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君がここにいる奇跡

ニ章 記憶の跡 其の一

偶然とはげに恐ろしきものである。

と、貴文はつくづく思った。まさかこんなところで会うなんて。

それは家から車で10分のところにある大手スーパーでのこと。可奈子に頼まれて一緒に買い物に来ていた貴文は、3階の生活用品売り場のレジでばったり会ってしまった人を半ば呆然と見つめた。

里中千津穂。

最近、貴文の頭を離れなくなっている、けれどただ単なる高校の同級生というだけの少女。

ティッシュペーパー5個組3つ、トイレットロール16ロール入り3つを抱えてレジに並んでいる彼に彼女もまた気づいて目を丸くした。

……同じ会うならもうちょっとましに会いたかった。

ちらりとそう思ったが、いまさらである。

「こんにちは」

癖なのだろうか、小首をかしげながら里中千津穂は声をかけてきた。

「どーも」

貴文は無愛想に会釈を返す。

……咲良川の。

咲良川の下流に住んでいた、みなしごの少女。

関係ないと割りきっているはずなのに、どうしてこんなに気になるのだろう。

「すごい量ね」

彼女は貴文が抱えているものを見て、くすくすと笑った。

そう言う彼女も彼と同じものを持っている。もっとも、一つずつ、ではあるのだが。

「安売りだもんね」

しかしいかに安かろうと、買い過ぎではないのか?と貴文は思う。親子3人、こんなにも消費は激しくないと思うのだが。しかし可奈子は平然とした顔で、

「なにを言ってるの」

と言った。

「安いときに買いだめしておく。これが主婦の基本よ」

そうなのか。

あんまりきっぱり言いきられて、妙に感心してしまった貴文である。その可奈子は、この大量の荷物を息子に押し付けて、自分の服を見に行ってしまった。

あれが始まるとなかなか帰れないんだよな……。

ふう、とため息をついたところで、自分の後ろに並んできた人と目が合ったのだ。

いやはやまったく、狭い街である。

里中千津穂は、なんだかちっとも日に焼けていないみたいだった。日差しの強い暑い日が連日続いているというのに。

あまり外には出ないのだろうか。

確かにあまり活動的には見えないが。どちらかといえば、図書館で勉強したり家で本を読んでいたりするほうがらしいというような印象がある。

それは暗いという意味ではなく、おとなしいとかまじめ、というところからの連想であるのだが。

「樹川くん、それどうやって持って帰るの?自転車じゃ乗らないんじゃない?」

千津穂の問いかけに、貴文はいや、と答える。

「車だから」

本人ちらっとも自覚はないが、全然まるっきり愛想のない声であった。しかし、千津穂はめげずに会話を続ける努力を試みる。

「くるま?樹川くん、運転できるんだ?」

どこかずれた反応に貴文の顔にようやく表情らしきものが浮かんだ。と言っても、それは本当にごくわずかなものではあったが。

「いや、おふくろが」

答えに千津穂がああ、と得心する。

「お母さんと来てるんだ」

沈黙。

会話はそこで途切れた。千津穂が困ったように少し笑ってうつむくのに、なにか言わねばいけないだろうか、と貴文は思う。しかし話題など思い浮かばない。

レジの順番が回ってきたのをいいことに、彼女のその表情に気づかぬふりをして前に進んだ。

女の子は苦手だ。

それは確かなことだったし、またそう思うことで身構えてしまうのもこれまた確かなことだった。

だから女の子と話をするなんて、貴文にとっては高度に過ぎる芸当なのだ。

清算を終え、そのまま行こうとしてそれでも一瞬だけ迷う。

なにかひとこと、言っておくべきなのか?

その「なにか」がなんなのかはわからないが、一応千津穂を振り向いた。

気づき、彼女はまたも小首をかしげる。

「またね」

その微笑みに貴文は無表情かつ無言で応えた。軽い会釈。印象悪いことこの上ない。

それでも上出来だと自分で自分をほめた。

本当なら会釈のひとつも返せないはずだった。けれどわざわざ振りかえることまでしたのは、やはり。

康之の言ったあの言葉が心にひっかかっているせいだ。

『樹川くん、妹さん亡くしてるよね。わたし、その頃に今の親に拾われたの』

どういうつもりで彼女はこの言葉を康之に言ったのだろう?

そもそも。

妹のことを彼女はなぜ知っているのか……?

当時は確かに話題になったけれど、それは大人たちの間を一時期駆け巡るとやがて消えていった。だから、今この話を覚えているのはごく少数の人間だけだ。

あえて話題として持ち出せば、ああ、と思い出す人はいるだろうけれど。

だが、やはり里中千津穂が知っていたというのがなんだか腑に落ちない気がする。

ずり落ちそうになるトイレットロールをよいしょと抱え直し、貴文は下りのエスカレーターに乗ろうとした。しかし……足元が見えない。後ろから声がかかったのはその刹那。

「あぶないよ。手伝おうか?」

少年にしてはやや高い声がそう言った。

どこかで聞き覚えのあるような……?

そう思いながら振りかえると同時に抱えていた荷物がひとつ、取り上げられた。

「あれ?」

トイレットロールの陰から現われた顔に、その少年は目を丸くする。

「おにーさん?」

聞き覚えがあると思ったら、先だって「隠し山」で会ったあの少年であった。

今日もまた黒のキャップをかぶっている。

「偶然だね。買い物?」

見れば分かるだろうにわざわざ尋ねてくる。ほんとに人懐こいな、と貴文は思った。けれどそれは不愉快な人懐こさではない。そう感じることに貴文自身、少し驚いているのだが。

貴文の苦手なものはなにも女の子だけではない。初対面の人間もしかり、である。要するに人見知りが激しいのだ。だから、最初から馴れ馴れしく話しかけてくるような奴は好きではないのだが。

「しっかしすごいな、この荷物。おにーさん、何人家族?」

少年は半ば呆れたように貴文の荷物を眺める。

「リョウ」

やや厳しい声がそこへ飛んできた。見ると、やはりこの間見かけた少女がきつい顔で睨んでいる。

「志鶴」

リョウは屈託ない様子だが、志鶴と呼ばれた少女は、なにやらすこぶるご機嫌ななめであるようだ。

「……そんなところでしゃべってたら迷惑だわ」

そういえばそうだ。気づき、貴文とリョウはエスカレーターから少し離れた。

しかし志鶴の表情は相変わらずきついままである。

「志鶴、あいさつくらいしたら?」

別に貴文は気にしなかったが──もっとはっきり言うと、あいさつなどされない方が気持ち的には楽なのだが──リョウがそう言うと、志鶴はきっと彼を睨みつけた。

「ちょっと!」

言うなり少年の腕をひっつかみ、少し離れたところへずるずると引きずっていく。

こわー。

苦手かもしれないと、貴文は内心で思った。女の子はすべからく苦手だが、気の強い子は特に苦手だ。

「なんでまた話してるのよ!」

本人押さえているつもりなのだろうが、いかんせん気が高ぶっているものだからその声はよく響き、貴文の耳までしっかり届いた。

なんだ?

まるで自分とリョウが話しているのが気に入らないような言い方だ。そんなこと言われるような覚えはないぞ、と思う。

大体、リョウとは会うのも話すのもまだ二度目だというのに。

えー、とかなんとかリョウが困ったように答えている。なにを言っているのかは聞こえなかった。

志鶴は難しい顔のまま、それを聞いている。

なんなんだ?

いい加減腕が疲れるので車に行かせてくれんかな、と思いかけた頃、ようやく密談を終えてリョウが戻ってきた。

「ごめんごめん。これ、どこに持ってくの?俺、手伝うよ」

貴文から取り上げたトイレットロール一袋をひょいっと持ち上げて見せて、リョウは尋ねた。

志鶴はそれを横目で見つつ、どこかへ去ってゆく。

なんなんだぁ?

気になったがリョウがなにも言わない以上、触れないほうがいいのかと黙っていた。ら。

「ごめんねぇ。あいつちょっと最近ナーバスなんだよ。すぐ怒るの。気に入らないことあるとね。……悪い奴じゃないんだけどさ」

肩をすくめてリョウが弁解した。

ふうん、と一応うなずいておく。別に関係ないことだ。

エスカレーターで地下まで降りる。とりあえず車のトランクに荷物を放りこんだらもう一度戻って可奈子を探すつもりだった。

だったのだが。

「あっしまった」

車にたどり着いてから気がついた。車のキー。可奈子から預かるのを忘れていた。なんてこったい。

「なに?あかないの、これ?」

ジーンズのポケットに手を当てたまま固まってしまった貴文に、リョウが尋ねる。

「おまえ、ここで待っててくれる?キーもらいに行ってくる」

お安いご用さー、とリョウが節をつけて言うのを聞きながら引き返した。

まったく、あの人も自分で気がついてくれたらいいのに。

心の中で可奈子に責任転嫁しつつ、エスカレーターを二段飛びでかけ上がる。

婦人服。……どこだっけ?

こんなスーパーには滅多に来ないので、どこになにがあるのやらさっぱり分からない。勢いで昇っては来たものの、3階まで来て首をかしげた。

ここに来てもしょうがないのだった。可奈子がいるのは婦人服売り場なのだ。

1階は食料品売り場だった。他にもなにか置いてたが、服類ではなかったように思う。4階はレストラン街になっていた。

2階か。

しかし、一口に2階と言っても広い。婦人服に限らず、紳士服も子供服も置いているし、しかも歩いていると女性の下着売り場なんかもあったりして、おちおち探してもいられない。

いっそ放送でもかけてもらうか。

そう思い始めたときだった。

どん、と胸のあたりに衝撃を感じた。

きょろきょろしながら歩いていたので、そこに立っている人に気づかなかったのだ。

「すいません」

慌てて謝った貴文は相手の顔を見て、げ、と思った。

鼻を押さえて彼を見返したその人は。

志鶴、と呼ばれていたリョウの連れの少女だったのだ。

「いえ……あら」

少女も貴文に気づいたようだった。しかしなにも言わない。

しばし気まずい沈黙が流れた。

このまま立ち去ってもいいものだろうか?

そうしたいのはやまやまだったが、ぶつかったのがこちらである以上、そそくさと立ち去るのも悪い気がした。

「……リョウは」

かなりの沈黙のあと、志鶴はぼそりとそう言った。

「え?」

聞き取れずに問い返すと、また少し沈黙があったあと、こう返ってきた。

「リョウはあなたになにも言いませんでしたか?」

丁寧な口調。

あれ?

嫌われているのだとばかり思っていたが、違ったのだろうか。

慇懃なわけでもない、真摯な問いかけ。

意外な思いにとらわれて、貴文は志鶴の顔をじっと見た。

整った顔。長い髪を今日はおろしている。リョウとは……似ていないな、と思った。

この二人は、いったいどういう関係なのだろうか。

すぐに思いつくのは、恋人同志、というものだけれど、それはなんだか、しっくりこない気がした。

「なにも……って、なにを?」

問われている主旨が分からず首をひねった貴文に、志鶴はそっとかぶりを振る。

「いえ、いいんです。気にしないでください。……リョウ、どこに行ったか分かります?」

そこで彼女は少し笑みを浮かべた。やわらかな表情に貴文はほっとして肩の力を抜く。

「駐車場で荷物番してもらってる。悪かったかな?」

いいえ、と志鶴は首を振った。先ほどのきつい印象がみるみる薄れていく。

「じゃあ、『プアゾン』で待ってると伝えてください。千津穂も一緒だって。そう言ってもらえれば分かりますから」

貴文は知らなかったが4階にある喫茶店の名前を告げた少女の台詞にひっかかるものを覚えた。

「千津穂?……って、里中千津穂?」

まさか、とは思ったがそう思うより早く尋ねていた。

「はい。……え?ちいちゃんを知ってるんですか?」

世の中とはなんと狭いのであろうか。

志鶴が大きな目をさらに大きく見開く。

ちいちゃん。

そう呼ぶほど仲がよいのだろうか。

「うん、まあ」

あいまいに答えを濁すと、志鶴はなんだか複雑な顔をした。複雑、というよりは厳しい顔を。

先刻見せた、あの表情。

「……里中の知り合い?」

遠慮がちに問うと、彼女ははっとしたように貴文を見、それから作ったような笑顔を浮かべた。

「ええ。こっちにいる間、泊めてもらってるの」

わざとらしくはねあげた明るさが気になったが、それ以上追求しなかった。

こっちにいる間。

ということは、地元の人間じゃないんだな。

「それじゃわたし、行きますね。伝言お願いします」

言って志鶴はくるりと背を向けた。

逃げていく……。

突然頭に浮かんだその言葉に、貴文自身が戸惑った。

逃げていく?

誰から、誰が?

もちろん答えなど出ない。ただ釈然としない思いだけが、心の隅に残った。