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君がここにいる奇跡

一章 夢追い 其の一

その日は朝からやけに暑かった。クーラーのない部屋ではとてもとても寝ていられそうになくて、貴文は珍しくも早くから起きだし、勉強道具なぞ鞄に詰め込んで図書館へ自転車を走らせた。

勉強するつもりもないが、ただで涼めるところといえば図書館くらいしか思いつかない。大学受験を控えた高三生にはお似合いの場所であろう。この季節、家にはなんだか落ち着けない。表には出さないが、はっきりと伝わる気配があるから。

図書館はわりと混んでいた。貴文と同じように参考書だのレポート用紙だのを抱えた学生がうろうろしている。それをぼんやり眺めながら、彼は空いていた窓際の席へ手をかけた。腰をおろそうと椅子を引いた瞬間、後ろからくいっと襟首を引っ張られる。

「なにやってんだ、こんなとこで?」

人の襟首を指で引っ掛けたまま、のんびりした口調で言った相手に貴文は目を丸くした。その台詞をそっくりそのままお返ししたい奴が相手だったので。

それは口に出さずとも伝わったようで、彼は茶色い髪をかき上げながら少し笑う。

「俺はほら。例の」

おちゃらけた口調で濁した言葉が差すものを察して、貴文は軽くうなずいた。

安西康之。少し長めの茶色い髪と左耳だけについているピアスが印象的なこの少年は、幼稚園から高校までずっとおんなじという悪友である。腐れ縁、という言葉があるが、こいつの場合、それはちょっと当てはまらない。なぜなら、彼は自分で好んで貴文と同じ道を選び取ってきたからだ。

それがなぜなのか、彼が答えてくれたことはないが、長い付き合いで見当はついている。ついてしまう。だから敢えて気づかないふりをしているのだが。

康之は貴文の襟から指を外すと、ちょうど背中合わせになる位置の席に腰を下ろした。合わせて貴文も座る。半身を窓へ向けるようにしながら、康之は声をひそめて話し掛けてきた。

「お前も?おふくろさんになんか言われたのか?」

貴文は黙ってかぶりを振った。ふうん、と康之は小さくつぶやく。

「……夏だからなぁ」

傍から聞けば意味不明の台詞だが、貴文はため息をついた。

夏。夏は嫌いだ。

「そういえばお前さ」

声のトーンを変えて再び康之が話し掛けてくる。話題が変わってくれたことにほっとしながら貴文はうなずいた。

「終業式、来なかったろ。あの日悲惨だったんだぜ。なんで来なかったんだよ」

三日前の話題を持ち出しながら、康之は非難がましい視線で問いかける。貴文は一瞬きょとんとした。

「悲惨?どうしたんだよ」

そう言えば通知簿をもらいに行かなければならなかったな、と今更思い出した。担任から連絡が入っていたのをすっかり忘れていた。帰りにでも学校を回って帰ろう、などと考えつつ問い返す。

あの退屈な学校で、いったい何があったというのか。

「いきなりクーラーぶっ壊れやがってよ。しかもうちの学校、クーラーあるからって扇風機置いてないだろ?しょうがないからみんなして下敷きぱたぱたさせてよ、……地獄だったぜ、あれは」

……どうせそんなことだろうと思った。面白いことなんて、なんにもない。

勉強。勉強。勉強。

それの繰り返し。それだけの。

つまらない。くだらない。受験生がなんだ。

普段おちゃらけている奴もなんだか口元引き締めてがんばったりして。

みんな同じになってしまう。

康之も。

つまらないと言っている、自分自身も。

「あれ」

不意に頓狂な声を上げた康之に、つられて目を上げた。友人の視線の先にクラスメイトの里中千津穂の姿を見つける。

白のシャツに薄い水色のデニムのスカート。制服以外で見るのは初めてだったから、康之が気づかなければまず分からなかっただろう。クラスでもあまり目立つ方ではないから、印象としては、真面目な人、くらいしかない。

「俺、あいつに下敷き借りっぱなしてたんだった。ちょうどいいや、返してくるわ」

なんでそんなものを持って歩いてるんだと突っ込みをいれたかったが言わずにうなずいて、貴文は席を立った。

「おれはそろそろ帰る」

なんだか気がそがれた。どこにいても気分なんか晴れないのは分かっていたけれど、もうここにいる気分でもない。

「そうか?あ、だったら学校寄ってけよ?長谷部が言っとけってうるさくってよ。成績、まだもらいに行ってないんだろ?」

下敷きを探しているのか鞄をごそごそかきまわしつつ康之が言う。ちらっとのぞくと、ばらけたルーズリーフがぐしゃぐしゃになって何枚も入っているのとかCDアルバムのケースとか、なんとかいう雑誌とかそんなものが混在していた。ドラえもんのポケット並みになんでも出てきそうだ。里中の下敷きはこんな汚い中に埋まっているのかと思うと少しかわいそうになる。ちなみに長谷部というのは担任の名前で、康之が夏休み前まで籍を置いていた部の顧問だ。なんといったか忘れたが、字幕なしの洋画を見て英語を学ぼうとかいうクラブだった。康之はもう引退したはずなのにどういうわけか毎日顔を出しているようなのだ。

「わかってる」

そっけなく答えて貴文は鞄を肩にかつぎあげ、貸し出しカウンターの隣りを通って出ようとした。のに、本を何冊か抱えておとなしく並んでいた里中千津穂が気づいた。

「樹川くん?」

驚いたように目を丸くする彼女に、軽く会釈する。学校以外で会うというのはなんとはなし、気恥ずかしい。それでなくても貴文は女という生き物があまり得意ではない。

「早いね。もう帰り?」

嫌味のない言い方だったが一瞬返事に詰まった。真面目な彼女にただ涼みに来ただけと言っていいものだろうか。

「よっす、里中。これ、こないだサンクス。返すの遅れてごめんな」

追いついてきた康之が差し出した下敷きを受け取っている彼女に、とりあえず、じゃあ、とだけ声をかけて貴文は背中を向ける。途端、

「ほんっとに愛想のない男だねお前は」

首に康之の腕が巻き付いてきた。がしっと。思わずぐえっとなった貴文を強引に里中千津穂の前に引きずり戻し、彼は極上の笑みを浮かべる。

「里中。時間あるんだったらどっかでお茶でも飲まん?」

下手なナンパ野郎かお前はーっ!とできることなら貴文は叫びたかった。しかし喉を締め付けられていては満足に抵抗もできない。

なにを考えてるんだ、なにを!

昔っからいきなり突拍子もないことを言い出したりやりだしたりする奴だったが、今度は何を企んでいるのだろうか。

よもや里中に惚れてるというよーなことは……ないと思うのだが。多分。

長い付き合いでそれくらいは分かるつもりでいる。だが、それではこれはなんなのだろう。

おれに対する嫌がらせか?そうなのかっ?

何が苦手といって女の子ほど苦手なものはない。それを知りすぎるほどに知っているくせにこの仕打ちとはそれしか考えられない。

しかも。

里中千津穂は気の毒そうに貴文を見遣りつつ、こともあろうにうなずいたりしたのであった。

「おーっし!それじゃ俺がおいしいケーキ屋さんを紹介してあげよう。自転車置き場にいるから、手続き終わったらおいで。……ほら、お前もとっとと歩く」

うきうきうきうき。

彼の周りを音符が躍っているのではないかと思うくらいの弾んだ声である。

絶対、嫌がらせだ、これ……。

半ば諦めながら引きずられるようにして玄関を出た。ところで、康之はぱっと手を放した。

「お前ね!」

抗議の言葉を殉教者よろしく両手を上げて受け止める。痛みの残る首根っこを手で押さえながら貴文は大きく息をついた。

……確信犯だし。

もはやため息しか出ない。あきらめて自転車置き場へ向け歩き出す。

「……なにがしたいの、お前。いきなりなんなのよ?」

げんなりしながら尋ねると、悪びれもせず彼は答える。

「だってさ、お前、里中かわいそうじゃん。あんまり哀れで見てられなかったのよ、俺はさ。そんだけ」

康之の答えの半分も理解できず、貴文は、は?と顔をしかめる。

かわいそう?哀れ?

いったいなんの話ですか、である。

すると康之は少し嫌そうな顔で、もしかして、と続けた。

「……もしかして、ほんとに気づいてなかったりする?」

だからなんの話だ、というのに。

わけのわからぬまま眉をひそめていると、聞こえよがしなため息が聞こえた。

「だから。あれは絶対お前に気があるんだって」

一瞬、貴文は目を瞠った。けれど表情は変わらない。相変わらずのしかめ面。

「何が?」

康之が天を仰ぐ。

「里中千津穂」

やけにゆっくりはっきりそう言った。分かってるんだろ、そう言わんばかりに。

「だから何が?」

貴文はしつこくそう繰り返した。そう繰り返すことで康之の無言の問いかけに肯定を返すことになると知りながら。

康之は機嫌の悪いときの癖で、顔の半分だけしかめながら、片手を腰に当て、もう一方の手を首に当てて斜め後ろの地面を睨みつける。

「……あのな、貴文。俺、お前のそういうとこ嫌い」

低い声がうなるようにそう言った。貴文はため息をつく。今度のため息はさっきのとは意味が違っていた。

降参。そのため息。

「俺、応える気ないし」

里中千津穂。苦手な女の子の名前なんてほとんど覚えていない貴文が彼女の名前を覚えていたのは、それもフルネームで覚えていたのは。

彼女がいつもいつも貴文を見ていたからだった。それがどういうことなのか、貴文にだって見当はつく。つくが、敢えて気づかぬふりをしていたのだ。

それを康之はかわいそうだと言う。哀れだと。そうなのかどうか、貴文には分からないが。

「もったいねーな。結構人気あるんだぜ、里中って」

だとしても関係ない。名前を覚える程度には気になっていたけれど、それは見られているせいで。

自分の感情とは関係ないから。

「そんな余裕ないよ、おれ。ひとりで充分だよ」

苦笑しながら言ったら、康之は首を横に振りながら、しょうがないなと少し笑った。

「例の子か?」

「そう」

うなずく脳裏に響く声。

───おにいちゃん。

頭の奥が鈍く痛む。

「いい加減忘れろなんて俺は言えないけどさ。……でも、潮時ってあると思うぜ」

図書館の玄関口へ目をやりながら、康之はそう言う。

そう言うけど。

できりゃ苦労はしないんだよ。

喉の奥の言葉を、心の底に沈めた。

図書館の玄関口、黒いさらさらの髪を肩のあたりでなびかせて、里中千津穂がやってくる。

「……おれは帰るよ」

それを視界におさめつつ、貴文はそう言った。今度は康之も黙ってうなずく。

「……夏だからなぁ」

帰り際、耳を掠めた彼の言葉が、胸に重く残った。