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籠の中の楽園

第一章

あれは、何。

重い気持ちで、イルカは頭上を振り仰いだ。

白い花をつけた大きな木は、イルカの部屋のある二階よりもはるか高く、五階建ての建物と肩を並べるほどに伸びている。秋が来るごとに小ぶりだが甘くて美味しい実をたわわに成らせ、イルカを喜ばせてくれるこの木を、けれど今は好ましい気持ちでは見られずに、溜息をついた。

ハノイは、何も感じなかった。

ただ、イルカと " りごう " がただならぬ様子だったから、何か緊張したのだと……彼は、そう言っていた。誰かが見ていたことになど、まるで気づかなかった、と。

あれほどに強烈な視線を、イルカは向けられたことがない。

怖かった。

あれは、何だろう。

何か特別な感情を向けられた、というのならまだ分かる。憎しみや恨みや、あるいはもっと別のもの。けれど、あれはそういったものではなかった。そこに感情はなかった。ように、思えた。それでも、強くて。鮮烈で。

だから、怖い。

あの視線を──あの目を思い出すと、今でも震えが来る。寒くもないのに肌が粟立つ。何が、怖い。それも、わからないのに。

きゅ、と口元を引き締め、イルカは自身を抱きしめた。木漏れ陽が暖かい。それなのに寒かった。どうしようもなく、怖かった。足元からじわじわと、何かに飲み込まれてゆくようで。得体が知れないだけに、それはイルカに恐怖をもたらす。

「 " りごう " 」

今は姿を消している霊獣の名をそっと呼ぶと、かすかな気配がしてイルカに寄り添った。そのことに安堵の息をもらす。

霊獣。

それは別の世界に生きる生き物だと、いつだったかオルノアは言っていた。にもかかわらず " りごう " はイルカが物心ついたときにはすでにそばにいた。

「どうして?」

尋ねたイルカにオルノアは答えた。

「それは、お前が " 選ばれた " ものだからだよ」

オルノアの言葉は時を経ても褪せずに、イルカの中に降り積もる。イルカの抱く幾つもの問いと、それに対する彼の答え。その全てが必ずしもはっきりとした答えになっていないということに気づいたのはいくつの時だったか。それでも、イルカにとってオルノアは絶対だった。だから、彼の言葉をそのままに信じる。受け入れる。

そこに疑問を抱かない自分に、けれど何の不思議もない。たとえ、疑問が解けなかったとしても、そこに彼の与えた答えがあるならば、それはそうとしてとらえておけばよいのだ。否、そうとらえなければならないのだ。

自分の抱える矛盾と抱くべき疑問から目を背け、イルカは青々とした果樹を見上げた。

" りごう " がそばにいる。だから恐れることはない。そう、何も。

「外」の人間は霊獣を持たない。ワーラカの中でさえ、その数は希少だ。ハノイにも、ルーチアにも霊獣はいない。イルカは特別だった。それが何ゆえなのか、イルカは知らない。知らないままでいいと……今はまだそれでいいと、オルノアが言ったから。

霊獣がなにものなのか、自分はなぜ特別なのか──得られない答えを追うことはない。霊獣が主人を守ってくれる現実があれば十分だった。現に今も、 " りごう " がそばにいるだけでこんなに安心するのだから。

「なんか変だよ、ね」

呟きを落とし、イルカは自問した。いったい何が起こっているというのだろう。そもそも、「何か」は本当に起こっているのだろうか。

「ほんとはわたしがおかしくなっちゃってるだけ、だったりして」

苦笑する。そうだったらいいのに。この恐怖も不安も何もかも、自分が感じたと思うだけで、本当はすべて幻ならばどんなにいいか。

口にすれば本当になる気がして淡い希望を口に乗せた。けれど。

「それは俺がとっても困るな」

降ってきた声にイルカはその望みが砕かれたことを知る。

「最悪」

そんな余裕すら含んだ言葉を紡げたのは、どこかこんな展開を予想していたからかもしれない。あるいは、あまりのことにびっくりしすぎたせいなのかも。どちらが正しいのかは、イルカ自身、分からない。

" りごう " の周りの空気がにわかに殺気だって、実体を伴った。その背に手を置きながら、イルカは周囲を見回す。

「誰?」

問いかけに応じるように、風が揺れた。ぐるる、と唸り声を発する " りごう " を片手で制し、その場所を凝視するイルカの前に、彼はするりと滑るように降り立つ。樹の上から。

そうして。

「こんにちは、イルカ」

どこか冗談めかしたような口調で、彼は言ったのだった。


夜の闇みたいだ、とイルカは思った。彼の髪も瞳も、濡れたようにしっとりと、黒い。漆黒ってこんな色をいうのだっけ?そんな他愛のない疑問が脳裏をかすめる。

肌の色までも、彼は浅黒かった。年のころは二十五か六か……自分より十は上だろう、とイルカは見当をつける。背は高く、浅黒い肉体はしっかりと引き締まっていた。どこか野性的な印象を受けるのは、だから、なのだろうか?それとも……。

「どうした?びっくりしすぎて声も出ないか?」

からかうような、笑いを含んだ声で問われ、はっとする。そうだ、こんな場合じゃない。ぼんやりしている場合では。

なのに頭の芯がなにかぼうっとしていて、きちんと回転してくれない。主人の動揺が伝染したのか、 " りごう " までもがおとなしくなっていた。唸り声はおろか、警戒の様子すら見せない。

これは、どういうこと?

予測していなかった事態に、イルカは困惑する。

予測できなかったのは、彼が現われることではない。彼が現われた時の、自分の、そして " りごう " の反応だ。できなかったわけではない、したにしはしたのだが……まるきり、違う。違うといえば、彼の様子も、思ったものとは全然違っていた。

もっとピリピリしていると思った。そう……もっと、なにか、襲撃者らしく。

そんなことをぼんやり思う。思いながら彼を見つめていた。あまりに鈍いイルカの反応に、彼は苦笑する。

「どうにもやりにくいな……もっとこう、なにか反応があると思っていたんだが」

頭に手を当て、困ったように笑っている彼の様子はどう見ても悪人には見えない。怖い人には、見えない。それでも視線を感じたときに覚えた恐怖はいまだに拭われぬまま、イルカの根底に残っていた。

それは彼の黒い瞳にとらわれた瞬間にくっきりとよみがえり、イルカは知らずじり、と後ずさった。

「アナタハダレ」

声が震えないように喉と腹におもいきり力を入れたものだから、変に平坦な問いかけになった。目の前の青年がわずかに目を見開く。

「俺はガーレイ。警戒しなくたって、危害を加えるつもりは毛頭ない」

だから安心しろ、というように彼は口元に笑みを刻む。漆黒の瞳に浮かぶ光も優しい。けれど。

はいそうですかと気を抜くほど、お人よしじゃないわ。

また一歩、後ろに下がりながらイルカは思った。わざわざそんなふうに言うこと自体が、そもそも怪しい。そんな懸念が不要だというのなら、別に触れなければいいものを。

「ワーラカの人じゃないわよね」

それは、問いではなく確認だった。彼になぜ恐怖を感じるのか、その理由を今になっておぼろげながらわかったような気がしている。拾った指輪と自分の中に潜む何か、そして目の前の彼。共通事項は……違和感。ざわざわとざわめくそれを言葉に当てはめるなら、そう。

" 異質 " 。

いまさらわかったところで全然嬉しくないわ、とイルカは内心で溜息をついた。何の解決にもならない。正体を突き止めたところでそれが謎なことに変わりはないし、自分の中の不安と恐怖が取り除かれるわけでもないのだから。

ただ、異質であるということ、それすなわちワーラカに属さないということ、という図式が成り立つことだけはわかった。理屈でなく、本能で理解した。オルノアの言葉が全て正しいと思う心と同じ心で、そう納得したのだった。

「そう、違うな」

ガーレイと名乗った青年はあっさりと頷き、距離を取ったイルカとの間を詰める。一歩。もう一歩。

「逃げるな」

反射的に踵を返そうとしたイルカの腕を掴み、彼はささやきのように告げる。強い声、強い意志。

「放して!!」

掴まれた腕が痛かった。それよりも、彼が怖かった。足元から闇にからめとられるような錯覚が押し寄せてくる。眩暈がしそうなその恐怖に、イルカは叫ぶことで対抗しようとして失敗する。

逞しい腕にさらわれ、大きな手で口を塞がれた。 " りごう " 、と言葉にならない声で呼んだが、主人の危機を救うはずの霊獣は困惑したようにガーレイの動きを見守るのみだ。

どうしたの、 " りごう " !!助けてよ!!

心で叫びながら、イルカは全身で暴れる。けれども青年の縛めは解けることなく彼女をその腕の中に縫いとめていた。

「乱暴なことをしたくはないんだ。頼むからおとなしくしてくれ」

穏やかにそう言われても、この状況で信じられるわけがない。イルカは青年の手に噛みつこうと懸命に口を開けた。その、瞬間だった。信じられない言葉を聞いたのは。

「俺はあんたを迎えに来たんだ、イルカ。一緒に行こう」

その言葉は、まるでなにかの呪縛のように、今度はイルカの心をからめとった。

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