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籠の中の楽園

第二章

ぱんっ!!

乾いた音に、イルカは目をぱちくりとさせた。なにが起こったのかわからぬままたっぷり三呼吸分は沈黙した後、じんわりと熱い左頬に、ああそうか、と納得する。

ルーチアに、ぶたれたのだ。

「なに、するのよ」

恨めしげに尋ねた途端、ルーチアの黒髪がうねった。うねうね、うねうねと……それはさながら蛇の如く。音なき声で威嚇でもされたかのように、イルカはびくりと肩を震わせた。

「なに、ですって……?」

ひくひくとこめかみをひきつらせ、黒髪の少女は眦を吊り上げる。ぐっ、と握られた拳に、イルカは腰掛けていた椅子ごとずりずりと後退した。先ほどは平手だったが、次は " ぐー " で殴られるかもしれない。……いや、そうなる気がする。

椅子に座ったまま器用に壁際まで後退した相棒を仁王立ちで見下ろしながら、ルーチアは拳を握ったとは反対の手で、びしっとイルカを指差した。

「そういう台詞は、平手を食らういわれなどないと堂々と胸を張れる人が言えるのではなくって?自分の仕事もそっちのけ、人の言葉もろくに頭に入れずに生返事だけ、朝からすることと言えば窓の外をぼーーーーっと眺めてるだけのあなたに言われるのでは、わたしの立つ瀬がなくってよ」

「そんなこと……」

「ない、と言うの?ならばわたしがさっき何を言ったか、そうしてあなたが何と答えたか、それももちろん覚えているのでしょうね?」

反論する間もなく切り返されて、イルカは黙り込む……いや、必死に思い返そうと記憶を探る。

ええと……確か、ルーチアが話していたのは……。

振り返る。が、確かに聞いていたはずのルーチアの言葉は、何一つとして記憶に留まってはいなかった。断片すらも。

そんなばかな、とかぶりを振った。だって、自分は聞いていたのだ。いつものようにルーチアがやってきて、いつものとおりの癇に障る態度で話すことをおとなしく。

おとなしく?

それは変だ、と思った。ルーチアとの会話が平穏に進行したことなど今までにない。自分がおとなしく聞いていられるような進め方など、彼女はしてくれない。途中で口を挟まずにはいられずに、そうして結局言い合いに発展していく、そんな不毛なやりとりをずっと続けてきたのだ。けれど今日のそれは、記憶にない。

そもそも、ルーチアはいつ来たのだっけ……?

そんなところから、すっぽりと記憶が抜け落ちている事実に、イルカは愕然とした。まさか、そんな。

窓の外の陽は高い。正午を過ぎているのは確かなことだった。では、午前の間は何をしていた?今日の昼食は?ルーチアが来たのは、いつ……?

……昨日の夜は、あまり眠れなかった、と思い出す。そう、だってあんなことがあった。あの人に、会った。……あの人が、あんなことを、言うから。

だから、眠れなくて。

記憶の隅に、夜明けの景色があるから、多分朝方まで眠れずにいたのだと思う。それでもちゃんといつもどおりに起きて……支度をして……。

して、それから……?

「ルーチア、わたし……今朝の朝礼に、いた?」

尋ねる声がひどく弱々しいのが自分でも分かる。腹立たしいほどに情けない思いで、イルカは聞いた。それを受けてルーチアがわずかに眉をひそめる。

「イルカ、あなた……それすらも覚えてないなんて……」

「いたの?いなかったの?」

咎める言葉を聞きたいのではなかった。ただ、事実が知りたい。

切羽詰まった響きすら宿すイルカの問いに、困惑混じりの答えが返る。

「いたわよ。ずいぶんとぼうっとしている様子ではあったけれど……体調でも悪いの?」

ゆるゆるとかぶりを振って、ルーチアの問いを否定しながら、小さな安堵の息をつく。朝礼には、出ていた……。

よかった、と思う。ワーラカの民は、毎朝行われる朝礼への出席を義務付けられている。職務と重なる場合、体調がすぐれぬ場合、その他何らかの事情でやむを得ぬ場合を除き、それは絶対の勤めだった。民の様子を直に見、把握したいと願うオルノアの養い子である自分が、それをすっぽかすだなんてことがあってはならない。たとえそれが、不慮の事故であっても、だ。

「お話にならないわね」

とん、と手にした資料を机で整え、ルーチアは踵を返した。すたすたと扉へ向かう彼女の背中を、イルカはきょとんと見送る。その視線に振り返った彼女は、どこか居心地の悪そうな表情で言ったのだった。

「悩み事だか体調が悪いんだか知らないけれど、今のあなたに何を言っても無駄だということがはっきりしている以上、わたしがここにいる理由はないでしょう?それほど急ぐ仕事でもないし、明日また出直すことにするわ」

仕事……。

その単語をぼんやりと口の中で繰り返し、イルカははっとした。そうだ、仕事。仕事の話をしていたのだった。……というよりも、それ以外、ルーチアと話すことなんて、ないはずではないか。どうしてそんなこともわからなかったんだろう。ぼけているというには、少し度が過ぎていないか。

「ごめん……」

思わずこぼれた言葉に、ルーチアはますます苦い顔をする。

「謝るくらいなら最初からしゃきっとしてほしいもんだわね。わたしはあなたに謝罪の言葉を求めているわけではなくってよ。調子が狂うからやめてちょうだい」

うん、とうなずいたイルカにルーチアはまったく、とため息混じりに告げる。

「悪いと思うなら、明日はそんなことのないようにしてほしいものだわ。外にでも行って息抜きをするなり、たっぷり睡眠を取るなり、適当に……」

まくし立てていたルーチアの言葉がぷっつりと切れ、紫水晶の瞳が探るようにイルカを凝視した。

「……外?」

ほぼ無意識にそうつぶやいたイルカは、いつの間にか自分が窓の外をぼんやりと眺めていることに気づく。

「イルカ?」

呼ぶ声に、引き戻される。さながら、夢からさめるような感覚。

慌てて相棒を見ると、黒髪の少女は何か言いたげに、問いたげに……けれど何も言わずに、踵を返した。


閉じた扉を振り返り、ルーチアは形の良い指を顎に当てた。扉に妨げられて見えはしないものの、その向こうにいる少女が再び窓の外に思いを馳せているだろうことは、想像に難くない。昼過ぎに訪れた時から今まで、約一刻半にわたって彼女はあの調子だった。求めもしない生返事を時折返しつつ、ぼうっとした目で窓の外を眺めているのだ。

「 " 外 " ……?」

部屋を出る間際、イルカがつぶやいた言葉。「外にでも行って息抜きでもすればいい」と言ったことに対する反応にしては、なにか、変だ。

かすかに眉根を寄せたルーチアの黒髪が静かにさわさわとうごめく。人の心にさとい彼女の " 能力"を抑制するための髪留めが起こす現象だ。黒真珠のあしらわれたその髪留めは、本来なら通常よりもはるかに激しい彼女の感情の起伏を制御し、余剰分を別のエネルギーとして放出することで精神のバランスを保つのである。バランスをとっているにしては"やや鉄面皮気味 " であるのは、抑制効果が高すぎるのか生来の彼女の性格か……定かではないのだが。どちらにせよ彼女の長い黒髪は、その表情以上に彼女の感情をよく表わす。恐らくは本人が望む以上に。あるいはそのせいで鉄面皮がますます板につくのかもしれなかったが、それはさておき。

さわさわと動く髪はそのままに、ルーチアは目を細め、廊下の窓の向こうを見やった。

懐かしむように、憧れるように、けれど怖がるように恐る恐る向こうを見ていた、イルカ。

「まさか、ね……」

そんなわけはない、と苦笑してかぶりをふり、ルーチアは心の端に浮かんだ馬鹿げた考えを追い出した。

そんなわけはない。ここはワーラカ。わたしたちはワーラカの民。こんな考えを抱くのは……。

「きっと、わたしくらいのものだわね」

苦笑と共に歩みだす。わずかに心の底を刺した不安は、とりあえず無視をすることにした。