ヴェイルの守護者
五章
ディランを出るとき、リファスが言った言葉がある。
「魔性の前で、絶対 " 名前 " を口にしちゃいけないよ」
そう、彼は言ったのだ。
言葉には言霊というものが宿る。不思議な力がある……名前というのは人の本質を差すものとして持つものだから、魔性に名を知られることはとても危険なことなのだ、と説明を受けた。
はっきり言ってリファスの言っていることはディナティアには半分も理解できなかったが、とりあえずうなずいておいた。
魔性に名を知らせてはならない。
そのことは脳裏に刻み付けた。……と思う。
一応そう意識はしてみた。
魔性というものの存在は知っていても、実際に遭遇したことがないから、ディナティアにははっきりいって実感がない。
魔性──恐ろしい存在。
一般化されているこの図式が、よくわからない。
だからといって甘く見ていたつもりはないのだけれど……。
ごくり、と喉が鳴った。
自分を見つめる目を、凍ったように見返し。
ディランから伸びる街道を歩いていたときのこと、休憩がてら寄った井戸のそばで、ディナティアは生まれてはじめて、魔性を目にしていた。
井戸のふちに腰掛けて桶の水を手ですくっている、小さな影。
子供かと最初は思ったのだが、すぐに魔性と知れた。人とはあまりに違うその外見故に。
がりがりに痩せた肢体は、黒ずんだ肌の色をしている。腰に布を巻きつけただけの、剥き出しの体。伸びっぱなしのぼさぼさの髪──これもまた、日に焼けすぎたかのような灰色の。
そして、灰色に近い銀の瞳。
猫のように瞳孔が開いているのが、少し離れた距離からでもわかった。
だからなのだろうか、異様にぎらぎら輝いて自分を見つめているように、ディナティアには見える。
不意の出来事に、彼女はただ立ち尽くすのみだ。
「リ……」
喉からすでにせりあがっている名前を、すんでのところで押しとどめた。
──絶対 " 名前 " を口にしちゃいけないよ……。
合ってしまった瞳を、果たしてそらしてもいいものだろうか。
見詰め合ったままでいるのは、かなり辛いものがある。緊張で全身が汗をかいていた。
ぴくり、とそいつが動いた。ほんのわずか、肩が揺れる。
視線はディナティアの少し後ろに。
振り向きはしなかったが、リファスが追いかけてきたのだろう、と見当はついた。
草を踏む、軽い足音。
ディナティアの少し後方でその音は止まり、鼻を鳴らすような気配がした。
「失せろ」
短く鋭い声に、魔性が一瞬びくりと震え、ついで飛ぶように脇の茂みへ姿を消す。
あっという間の出来事に、ディナティアは目を丸くして立ち尽くすのみだ。
……びっくりした……。
リファスの声が、まるで別人のもののように聞こえた。
普段からは想像もつかないほど、冷たい声。
心の底から冷える、そんな声。
「もう……」
だが、次に聞こえてきたのはいつもどおりのものだった。
「…………なにやってんの、お姫様? 今の小悪魔だよ? はっきり言って雑魚だよ、雑魚。あんなの相手にびびってて大丈夫なの?」
呆れたような声が背にかかり、けれどディナティアには反論の余地はない。
びびった…………わけではないと、思う。
怖いとは思わなかった。けれど、戸惑いゆえに動けなかったことは事実だ。
「……すまん」
振りかえりそう謝罪すると、リファスは軽く肩をすくめてみせた。
「いいけどさ、僕は。……ちょっと先が思いやられただけで」
……なんだかなー、と思う。
昨日、彼がほんの少し自分を認めてくれたような気が、ほんの少しではあったけれど、確かにしたのに。
けれど、自分に対する彼の態度は相変わらずだ。
この覚悟では、まだ足りないと言うのか……?
迷いもためらいも未練も、希望さえ捨てて来たつもりでいたけれど。
まだ、足りないのだろうか……。
何が。
何が足りないのかは、皆目わからない。
だが、リファスが自分を見る目は、明らかに語っていた。
まだ信じられない。と、そう。
「それよりっ! この地図、もしかして間違ってんじゃないの?」
昨日訪れた古着屋で買った地図をびらびらさせて、リファスは面白くなさそうにため息をつく。
「だっておかしいよ、これ。こんなとこに別れ道なんか書いてないよね? だけど実際はあるじゃんかーっ。……ちくしょう、紛い物つかまされたんだ、あいつに!」
あいつ、というのは古着屋の主人のことだ。一番最新情報の載っている地図、と言われたのだ。
だが地図には一本道で記されている場所に、枝道が派生している。やや険しい感じの……もう少し進めば獣道になりそうな感じの。
それを見つけた瞬間、リファスはとても悔しそうな顔で立ち止まり、地図とにらめっこをはじめてしまったのだった。それでディナティアは彼を置いて水を汲みに来たのだ。
「……そんな感じには見えなかったが……」
少し首をかしげて彼女は昨日あった男を思い出す。
温厚な男だった。彼女が今着ているものも彼の見立てだ。
白い麻の異国風のデザインの上下。本来男子の着物なのだが、えんじの腰帯で締めるとなかなか具合よく着れた。オフィルにもらった剣を腰に帯びたその姿はなかなかりりしく、もともと整った顔立ちの少女をいっそう引き立てて見せる。
リファスもその選択に異論はなかったし、ディナティアも気に入っていた。いい買い物だったと言えよう。押しつけがましくなく、確かな見立てをしてくれた店主、ディナティアとしては好感を持っているのだが。
だが、それとこれとは別問題、とリファスは主張する。
実際問題として地図に問題がある以上、ディナティアはそれ以上言えない。
「まったく! 冗談じゃないったらっ! 金払ってんだよ、これにだってっ」
…………払ったのはわたしなんだがな。
胸中のつぶやきをディナティアはぐっとこらえた。一言言えば百倍になって返ってきそうだ。
複雑な面持ちで黙っている彼女の前で、リファスは手にした地図をびりびりと破り捨てた。
細かくちぎった紙片を、地面に撒き散らす。
「い……いいのか?」
なにも破くことはなかったんじゃないか、と思うのだが、本人全然気にしない。
「いいんだよ。役に立たない地図なんか持ってたってしょうがないでしょ。とりあえず、この広いほうの道進んで見る? ……こっちはいかにも怪しげだしね」
鬱蒼とした森へと続いていく右手の道を見ながら、リファスはそう言った。
「そうだな」
森で悠長に迷っている暇などないので、ディナティアはあっさりと同意する。
そして二人、また道を進み出そうとした、そのとき。
「つれないじゃないか、そこのお二人さん」
そんな声が、降ってきた。
リファスの全身が一瞬にして緊張する……ディナティアも反射的に手を腰に当てていた。
腰の、剣の柄に。
「彼女と二人でかけおちかい、色男」
ふざけたことを皮肉げな笑みで修飾しながら、男は現れた。
木の上から。
一目で野盗だとわかった……そういう目を、していた。
彼が姿を現わしたのが合図だったのか、その後を追うように木々の間から次々と男たちが現れる。
「金を置いていってもらおう。現金と、金に換えられるものすべて、だ」
最初に現れた男はそう言って、一歩近づいた。
「……嫌だと言ったら?」
じり、と後ずさりしながらリファスが応じる。その背にディナティアをかくまいつつ。
「こっちだって切羽詰まってんだよ。人に恵む余裕なんてないね」
誰のせいで切羽詰まってるんだか。
ちらりと思いはしたが、頭の隅でちらりと考える程度に留めておいた。今はそんなときではない。
「だったら丁重におもてなしするだけさ。して欲しいか?」
男の顔がわずかに歪む。
……丁重におもてなし?
ディナティアにもそれがどういうことなのかは理解できた。
実力行使に訴えてでも分捕るつもりらしい。
……まずい。
そう感じたのは直感。
「へえ? 興味あるね」
兆発めいた言葉を口にするリファスの脇を抜け、ディナティアは懐から巾着を取り出す。
放り投げる……男に向かって。
「ちょっ……」
リファスが目を剥いて見たけれど。
「それで全部だ。わたしたちを行かせてくれ」
正面から男を見据えて言った彼女に、野盗たちの間に笑いが広がった。
「…………苦労するねぇ、色男」
にやり、と笑いながら頭目が腰の剣を抜く……同時にリファスがディナティアの腕をひっつかんだ。
「っの馬鹿……っ!」
怒鳴りつけながら彼は走り出した。有無を言わせずディナティアをひきつれ。
…………なにっ?
なにがどうなっているのだかわからず、だが走らないわけにはいかないのでディナティアも懸命に足を動かす。
なんなんだ、一体?
全然わけがわからない。
金を渡せばいいと言ったではないか、あの男は。
だから素直に従ったのに……本当はそうするととても困るのだけれど、でも野盗相手に立ちまわりを演じるほどの暇も体力も持て余していないから、不服ながら従ったのに。
それがなんでこうなるっ?
「まったくもうっ! 野盗相手に道理求めてどうするんだよ! ああいう奴らにはまともに相手しちゃいけないの! ほんっとに世間知らずなんだから!」
……そう言われても。
では、他にどうすればよかったというのか。
リファスみたいに喧嘩をふっかけろ、とでも?
それこそ馬鹿な行為ではないのか。
「油断させてひたすら逃げる! あとは運次第! 喧嘩に勝てる自信があるならその他も有りだけど……」
逃げる?
それが通用するなら、野盗なんて商売はあがったりではないか。
こういう奴らがのさばりつづけるのは、カモが絶えないからだろう?
……そんな疑問が頭の中をよぎるが、口に出す余裕はない。
なにせ相手はこんなことを日常茶飯事としている連中なのだ。
「なにもたもたしてるの! 早く走って! 追いつかれたら地獄だよ……特に君は女の子なんだから!」
………………だから?
リファスの言わんとすることを理解して、ディナティアは青くなる。
冗談じゃない……!
あの飢えた獣のような男たちに犯されるくらいなら、死んだ方がましだ。
それが本心。
けれど。
自分は死ねないのだ。タリアに会うまでは。
彼女を救い出すまでは、絶対に死ねない。
──死にたくない!
だから男たちからはなにがなんでも逃げ切らねば──そんな彼女の決意を嘲笑うかのように、頭目の手がディナティアの髪に触れた。
「つっかまえたぁっ」
ぐいっと引っ張られ、引き寄せられる。
「リファス……!」
離れた腕を必死に伸ばす。
「…………っ!」
ディナティアを盾に取られ、リファスは息を飲んだ。
「残念だったな、兄ちゃんよ。ずいぶんと威勢がいいようだが、これでもまだ頑張れるかな?」
ごつい腕でディナティアをしっかりと抱え込み、頭目は意気揚々とそう言う。
頭目の後ろには手下が六人。
どいつも体格だけはすこぶるよろしい。
悔しそうに歯噛みするリファスに、頭目はかなりご機嫌のようだ。
腕の中の獲物にも。
「……こいつは高く売れそうだ。久々の上玉だな……楽しめそうだ」
ディナティアの喉が激しく上下する……怒りに、悔しさに、そして絶望に。
体が燃えるように熱い。
…………わたしが馬鹿だから……!
後悔なんかしたところでいまさらなのだけれど。
「──放せよ」
リファスの口から低い声が発せられたのはその刹那。
思わずはっとするほどに、冷たい声。
……リファス?
先ほど小悪魔を追い払ったときも感じた、底冷えのする声。
「なんだって?」
馬鹿にしたように問い返した頭目は、だがリファスの視線を受けて鼻白んだ。
声と同じほど──いや、それ以上に冷たい、凍てついた視線。
ディナティアは背筋にぞっとするものを感じた。
それは野盗に犯されることを想像した瞬間よりも強烈な、戦慄。
目の前にいる少年は、自分の知る彼とは違う。
「放せと言ってるんだよ、下衆め」
吐き捨てるようにそう言ったリファスに、野盗たちが色めき立つ。
「貴様……っ」
一人が剣を振りかざし躍りかかった……剣は軌跡を描き、リファスの体を一剣両断する。
──かのように見えた。
だが実際は、その野盗の体はリファスに届くことなく弾かれたように吹っ飛び、近くの木の幹にぶち当たって沈んだのだった。
…………いまのは……。
信じられない気持ちでディナティアはリファスを見つめる。
弾け飛んだ。
ように、ではない。確かに弾いたのだ、リファスは彼を。
…………魔術?
術師オフィルから言われてきたという少年。彼もまた、不思議を行なう者なのだろうか。
「その子を放せ。俺は手加減なんて知らないぞ」
凄むでもなくリファスはそう言う……だがその声の冷たさが、はったりではないと十分に語っていた。
「……そんな言葉にほいほい従ってるようじゃ、この稼業は務まらねぇんだよ」
ディナティアを手下の方へ突き飛ばし、頭目は剣を構えてじりじりとリファスとの間合いを詰める。
対した少年は、やれやれというように肩をすくめた……余裕をかますものである。
挙句、
「頭の悪い奴は、長生きしないぜ?」
応えるように頭目の体が走る──先ほどの男よりずっと洗練された動き。
一通り武術を体得しているから、それくらいディナティアにも分かる。
だからこそ、奴に捕らわれたとき、動けないでいたのだ。
……こいつ、強い……!
伊達に手下をひきつれているわけではない。
だがリファスはいとも簡単に彼の剣の先から身をかわし、さりげなくディナティアの方に近づいてこようとしていた。
「全然遅いな。…………攻撃ってのは──こう仕掛けるもんだ!」
リファスの片手が大きく弧を描き、その瞬間空気が動いた。
その腕の軌跡に従うように大気が形を成す──何もないはずの空間から姿を現わしたのは、鋭い翼。
リファスの腕に白く輝く翼が生まれ、鋭利な刃物となって頭目の腕を切り裂いた。
「ぐっ……」
痛みにもれた声に、リファスは嬉しそうに微笑む。
「痛い?」
その様はさながら噂に聞く妖魔の如く──ディナティアは呆然として彼を見つめた。
リファス?
一体どうしたというのだろう。
彼に何が起きたというのか。
「もう少し利口になんなくちゃな。勉強になったろう?」
楽しそうにそう告げ、彼は腕を振り上げる…………頭目の死はほとんど確実なものだった。
……そう、そこに邪魔さえ入らなければ。
頭目の首を切り裂くはずの刃は、だが突如そこに生じた何らかの力によって阻まれる。
「…………!?」
訝しげに眉を寄せるリファス──目をすがめたその視線の先。
何もないその空間に、彼は声を投げた。
「誰だ?」
応えるように空間がぶれる。
何が起こっているのかわからぬまま、だが肌があわ立つほどの恐怖をディナティアは覚えた。
なに……?
「人の領域で勝手なことをしておくれだね、坊や」
女の声でそう告げ、渦を巻いた空気が影を産み落とした。
水が蒸発していくような音を立てながら揺らめきが立ち上る。
「まったく、次から次へと……」
忌々しげにつぶやくリファスへ向け。
ひたすら余裕にあふれる笑みをたたえ、そいつは姿を現わした。