「じゃあ、リョウ。俺は行くから。ありがと」
一瞬、ひらひらと指を動かしながら手を上げて自転車を走らせる。少女の脇をすり抜け、坂を下ってゆく。
「まーたーねーっ!気をつけて帰れよーっ!」
リョウのばかでかい声が背中を追いかけてきて、思わず口元が緩んだ。
またね、か。
そんなことがあるのかどうかは知らないが。
能天気な彼の言葉が、ほんの少し気分を晴らしてくれたのは確かだった。
「リョウ?……今の人って……」
遠ざかってゆく自転車を振り返りながら、少女は少年へ向け問いかけた。
リョウは屈託なく答える。
「ああ、うん。そうだよ、例の」
あまりにもさらりとした物言いに、少女は怖い顔をする。
「話したの!?」
非難がましい言い方に、けれどリョウは悪びれない。
「ちょっとだけだよ。大丈夫だって、あっちはなんにも知らないんだし。問題なし。ノープロブレム」
「だけど!」
言い募る少女へ、リョウは不意に真面目な顔を向けた。
「俺がいいと言ってるんだからいいの。志鶴は黙ってなさい。……OK?」
有無を言わせぬ口調。志鶴と呼ばれた少女は、釈然としない表情は消さぬまま、それでも口を閉じた。
「心配性なんだよ、志鶴は。……もう会うこともないんだから、なんの心配もないって。さってと、帰ろ帰ろ」
言い置いてさっさと歩き出した少年の背中を追い、志鶴はすでに見えなくなっている自転車の主を遠い目で追いかけた。
「……あれが、樹川貴文……」
そんなつぶやきが落ちたことを、無論貴文は知る由もない……。