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雨恋

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「あれ、なんか疲れてる?」

あの雨の日に話しかけたことがきっかけで、あたしと彼はバスで会ったら話をするようになっていた。

今日はなんだか目が赤かったからちょっと気になったんだ。

また、絵を描いてたのかな。無理してるんじゃないのかな。

ちょっとそれが心配だったから。

「あ……ちょっと寝不足。夢中になって描いてたら、朝になってて」

苦笑いっていうか、照れ笑いっていうか、そんな笑顔で彼は答える。

「絵画展が近くて」

付け加えられた言葉にあたしは軽く首をかしげる。

「なに、それ?コンクールみたいなもの?」

自慢じゃないけどあたしは美術関係のことなんて素人だから、教えてもらわなくちゃ分からない。でも、徹夜までしてがんばるくらいなんだから、けっこうすごいものなんだろうなって、それくらいなら分かる。

「まぁ、一応。美大の推薦の基準に入るっていうから、がんばっておかないと」

……ああ、そうか。彼はもう二年なんだ。進路とか、考えなくちゃいけないのか。

「美大行くの?」

あたしは全然将来のこととか実感ないけど、まだ。

ただ、あたしは……。

「ああ。まだやめたくないからな、これ」

言って彼は左手をちょっと持ち上げて見せた。

あ。スケッチブック。

ほんとに絵描くの、好きなんだなぁ。

「なに描いてるの?」

「え?」

「絵画展。なに描くの?」

あたしは軽い好奇心で聞いただけだったんだけど。……というか、完成したら見たいなぁって思ったからなんだけど。

でもなんか黙り込まれちゃって、ちょっと困惑してしまった。

悪いこと、聞いたのかなぁ?

「……あのぉ、言いたくなかったら、別にいいですよ?」

うつむいてしまった彼の顔をのぞきこむようにして言ったら、彼ははっとしたように顔を上げて焦った声で否定した。

「いや、言いたくないわけじゃなくて、ただ……」

ただ?

その先を待って首をかしげた、その時だった。

何か言おうとした彼の言葉を待たずに、バスが急停車した。急停車……ううん、そんなもんじゃない。なんだか、横滑りでも起こしそうな激しい止まり方だった。

バスは相変わらず満員で、当然乗客はすごく被害を被った。あたしはもろに彼にぶつかって、おかげで全然平気だったけど、ぶつかられた方はそうはいかない。

「でっ……」

ぶつかった拍子にもれたそんな声にそっちを見ると、彼は真っ青な顔をしていた。

(なに……)

額に脂汗が浮いてる。痛そうに、すごく痛そうに顔をしかめてる。

右手押さえて。

(右手っ……)

「大丈夫っ?」

大丈夫なわけなかった。だけどあたしはばかだからそんなことしか言えなくて。

「……平、気」

頬をひきつらせるようにして彼は笑ってくれたけど、平気なんて嘘だった。

どうしよう。

どうしよう、あたしのせいだ。あたしがぶつかったから………!

「大丈夫だから。気にしなくていいから。羽澄のせいじゃないから」

でも。

でも、だけど。

(────絵が)

絵画展が近いって言ってた。美大の推薦かかってるって。

絵描くの好きで、やめられないって……。

「羽澄」

あたしは泣き出していた。あたしなんて泣く資格もないのに、涙がぼろぼろ出てきて止まらなかった。

違うじゃない。泣いてる場合なんかじゃないじゃない。そんなことは、わかってるのに。

駄目だ。あたし、彼を困らせてばっかりだ。

「あたし…………あたしっ」

なんて言ったらいいのか分からなかった。

「────武海?」

あたしの泣き声に重なるように声がかかったのはその時のこと。

きれいな女の人がびっくりしたようにこっちを見てた。

(誰……?)

彼と同じ制服着てた。ショートカットが似合ってる、綺麗な人。

なんだか胸のあたりがざわざわした。

「なに、右手、どうしたの?」

押さえた腕を目ざとく見つけて彼女は近づいて来て、あたしの肩を突き飛ばすようにして彼の顔をのぞきこんだ。

「……折れてんじゃないか、これ?」

制服の右手に触れながらそう言う。

(折れてる……?)

あたしは一歩身を引いた。人を押しのけるようにして。

(あたしのせい)

ふっと彼と目が合った。

責めてなんか、全然なかったけど、あたしはそれが苦しくて。

いたたまれなくて、あたしは逃げるようにしてバスを降りた。

「───羽澄っ」

追いかけてきた彼の声を振りきった。

(あたしのばか)

あたしのばか、あたしのばか、あたしのばか。

雨のしずくがあたしの肩をぬらす。あたしの髪をぬらす。

あたしと一緒に空が泣いていた。

(だから、雨なんて)

すごく惨めな気分であたしは天気をうらんだ。

雨なんか嫌い。雨の朝なんて大嫌い。

べたべたしてる、あのひとも嫌い。

……こんなに惨めな、あたしはもっと嫌い。


次の日も、また雨が降っていた。今が梅雨じゃなければよかったのに。

あたしはバス停で七時五十七分に来たバスを見送った。

乗車口から三つ目の窓に彼が見えて、だけどあたしは乗らなかった。

乗車口から三つ目の窓に彼が見えて、だからあたしは乗れなかった。

発車寸前、彼と目が合った気がしたけど。

(ごめんなさい)

あたしはそう言う勇気もなくて。

(────雨なんか)

雨なんか降らなければいいのに。

そうしたらあたしは、ずっとふわふわした気持ちでいられたのに。

だから。

────雨なんか、ずっと降らなければいいのに。

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