あの日見た夢の続きを
約束 (in 750)1
……迷ったかな?
広い廊下をきょろきょろと見まわしながら、キュアンは内心でつぶやいた。
ほんの少し席を外すつもりが、もうだいぶ経っているのではないだろうか。アイナム伯が気を悪くしていなければいいのだが……。
それにしても静かな屋敷だ。こんなに人気がないのも珍しい。
建物自体も質素だが、普通、もっと使用人がうろうろしているものだ。……と、思うのだが。
だがまあ、アイナム伯らしいといえばらしい。
彼はレンスターの大臣の一人であり、また由緒正しき名門貴族の出身でもあるが、ひどく地味な男であった。常に控えめで、他の大臣たちの影に隠れてしまっている感もある。
戦場で功を立てたわけでもなく、世襲しただけの大臣職をおとなしくこなしている。
だが、4代に渡ってこの家に継がれてきたその地位も、もうすぐ他のものの手に渡ることになろう。老年のアイナム伯が病の床についてすでに1ヶ月あまりが過ぎようとしている。
彼の跡を継ぐべき彼の息子は、半年ばかり前にその妻と共に亡くなっていた。流行り病であった。
アイナム伯が倒れたのは、その心労によるところが大きかろう。
息子の残した孫が一人いるはずだが、姿は見えなかった。
キュアンは、やつれ痩せ細った彼の姿を思い出し、大きくため息をついた。
……目立ちはしなかったが、とても穏やかで、あたたかい人なんだ……。
他の大臣たちがけむたがって相手にしなかった子供のころから、アイナム伯はキュアンの話をちゃんと聞いてくれた。細い目をさらに細めて、それは楽しそうに聞いてくれたのだ。
その人が病に倒れ先が長くないと聞いて、思わず訪ねてきたのだが────。
来ない方がよかったかもしれない。
苦い思いが、キュアンの胸中を満たしていた。
あんな姿は、見たくなかった……。
それは勝手な言いぐさだと分かっている。だが、突きつけられた現実は、ひどく重い。
そんなことをつらつら考えていたものだから、廊下の向こうから危なっかしい足取りでやってくる少年の姿に気がつかなかった。
少年は少年で、抱えている盆に乗っている物を落としては大変だ、とそればかりに気を取られているのか、ろくに前を見てもいない。
かくして────。
「うわぁっ?」
「おおっと」
突如現われた────と感じられた相手に、二人はぶつかってしまった。
がちゃんがちゃん、と派手な音がしたのは、少年が持っていた盆から転げ落ちた陶器のティーセットが無惨に砕け散ったからである。
割れたポットから飛び出した熱湯が床に溜まりを作り、なかなか悲惨な状況であった。
「あ……」
それを呆然と見下ろした少年は、しかしすぐにはっと顔を上げた。
「すみません、申し訳ありませんでしたっ。あの、お怪我はなかったでしょうか、お湯がかかったりなんかは……」
真摯な眼差しで問うてくる少年に、キュアンはいやいやと手を振る。
「私は大丈夫だ。こちらこそ驚かせてすまない。考え事をしながら歩いていて、前を見ていなかった」
そう言って安心させるように微笑みかけ、かがんで散らばった陶器のかけらを拾いはじめた。
「ああっ、いいんです僕がやりますっ。そんなっ素手で触ったら怪我を……あつっ」
かなり焦ってキュアンをとどめようとして伸ばされた少年の手が、弾けるように浮いた。
人差し指の先に赤い筋が浮く。
どうやら、破片で切ったらしい。
「……なるほど、そういうことになるわけだな」
くっくっ、とキュアンは思わず肩を揺らした。
はあ、と少年は情けない声を出す。
「舐めておけよ。雑菌が入ると、なかなか厄介なことになるぞ」
10歳くらいだろうか?
年の割りに聡明そうな瞳をした少年は、素直にうなずいて指をくわえた。
キュアンは腰のベルトに差し込んでいた革の手袋を引っ張り出し、それをはめて手際よくかけらを拾い集めてゆく。
「すみません…………」
恐縮しきった様子の少年に、キュアンは少し笑った。
「どうということはない。ぶつかったのは私にも責任があるのだから」
「でも……キュアン様にこんなことをさせるなんて……」
少年の答えに、キュアンは顔を上げた。浮かぶは軽い驚きの表情。
「……私を知っているのか?」
この訪問は非公式のものだ。キュアンは今日ここにやってくることなど前触れせず、いきなり訪ねてきたのだ。
アイナム伯ですらあれほど驚いたものを……。
いや、それよりも。
なぜこんな子供が自分のことを知っているのだろうか。
「あっ、はい、それはもちろん。……あ、名前でお呼びするのは失礼なんでしょうか。でしたら、王太子殿下と────」
おいおいおいおい。
ひたすら真面目に慌てまくる少年にキュアンは苦笑を浮かべる。
どうもこの子はテンポが違うな……。
城にも子供は大勢いる。だが、この少年のような反応をする者はいない。
それが新鮮で、キュアンは思わず饒舌になってしまったようだ。
「いや、構わない。ご大層な呼び名で呼んでもらったところで、私が立派な人間になるわけでもないしな」
冗談めかした口調の、けれどほのかに……確かに宿る苦さに、少年はどう答えてよいものか、考えあぐねているようだ。
本当に生真面目だな、とキュアンは思う。
それが悪いことではない。無論、どんな場合においても長所となるわけではないが。
「……これを割ってしまったのが知れたら、お前は叱られるのだろうな」
最後のひとかけらをつまみあげてぼそりと言うと、少年は少し目を丸くした。
「……ええ、多分。そうなると思います」
その反応はキュアンには意外だった。いや、キュアンでなくともそう感じただろう。
やはり変わっている……。
まるで怯えのない声。怯えのない瞳。
こんな子供もいるのか。
キュアンの知っている子供たちはどの子も皆、一様に同じ目をしていた。
大人を恐れる目。
保身のためにひたすら服従を誓う目だ。
この場合の子供たちとは……要するに下働き、奴隷の身分にある子供たちを指す。
彼らは時として家畜と同等、あるいはそれ以下の扱いを受けることもある。失敗などしでかした日には……その制裁のために与えられる仕打ちは手ひどいものだと聞く。
だからこんな上等な陶器の器を割ったなどといったら、普通はこんなに落ちついてはいないものなのだが。それこそ怯えまくって逃げ出す子もいるほどなのだ。
だが、この少年にはそういう子供たち特有の"怖れ"が感じられない。
どこまでもまっすぐなまなざし。
キュアンを王子と知りつつ、真っ向から見返してくる、瞳。
「大丈夫なのか?」
思わず尋ねたキュアンに、少年はわずかに首をかしげた。
何を聞かれているのかわからない……そんな表情を浮かべつつ、はい、と答える。
「ならば、いいが……」
「本当に申し訳ありません。今すぐ入れ直して持ってまいりますから」
少年の言葉に、キュアンはダメになったお茶が自分のために運ばれてきたものだと知る。
「その必要はない。もうそろそろ帰るから。……お前の上の者に、一言言ってやらなくて本当に平気か?」
どうも気になってしつこく聞くと、少年はますます困惑したような顔をした。
「いえ。大丈夫です……が?」
なんとなく納得がいかなかったが、その言葉を信じることにした。
なんといってもアイナム伯の屋敷である。奴隷の子供にも優しいのかもしれない。
……そんなことはほとんど無きに等しいと……そういう階級のものがいるからこそ成り立っている国の豊かさを重々承知の上で、あえてそうした。
余りに澄んだ少年の瞳が、そうさせたのであった。