1. Home0
  2. Novel1
  3. 籠の中の楽園

籠の中の楽園

第二章

ことり、小さな音を立てて置かれた湯気の立つカップに、ランシルは顔を上げた。小さなそばかすが幾分か目立つ赤毛の若者が、困ったような顔をしてこちらを見ていた。

「隊長、ここのところずっとそんな顔ばかり……難しい顔ばかりなさっているから……。俺はまだ見習いだから、お茶汲みくらいしかできることも思いつかないですけど」

気休めにでもなればと思ったんです、と最後はもごもごと口の中に言葉を飲み込むように彼は言った。まだ若い。確か十七だと言っていたな、と思い出す。まだキートに入隊して間もない若者だ。名前を確か……。

「ハノイ、といったか」

「はいっ!!」

確認のため呼んだだけだったのだが、やけに張り切った返事が返ってきて、ランシルは少々戸惑う。お世辞にも愛想がいいとは言えないランシルは、自分で愛想を振り撒くのも苦手なら、愛想を振り撒く人間も苦手だった。

「…………………。珍しい香りの茶だな」

名前を呼ばれ次の言葉を待って期待に目を輝かせる相手に、ようやくのことでそう続けるまでに要した時間、約数十秒。必死で考えた挙句の苦し紛れは、どうやら成功したようだ。ハノイは嬉しそうに頷いてどうぞと勧めてくる。

「この間の " 市 " で仕入れた品なんですが、とても珍しい香りで、不思議と気分が落ち着く感じがするんです」

勧められるままに一口。苦い中に甘さを含んだその味は、ついぞ今までお目にかかったことのないもので、ランシルは眉根を寄せた。まずくは、ない。ないが、しかし……不思議な、味だ。

「あの……お口に合いませんでしたか?」

心配げに尋ねる青年──と言うにはまだあどけなさを残しすぎる少年に、いや、とかぶりを振り、再びカップを口元に運んだランシルは、けれど二口目を流し込む寸前で、ふと手を止めた。

「 " 市 " ……」

つぶやき、そのまま黙り込む。口をつけずに戻されたカップに、ハノイはしょんぼりと肩を落とした。

「やっぱりお気に召さなかったんですね……」

普通のお茶を入れなおしてきます、と下げようとするのを慌てて制し、引き止める。

「いや、そういうわけじゃない。そのままでいい。……ありがとう、ハノイ」

カップを置いた理由はそうではない。美味いとは思わないが、まずいと思ったわけではなくて、いや違う、そういう問題ではなく……。

どう説明すればよいものか、と難しい顔で考えを巡らすランシルに、少年は困ったような申し訳なさげな顔を向け続ける。それが故に居心地が悪くて、咄嗟に彼は問いを口にした。

「そういえば君は、イルカと仲がいいと聞いたが」

突然振られた話題に目を丸くしながらも赤毛の少年は、はい、とうなずく。

「幼なじみです。隊長が彼女をご存知とは知りませんでした。イルカがなにか?」

「いや……」

自分でもなぜそんな問いかけをしたのか分からず、ランシルは返答に困った。なぜいきなり彼女のことを思い出したりしたのだろう。そう考えて、答えは実に単純だと気づく。

「昼間、彼女と偶然会って……そう、眩暈がしたとか、言っていたな」

遠目にも分かるほど、血の気の失せた顔をしていた、少女。場所が場所であっただけに影響を受けたのかと心配してみれば、単なる眩暈だという。拍子抜けもいいところだ。もっとも、こちらが勝手に危惧しただけで、彼女に罪はないのだが。

「眩暈?元気がとりえなのに珍しいな……。そういえば最近様子が変だってルーチアが言ってたけど……」

首をひねりながらつぶやいたハノイの言葉を、今度はランシルがいぶかしんだ。

「変?」

「なにかすごくぼうっとしてるんだって、ルーチアが言ってたんです。あ、ルーチアっていうのは、イルカのパートナーで……彼女が言うには、 " 起きているのにまるで夢を見ているみたい " な感じらしくて……実際会って確かめてないので、詳しくはわからないんですが」

昼間会った時は、気はしっかりしているように見えたが……。……いや、指摘さえすれば " 視えた " らしい結界の綻びに気づかなかったということは、やはり呆けていたのだろうか。普段の彼女というものを知らないからなんとも言えないのだが。

考えたいことがあるから、とハノイを下がらせ、ランシルはため息をついた。別にイルカは関係ない。気にすることは他にいくらでもある。そう、たとえばあの結界の綻び。

そうだ、 " 市 " だ。なぜ、いままで気づかなかったのだろう。

" 市 " が立つ日は気が乱れる。"外 " との境界が一時的また局地的にであれなくなることは、他の場所にも多少なりと影響を及ぼす。そう、その方法を知り術を持つものがいるならば、気づかれず侵入することが可能な程度には。

" 市 " が立つ日時は確実にキートに知らされているはずなのに、どうしてこの可能性に今まで気づかなかったのか、とランシルは己の頑固さにため息を落とさずにいられない。物事を一つの方向でしか捕らえられないというのは、かなり困ったものだ。よくこれでキートの隊長が務まっているな、と時々思う。

この一週間ずっと気になっていた綻びはその時に出来たものか、とようやく合点がいった。自分の目を盗んで忍び込んだ者がいたという事実にどうにも釈然としない思いが消えなかったのだが。だからこそ……誰にも言わず、秘密裏に自ら調査に乗り出していたのだが。

それが故に、イルカがあの場所にいるのを目にした時は驚いた。一体誰がオルノアに報告したのか。真っ先に浮かんだのはその思い。

ワーラカの長オルノアが一番目をかけているのがイルカという少女であることは、結構有名な事実だ。ワーラカの治安のため、日夜情報収集に励むキートに属する者ならばなおのこと。ランシルももちろん、知っていた。個人的に接する機会があろうとは思わなかったが。

他の誰も気づいていないと思っていた綻びに、けれど実は気づいた者がいてオルノアに報告し、それを彼がイルカに調査させたのか……そう、思った。最初は。彼女が綻びの存在に気づいてすらいなかったことで、その考えは払拭されたけれど。

とはいえ、自分が指摘したことで彼女は気づいた。すでにオルノアに報告しているかもしれない。明日になれば、長のもとから指令が届くかもしれない。……狩りをはじめろ、と。

自ら掘った墓穴だ。自分が彼女に気づかせた。……けれど。

仕方がないとそう言い聞かせても、気分が沈むのは止められなかった。


翌朝、ランシルは思いがけない来訪者に起こされた。夜もまだ明けきらないうちにキートの隊長の部屋を訪れたのは。

蒼白き毛並みを朝陽にきらめかせた霊獣、 " りごう " だった。