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セカンド・ヴァレンタイン

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「あ」

駅を出たところで気がついて、思わず立ち止まって声を上げた。何? と首を傾げる庵野(あんの)を見上げて、わたしはしばし沈黙する。

……今年は何も、言わないね?

じ、と見つめるわたしの視線にたじろいだように目を丸くし、それからちょっと考え込む仕草をして、やっぱり降参だと困ったように笑う庵野。

「どした? 何か忘れ物でもした?」

ううん、とかぶりを振ってわたしは歩き出した。さくさく、と足元で音がする。首都圏ではここ最近、年に一度くらいの割合でドカ雪にお目にかかるけれど、今日がちょうどそんな日だった。昨日から降り続く雪に化粧を施された街並みが、静かに夜に包まれていく。隣りを並んで歩き出した庵野がそっとわたしの手を取った。

「……わたし、雪道歩くの下手だから、転ぶかもよ?」

「知ってる。さっきから危なげでとても見てらんない」

だから手を引いてあげるのだよ、と笑う庵野にわたしは苦笑する。わたしが転んだら、巻き添え食らうかもしれないのに。

夜色に染まる雪を踏みしめて、二人で歩く道。わたしの家へと続くこの道を初めて二人で歩いたのは、ちょうど一年前のことだ。そしてわたしは彼にチョコレートをあげた。わたしの、初めてのヴァレンタイン・ディ。

……そう、そうなんだよ、とわたしは彼と手を繋いで歩きながら、またちらりと彼を見上げた。すっかり忘れていたけれど、今日はヴァレンタインなんだ。

昨今の世の中は、クリスマスだとかヴァレンタインだとかを忘れるようにはできていない。街を歩けば、ああもうそんな時期かと否が応にも気づかされる。テレビのコマーシャルも、電車の中吊り広告も、雑誌の表紙も、店のディスプレイも、イベントを全面に押し出してアピールしてくるから。

でも。それでも。

……忘れる時はちゃんと忘れるものなんだなぁ……。

なんだか変なことに感心してしまうわたしだった。ちょっと前までは、そろそろそんな時期だなって、意識があった。確かにあった。だけど肝心の日にコロリと忘れていたわけで……雑事に追われて忙しかったとか、やんごとない事情があったとか、そんなことはまるでなく、普通に平穏な日常を過ごしていたのに、だ。

世の中のイベント事に疎いし、あまり興味がなくもあるけれども。……いやいや。それでも、だ。それにしても、だ。

「……やっぱり、忘れちゃ、だめだよねぇ……」

そもそも今日はヴァレンタインである前に、いや、あるがゆえに、記念日でもあり。今日がヴァレンタインであるということは、つまり、わたしと庵野がいわゆる恋人同士になった日でもあるのだからして、にもかかわらず、朝からしっかりデートした挙句に帰る間際までそのことをすっかり忘れていたわたしってばどうなのよ。……どうなのよ?

庵野は何も言わない。ヴァレンタインのことも、記念日のことも。彼も忘れているのか、気づいているけれど何も言わないのか、そもそもどうでもいいのか。どうなんだろうか。

さっきまでさっぱり忘れきっていたくせに、一旦思い出してしまうと相手の反応というのは気になるもので、家が近づくにつれ、次第にわたしはそわそわしてきた。駅から家までの間にチョコレートが買える店の一件でもあれば、なんとか取り繕って用意することもできたのに……閑静な住宅街なんていうのは、こんなときまったくもって使えない。

「転びそう、とか言いながらなんできょろきょろしながら歩くかなぁ?」

未練がましく店を探して視線を彷徨わせるわたしに、庵野の呆れた声が届く。呆れながらも、彼は楽しそうに笑いながらわたしを見ていた。

「なんか、犬の散歩してる気分だ」

「なによそれー?」

「歌にあるじゃん。雪が降ると犬が喜んで庭を駆け回るっていう、あれ。ああいう感じ」

「別に喜んでるわけじゃ……」

雪化粧の街並みを歩くのは、確かにいつもと違う気分だ。通い慣れた道が、見慣れた景色が、ほんの僅かに姿を変えるだけなのに、不思議と新鮮な気分になる。違和感とはまた別の感覚だ。

「あれ、睦実はこういうの好きだと思ったけど?」

きゅきゅっとわざと大きな音を立てて雪を踏みしめる庵野の方が、犬の様と評されたわたしよりずっと楽しそうなんだけれども。

「こういうのって? ホワイトヴァレンタインでロマンチックだねー、とか? ……あ」

滑り出てしまった単語に思わず口元に手を当てながら、わたしは恐る恐る庵野の表情を窺った。いっそ忘れたフリを貫こうかと思ったけれど、自分で墓穴を掘ってしまった。……庵野は気づいただろうか。

「いや、そうでなくって。雪道なんかを飽きずに散歩とかしてそうだなぁ、と。そういう、イメージ」

上手く言えないなぁ、と笑いながら庵野が、つまりこういうの、と繰り返す。その様子はまるでいつもと変わらなくて、だからわたしはほっとしたような、反面、なにかがっかりしたような、変な気分になった。

去年はチョコレートを欲しがった庵野。今年は何も言わない、庵野。忘れていたのはわたしだけれど、何も言われなければそれはそれでなんだか……そう、寂しい。

そんな少し複雑な気分で、庵野の言葉に頷く。

「うん。好き。そういうの」

すると今度は彼が複雑な表情をした。わたし、何か変なことを言ったかな?

「そういうのは、するっと出てくるのになぁ」

悔しいねぇ、と冗談のように言う。ように、ではなくて本当に冗談なのかもしれなかったけれど。

もしかしてヴァレンタインを、記念日を、忘れていたことに気づかれたのかな、と思った。それで、気持ちが軽いと、そう思われたのかなと、思った。

何かを言わなければいけない気がして庵野を振り仰いだ時、繋いでいた手がぱっと離れて彼が言った。

「はい、着いた」

わたしの家の、前だった。家の前まで送り届けてくれて、目的地に着いたから手が離れた、ただそれだけのこと。なのに、無性に離れた指先が寂しかった。

「庵野、ごめん。ごめんなさい」

勢いよく頭を下げたわたしに、庵野が狼狽する。そのまましゃがみこんでわたしの顔を見上げてきたので、思わず笑ってしまった。その後で慌てて表情を引き締めたけれど。

「ごめんって何? さっきからなんだか、変だよ? 何か俺に言いたいことがある?」

「……実は、チョコを用意してない」

「え?」

「さっきまで今日がヴァレンタインだって忘れてて。だから、チョコレート、ないの」

真っ直ぐに見上げてくる視線は責めているふうではなかったけれど、なんだか居心地が悪くて、普段口数が多い方ではないのに、自然とわたしは饒舌になる。

「改札抜ける時、庵野の背中見てて、初めて一緒にあの駅に降りたときのこと思い出して、それで気づいたんだけど……もう、お店も、なくて。……あの、でも、庵野がどうでもいいとか、そういうことじゃなくって、むしろ気持ちと形は別というか、あの」

困った。何を口にしても言い訳がましい。そもそも言い訳以外に言えることがないんだから当たり前の話だけど……困った。

けれども。庵野は、言葉に詰まって焦るわたしを笑ったのだった。楽しそうに、可笑しそうに、笑い飛ばしたのだった。

「なんだ、そんなこと」

いともあっさりそう言われて、拍子抜けする。そんなこと?

「悲愴な顔で、チョコレートない、なんて言われるとびっくりするじゃないか」

「悲愴な顔、だった?」

「だった。悪い話でも聞かされるんじゃないかって、一瞬どきっとしたもんね」

言って庵野が立ち上がる。下から上へ、彼を追うように、わたしは視線を移動させた。そんなわたしの頭を大きな手がくしゃりと撫でる。

「俺はね、ヴァレンタインだからってチョコをもらうより、初めて俺と帰ったときのことをちゃんと覚えてて、ふとしたときに思い出してくれることのほうが、嬉しい」

「……チョコレート、欲しくないの」

「もらえれば嬉しいけど、必要じゃないよ。それに、それより嬉しいことがあるって今言ったじゃないか」

「でも、去年は欲しがった」

「それは……」

「それは?」

「……去年は、気持ちも形も、手に入れてなかったから」

あたりは、雪景色。夕方というにはもう日は暮れすぎていて、気温は低くて、じっと立っているととても寒い。なのに、体の中心に火が灯ってでもいるかのように温かくて、その温かさに頬が熱くなる。庵野の頬が赤いのも、そのせいだろうか。それとも、風が冷たいからだろうか。

少しの沈黙の後、なんてね、と言いながら庵野が頭を掻いた。照れ隠しをするときの彼の癖だ。それから上着の内ポケットに手を入れて、手のひらサイズの小さな包みを取り出す。綺麗にラッピングされたそれを、彼はわたしの手の上に落とした。

「……何?」

首を傾げるわたしに、悪戯っぽく笑う庵野。

「チョコレート」


家に入ると、ぷーんと甘い匂いが漂ってきた。ああやってるな、と思いながら台所をのぞくと、妹の瑞葉(みずは)が後片付けをしているところだった。わたしに気づいておかえり、と声を投げてくる。

「お姉ちゃんの分もあるよ、冷蔵庫の中」

言われて冷蔵庫を開けると、正面の段に綺麗にデコレーションを施されたカップサイズのチョコレートケーキの並んだトレイが入っていた。

「うまくなったよね」

ありがたく一つ頂戴しながら言うと、瑞葉はまぁねと苦笑混じりで答える。二年前までお菓子作りなんて興味もなければ技術もなかった彼女だけれど、今ではわたしなんて足元にも及ばないほど腕を上げた。

「いざ欲しいといわれてアタフタするのは、もうごめんよ」

クールに言い切るその裏側に繰り広げられた修羅場を思い出し、わたしは思わずくすくすと笑った。こんな風に言えるようなるまでに台所から響いた幾度もの悲鳴を、知っているから。

「なによぅ? お姉ちゃんはあげたの?」

口の中でとろける甘い味と香りを楽しみながら、わたしはそっとコートのポケットを押さえる。

「もらっちゃった」

「は?」

目を丸くする瑞葉にごちそうさまと言い残し、わたしは台所を後にした。甘い匂いの漂う階段を上り、自分の部屋へ戻る。

ヴァレンタインにチョコをあげるのは、何も女の子の特権ではないのだよ、瑞葉ちゃん。……なんて、これは庵野の受け売りだけれど。

妹の作ったチョコレートの匂いは、わたしの部屋までも侵食していた。その甘やかな空間で、取り出した小さな包みを開ける。

『気持ちと形が同じだなんて言われなくてよかったなぁ。そうだったら、これじゃ小さすぎるもんな』

そう言って笑った庵野。並んだ小さなかけらをそっと指でなぞって、わたしは呟く。

「さて、ホワイト・ディのお返しは何にしようか」

窓の外では、また雪が降り出していた。今日はわたしの、セカンド・ヴァレンタイン・ディ。

- fin -