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ファースト・ヴァレンタイン

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「実はちょっと、期待してたんだけどな」

それは、バイトが終わって帰ろうとしていたときのこと。ロッカールームですれ違った庵野(あんの)がちらりとこちらを見てそう言った。わけがわからなくて、わたしは首を傾げる。

「なにを?」

庵野は脱いだユニフォームをハンガーにかけながら一瞬驚いたような顔をして、それからくしゃっと顔をゆがめた。違う、笑った。それから、シャツ一枚の背中をふるっと震わせる。

「うんにゃ、なんも。言ってみただけ。……立春過ぎたつっても冷えるねぇ」

バイト先であるこのコンビニのロッカールームには暖房がなくて、だからとても寒い。薄いユニフォームの下は半袖のシャツだけだった庵野は、見るからに寒そうだ。すっかり帰り支度を済ませたぬくい格好でわたしはくすりと笑った。

「あったかくしないと風邪ひくよー」

「そうしたら睦実ちゃんに看病してもらえるからそれはそれでらっきー」

へらりと笑う庵野に、わたしは思わず苦笑する。

「なに言ってんの」

呆れたような声を投げられても、庵野はへらへらするばかりだ。目を細めて楽しそうに笑っている彼は、わたしより三つも年上の大学生なのだけど、とてもそうは見えない。せいぜい同級生……いやむしろわたしの中では、二つ下の妹のボーイフレンドと遜色ない存在だ。童顔のせいもあるけれど、彼の纏う雰囲気がどこか……幼くて。

「じゃ、お先に」

セーターを頭からかぶっている背中に声をかけて帰ろうとすると、くぐもった声が慌てたように追いかけてきた。

「ちょい待ちちょい待ち。送っていくから、少し待ってなさい」

焦ったせいか、セーターの襟口から顔を出した彼の頭はぼさぼさで、それが彼の童顔に拍車をかける。どう見たって年上には見えないよなぁ、と思うのに。

「こんな遅くに女の子の一人歩きは危ないでしょって何度も言ってるのに」

その幼い顔にお兄さんな表情を浮かべて、彼は年上ぶってお説教をするのだ。

「って言っても。駅まで歩いて二分もかからないし。庵野、方向違うじゃない」

首に巻いたマフラーをいじりながら、わたしは肩をすくめる。その次の彼の言葉は、もうわかっているけれど。こんな会話をするのは、はじめてじゃないから。

「だからだよ。たった二分と侮ってあとで後悔するんじゃ洒落にならない」

彼が浮かべる心配の色は本物だから、わたしはその好意をいつもありがたく受けることにしている。バイト先で初めて出会ってから半年、同じシフトになることはそう多くないけれど、夜の時間帯で一緒になったときは大抵二人肩を並べて駅に向かった。たった二分の距離を。

「深夜の連中にメモしときたいことがあるから、ちょっとだけ待ってて」

コートを着る彼の背中と、ふと思いついたあることに少しだけ視線を彷徨わせて。わたしは、彼がメモを書く間を店内で待つことにした。


バイト先のコンビニから駅までは歩いて約二分。駅前なので店が多く、通りは明るいし、人通りも多い。午後十時を回ってもにぎやかな場所を通り過ぎながら、やっぱり庵野は心配性だなぁと思う。大体 、 コンビニから駅まで送ってもらったって、自宅最寄駅から家までの方が遠いのに。高校に近いところにバイト先を探したので、家からは結構遠いのだ。休みの日はバイトに行くのが面倒になるほど。

心なしかいつもよりカップルの多い通りを二人で歩いていく。何を話すわけでもなく。いつも、こんな感じだ。ほとんど目と鼻の先といってもいいような場所に駅があるから、何かを話している暇もない、というのが本当のところなのだけど。

いつものように駅の改札の前で別れようとしたとき、鞄の中から携帯電話の着信メロディが聞こえてきた。改札の脇に避けながら電話に出ると、妹の瑞葉(みずは)だった。

『お姉ちゃん? もう改札入っちゃった? 電車止まってるみたいなんだけど』

「え?」

わたしのあげた声に、ひらひらと手を振って去ろうとしていた庵野が振り返った。どうした、というように首を傾げて戻ってくる。

「電車、止まってるんだって。事故があったみたいで、いつ動くかわからないって、妹が連絡くれたの」

あれま、と小さくつぶやき、そのまま駅員に何か話しかけている庵野を見ながらわたしは妹に礼を言い、電話を切った。戻ってきた庵野が、事故で電車が不通になっているのは本当だと教えてくれる。けれどあと三十分もすれば動くらしいと聞いて、わたしはほっと胸をなでおろした。

この駅は単線だからそれが止まっているとなると、どうやって帰ればいいのやら。復旧の目処が立っているならおとなしく待っていればいいのだけれど、そうでなかった場合、この時間ではバスももうないし。残る道は、他の駅まで歩くか、もしくはタクシーを使うか。それを考えると三十分待つくらいどうということはないように思える。

けれど、安堵するわたしとは裏腹に、庵野は難しい顔だ。

「どうしたの? 付き合うことないよ?」

外は寒いから。とりあえず改札を抜けて中で待っていようと定期を取り出すわたしの腕をつかんで、庵野が引き止める。

「寒いから、一緒にお茶して待ってようか」

付き合うことないって言ったのに、庵野はお兄ちゃんの顔をしてそんなことを言う。変なの。ちっとも年上に見えないくせに、なんだか変なの。三つも年下のわたしに呼び捨てにされても怒らないし。もともとは庵野が堅苦しいのは嫌だから「庵野さん」はやめてくれって言ったのがはじまりだけど。……いや、そうじゃなくって。そういうことじゃなくって。

「睦実ちゃん?」

入るよ、と促されて駅の隣りのコーヒーショップに入った。童顔だとか雰囲気が幼いだとか言うけれど結局。わたしはいつも、庵野に逆らえないでいる。むしろ、素直になってしまう。そんな自分も、変だと思う。庵野といる時間はなぜだかいつも、不思議な気分になる。その感情をどういう言葉で表せばいいのかわからなくて、最近のわたしは少し、戸惑い気味だ。

「庵野まで遅くなることはないのに」

一人で電車も待てないほど甘えん坊ではないのだけれど、寂しそうに見えたのだろうか。あたたかいカフェオレの湯気に目を細めてつぶやくと、いやいや、と庵野が首を振った。

「これは俺のわがままでね」

わがまま? ……わけがわからない。なんでわたしに付き合ってお茶することが庵野のわがままになるんだろう?

「や、だから。ここで睦実ちゃん置いて帰っちゃうのは俺が安心できないから嫌なの。ちゃんと電車来たかなぁ、睦実ちゃんはちゃんと帰れたかなぁって後で心配するなら……というか、絶対心配になるから、今ここで残ってちゃんと見届けたいわけ」

「ふぅん?」

お兄さんは心配性なんだねぇ、と茶化して言ったら、庵野は少し寂しそうな顔で、そうなのよと笑った。……そういう顔は、あまり好きじゃない。

「とはいっても、ね。どうせ心配することになるんだけどねぇ……」

甘そうなココアを口に運びながら、彼が溜息のようにそうつぶやいた。コーヒーショップでココアなあたりが庵野だなぁと思いながら、わたしは首を傾げる。

「どうして?」

尋ねれば。わたしがあまり好きじゃない寂しそうな顔はそのままに、彼は答えた。

「俺が見届けられるのはここまででしょ。いっそ家まで送っていけたらいいんだけどねぇ……睦実ちゃん、嫌がりそうだから」

だから結局悶々とするわけだよ、と最後は茶化すように笑って、庵野はココアを飲む。わたしは一瞬動きを止めてしまった。

うーんと。なんだかちょっと顔が熱い気がする。お店があたたかいせいだろうか。カフェオレがあたたかいせいだろうか。それとも……?

「嫌がるわけ、ないのに」

その言葉は何か考えるより早くすとんと心に降りてきて、そうして口から飛び出していた。庵野がびっくりしたようにわたしを見る。

「そうなの?」

コーヒーショップの小さなテーブルで二人、向かい合って座っている。そういえば向かい合うなんてはじめてのことじゃないかと気がついた。そもそも、こんなにのんびりゆっくりおしゃべりをするのも、はじめてのことだ。勤務時間が一緒の時はもっと長い時間を共にするけれど、仕事中は個人的な話なんてほとんどしないから。そして、帰りの道のりは短すぎて、話す間もないから。

「そうだよ」

それなのに、特に意識するでもなく二人で話す時間がとても心地よいのが不思議だった。庵野のそばは、居心地がいい。

「じゃあ今日は送っていこうかな」

そう言う庵野の顔は、まだちょっぴり疑いを含んでいるような。少し探るような色合いを残していて、わたしはおかしく思いながら、でも、と言った。

「庵野、ずいぶんと遠回りになるよ?」

一緒に帰るのは嫌ではないけれど。まるで方向の違う庵野に家まで送ってもらうのは、少し気が引ける。

「悶々とするのに比べればそんなこと」

気が引ける……けれど、庵野がそう言うのなら、甘えてしまおうかな。だって、一緒に帰るのは、きっと楽しい。


結局、電車が動き出したのは午後十一時を少し過ぎてからだった。すっかり遅くなってしまったねぇ、と寒そうに肩をすくめながら庵野はわたしの後からついてくる。歩き慣れた道が、見慣れた街並みがいつもと少しだけ違ってみえる……ような、少し不思議な感覚を味わいながら、わたしは帰路を辿った。いつもは一人で進む道のりが、二人だとやけに短い。気がつけばもう家の前で、その早さに驚いてしまったほどだ。駅から家まで、こんなに近かったっけ?

「よしよし。これで俺も安心して帰れるってもんだ」

満足そうにうなずいて笑う庵野に、わたしはぺこりと頭を下げた。その頭をくしゃりと撫でて、彼は言う。

「じゃあ、俺は帰るから。夜更かししないできっちり休むんだぞー」

お兄ちゃんの顔で。またな、と手を振った。門扉に手をかけて見送ったけれど、それが少し寂しくて。

「庵野」

振り向いた彼を、おいでおいでと手招いた。首を傾げつつも戻ってきてくれたその手に、鞄から取り出した包みを差し出す。コンビニで庵野を待っている間に買ったもの。

「あげる」

庵野が驚いた顔で手の中のものを見つめた。

「甘いもの、好きでしょ」

間に挟んだ門扉に手をかけて、わたしは庵野を見つめる。ややあって、彼が上目遣いでわたしを見た。

「それだけ?」

わたしは。どう言えばいいのかと少しだけ考えた。それは、気持ちがわからなかったからではなくて。どう言葉にすればいいのかと、そのことに迷ったからで。

「……わたしは。お兄ちゃんじゃない庵野がいいな」

けれど結局出てきたのは一番素直な気持ちで。他にどう言えば伝わるか、わたしは知らないから。

ほんのしばらくの間、庵野はわたしの言葉の意味を掴みあぐねているようだった。けれど、やがて。

「うん。わかった。俺も、その方がいいな」

くしゃりと。優しく髪を撫でたその手が、答えだった。


一緒にいると、ほっとする。そばにいるのが気持ちよくて、心があたたまる気がする。時々、それが昂じて顔まで熱くなってしまったりするんだけれど。

こんな気持ちは今まで知らなかったから、それに名前をつけて呼ぶことは難しい。でも、想像したより悪くないな、と思う。

『 期待してたんだけどな』

彼が言ったのはこれのことかな、と店頭のワゴンから手に取ったかわいいラッピングのお菓子箱。

『……だってっ。欲しいって、あいつが言うんだもんっ』

妹の瑞葉が去年言った言葉が、今ならわかる。悪くない、気持ち。

けれどそれでもまだ少し、自信がなかったから。手元に残すつもり半分、渡すつもり半分……迷いながら、購入した。ゆらゆらと揺れる鞄の底、ゆらゆらと揺れる気持ちと一緒にしまいこんで。

でも。衝動はどこで突き上げてくるかわからない。自分のことなのに、どこでなにを自覚するかもわからない。帰っていく背中を見つめていたら、ゆらゆら揺れていたものが、ぴたりと焦点を定めた。

そうして。わたしは生まれて初めて男の子にチョコレートをあげた。今日は、ヴァレンタイン・ディ。

- fin -