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籠の中の楽園

第二章

ふか、と。やわらかな感触が髪に触れて、イルカは後ろを振り返った。部屋に明かりはなかったが、まだ低い陽の光が窓から差し込み、足元からおとなしく主人を見上げる " りごう " の毛並みをつやつやと照らしていた。

「おかえり、 " りごう " 。……うまく、やれた?」

ささやきは、嘆願にも似て。

すでに放たれた言葉だから、いまさら願っても結果は変わらないとわかっているのだけれど、そうせずにはいられなくて。

" りごう " が、先ほどイルカの髪に触れて「ただいま」の挨拶代わりにした右脚を差し出した時には、思わずごくりと息を飲んでしまったほどで。

悩んで悩んで、それでもどうしても捨てきれない感情があると悟った。それがどれほど危険なことか、どれほど……自分が裏切りに近い場所にいるか、わかっていながら。望んだ。

もう一度、彼に会いたい。

彼……ガーレイと名乗った、あの青年に。

一緒に「外」に行こうなんて、そんな途方もない話を持ってきた、彼に。

できるわけがないのに、理解不能な自信満々の口調で強引に誘って、そうして、唐突に消えて。あんな短い出会いの、不躾な言葉の、どこに……そう、あれのどこに、信じるに値する要素があるというのか。どうしてこんなに自分の心が乱されなければならないのか。どう考えても理不尽だし、卑怯だ……と、イルカは思う。思うが、しかし。

姉、さん。

その言葉が。どうしようもないほどに自分を絡め取っているのがわかるから。

「あの人は、忘れてくれたの……?」

自分の決心がついたら、迎えにくるとガーレイは言った。それがいつだか知らない。彼がいつを指してそう言ったのかなんて知らない。けれど、自分から望んで会うのが不可能な現状で、もう一度会いたいという願いを達成するには、その言葉を信じるしかないのだ。……そうして。

確実にするためには、妨げとなる因子は摘んでおかねばならない。

あの人がもしも、報告をしたら……?

そのことに思い至ったとき、イルカは体が冷える思いがした。そうして自分がそこまでショックを受けた事実に、腹を括ったのだ。

「外」のものはワーラカの秩序を乱す。そうして、守らなければならないものが、いつのまにか壊れていくのだ、とオルノアは以前言っていた。そうならないために、キートという組織があるのだと。確かその説明を受けたとき、ハノイも一緒にいて、彼はそれに感銘してキートに入隊したのだ。

その、キートの隊長が、侵入者に気づいていた。あの時点ではまだ、侵入者の駆逐はなされていなかったが、それがいつまでも続くとは限らない。彼の号令一つでキートは動く。そうして……そうなれば、彼は、ガーレイは狩られる。

そうさせないために、イルカができることは。まさか見逃してくれと頼み込むわけにもいかない。そんなことをすれば、自分まで狩られるのがおちだ。そうではなくて、できること。

確かに、あった。それを、イルカは持っていた。ガーレイを助ける方法。もう一度彼に会うことが出来る術を。けれどそれは同時に、父とも仰ぐオルノアを、ひいては故郷と定めたワーラカを裏切るにも等しい行為。

夜通し悩んで……それでも、どうしても会いたいと、会わなければならないと決めたから。

" りごう " を走らせた。キートの隊長、ランシルの元へ。

彼の記憶から、ガーレイのことを消し去るために。

差し出された右脚をかすかに震える手で握り、イルカは目を閉じる。覚悟は決めたというのに、どうしてこうも後ろめたさが残るのだろう。いますぐどこか遠くへ逃げてしまいたい気持ちに追い立てられるのだろう。

考えるまでもなく、罪悪感、という言葉が脳裏に浮かんで消えた。……そんなものは、知らない。もう、決めたのだから。

きゅ、と唇と噛み締め、意識を集中する。頭の芯をぼうっとした感覚が覆い、それを中心に映像が展開されはじめた。 " りごう " がその目で見てきたこと、聞いてきたことをそのまま転送しているのだ。

映像はランシルを捉える。彼はわずかに驚いた顔でベッドから身を起こし、こちらを凝視していた。

『あの少女の霊獣か?』

尋ねる声に答えるように、イルカは……いや、 " りごう " は、彼に近づいた。最初に見せた驚愕を瞬く間に去らせたランシルは、こちらをじっと見たまま、視線をそらすこともなく霊獣が近づくのを待っている。

『わたしの記憶を消しに来たのだな』

彼の口からこぼれた言葉に、イルカはびくりと体を硬くした。知っている。彼は、知っている……なのになぜ、目をそらさないっ?

ぐん、と映像が加速した……いや、そう感じられるだけだ。 " りごう " が力を使い始めた証。ぎゅっと焦点が絞られていく感覚と、ひたすらにランシルの存在が近くなってくる感覚が入り混ざる。見えている映像は変わらなくても力の行使は確かなもので、ただ記憶を受け取っているだけのイルカですら、動悸が激しくなる。

そうしてしばらくの時間が経ったのち、ふ、とランシルの体が傾いだ。ぱたり、ベッドに倒れこむ様子はさながら糸の切れた操り人形の如く。

ほぼ同時に " りごう " から放出される力の流れも止まり、あとはただ、静寂のみ。

霊獣の脚を放して、イルカは大きく息を吐いた。……成功した。して、しまった。ランシルはこの一週間ほどの記憶を、失ってしまったはずだ。それが、霊獣である " りごう " の力。イルカが命じて発現させた、力だ。

霊獣の存在は、世界において稀少である。それは「外」の世界においては存在せず、ワーラカにおいてのみ生息が確認されるという。現在確認されている霊獣は全部で五頭。いずれも他と姿を違える、一種独特の雰囲気を纏う獣たちだ。あるものは角と翼を持つ馬の姿を、あるものは尾の分かれた虎の姿を、あるものは二つ頭の蛇の姿を、そしてあるものは極彩色の羽に包まれた鳥の姿を。

" りごう " も犬に似てはいるが、毛足は長く、すらりとした肢体を持ち、額に小さな突起のような角がある。

そのように外見はさまざまな霊獣だが、共通事項もある。それは、霊獣には、決まって何か不思議な力がある、……というものだ。その力の存在は長く人に知られていなかったというが、イルカが物心ついたときにはすでに周囲の常識となっていた。

自然現象を操ることや、人の心や記憶を探ること、未来の予測……そういった力を霊獣たちは持っている。ただし、その力を引き出して用いることができるのは、主人である人間だけだ。ゆえに、 " りごう " が人の記憶に関与する力を持つことが明らかになったとき、イルカはそれを用いる仕事を与えられた。大抵は失せもの探しや、人探しであったりしたが、わずかに触れるだけでこなせる仕事であっても、イルカは時折怖くなったものだ。自分のものではない記憶、それを自分がいいように扱っている、その現実に。

そうして。今夜、イルカは " りごう " に命じた。ランシルのもとへ行き、その記憶を消してくるようにと。人の記憶をのぞくだけの仕事とは違い、こんな命令を下したのは初めてのこと。けれども他に方法がなかったから……そう、考えて、イルカはふふ、と笑った。笑って、泣いた。いや、違う。あるいは、失敗したならそれはそれとしてあきらめもつくかと思えたから。……そんな卑怯な期待をしていたから、報いを受けたのかもしれない。

ランシルは逃げなかった。 " りごう " が記憶に関与する力の持ち主だということは知っていたのに。自分の記憶が消されることも、わかっていたくせに。それでも、逃げなかった。なぜ、と思う。どうしてあんなに穏やかな顔で、 " りごう " の力を受け入れた……!

彼が抗っていたなら、もしかしたら、失敗に終わっていたかもしれない。けれど、彼はそうしなかった。まるでそうすることが当然といったように、こちらを見ていた。

そうして。自分が霊獣に与えた命令は、忠実に果たされた。引き返せない一歩を、自分は確実に踏み出したのだ。他の誰が知らなくても、自分自身が知っている。

「霊獣の力は、決して己のために使ってはいけない」。耳にタコができるほどさんざん聞かされた言葉に、彼女が今日、そむいたことを。