ヴェイルの守護者
三章
「ねぇ、お姫様。一つ聞いてもいいかな? そのタリアって人は魔性に連れ去られたんだよね。でも、だからってガルス海にいるってなんで分かるの?」
そもそも、その人が魔性にさらわれたっていう証拠はあるの……?
とりあえず宿に落ち着いて、先ほど屋台で買った軽い食事をとりながら、リファスが尋ねた。
「証拠……?」
木製の机の上の揚げ物に手を伸ばしながら、ディナティアは訝しげに応じる。
そんなものはない。ないに決まってる。あったとしたら、その方がおかしいのだ。人をさらうくらいわけもなくやってのける妖魔が、痕跡など残すはずもない。
「その人が勝手に城を抜け出した、ってことはないわけ?」
少し酸味のある独特の味付けの焼き菓子を口に放りこんで、少年はさらに問い掛けた。それに対し、むっとしたようにディナティアは即答する。
「絶対にない。あいつがわたしに黙って消えるなんて、そんなことあり得ない。誓ったっていい」
もしタリアがそんなふうにひょっこりどこかへ行ってしまう人なら、自分だってこんなに心配したりはしなかったのだ。
そのうち帰ってくるだろう、そう思って今も城でおとなしくしていたに違いない。
きっと。
黙ったまま。
心配でも王に逆らったりしないで。
ずっとじっと待っていた、はずなのだ。
そういうふうにこの十五年、生きてきたのだから。
「無意味に人に心配なんかかけない人なんだ。黙って消えるような、そんな真似、するような人じゃない。だから……!」
だから、心配なんじゃないか──!
最後の方は、言葉にならなかった。
言葉になんかできなかった。
「ごめん……。怒った?」
リファスは少ししゅんとして謝った。意外な反応にディナティアは少し落ち着きを取り戻す。
「いや……。取り乱して悪かった。──ガルス海に向かおうと思ったわけは、そこに魔性がよく集まると聞いていたからだ。だからそこへ行けば、タリアをさらった奴がそこにいなくても、何か手がかりくらいはつかめるかもしれないと思って」
神妙にディナティアの言葉を聞いていたリファスの頬が、次第にひきつっていった。
信じられない、という顔で自分を見つめる少年の視線に、ディナティアは首をかしげる。
「……リファス?」
呼びかけに彼はゆっくりと首を横に振った。
「全然わかってないよ……お姫様さぁ、それって。ものすっごくっ。ほんとにすっごく危険なことなんだけど? っていうか無謀。無茶苦茶」
そう言われ、けれどディナティアは生真面目にうなずく。
分かっている、つもりだ。
魔性に会ったことなんてないから、どれほど、と問われれば答えられないのだけれど。
でも、覚悟ならとうにできている。
窓から抜け出した、あの時から。
「だから言っただろう、リファス? わたしに保護者は不要だと。お前は関係ないのだから、やめてもいいんだぞ?」
オフィルがなんと言ったか知らない。だが、巻き添えを食いたくなければ、自分に関わらないことだ。
ディナティアは本気でそう思っていた。
最初から、誰かに助けてもらおうだなんて考えていないのだから。
「何馬鹿なこと言ってんの、お姫様? それならなおさら僕が必要なんじゃない。やめてもいい? 冗談はやめてよね。僕はそんなに冷たい人間じゃないつもりだよ」
けれど、少年は微笑みながらそう告げて、ディナティアの考えを否定する。紅の瞳を楽しそうにきらめかせて。
「オフィル様にも頼まれてるしね。こう見えても僕は結構役に立つよ? せっかくこう言ってるんだから、素直に喜びなよね。お姫様は運がいいよ?」
そうかもしれない。
少年の言葉すべてに得心がいったわけではなかったが、そう思った。
オフィルに出会っていなかったら……どんなふうに道は開いていったのだろうか。
リファスがそばにいる、今このときですら、この先どうすればいいのか、皆目わからないままだというのに。
計画など立てる暇もあらばこそ、飛び出してきてしまったので。
「ありがとう、リファス。……そうだな、一人では無理だ」
何も知らないまま、城を出てきた。
タリアを助けたい、その一心で。けれどその術を自分は知らない。
役に立つ、というリファスの言葉を信じたかった。
もちろん戸惑いもあるけれど。
そうまでしてもらえる何かが、自分にあるとは思えないが。
大体、まだ出会ったばかりだというのに、オフィルもリファスもなぜ自分のために動いてくれるのだろうか。
彼らにとって、何もメリットなどないはずなのに……。
「でもね、僕は認めたわけじゃないからね。協力するのとオフィル様とのこと認めるのは違うから。勘違いしないでよね」
突然、リファスがそんなことを言った。前後の脈絡をすっ飛ばして不意に。
「は……?」
なんの話かわからずに、ディナティアはきょとんとする。
そんな彼女に、リファスは強い調子で続けた。
「オフィル様が恋人作るなんて……そんなの、認めないから」
「──リファスぅぅ?」
思わず声がひっくり返った。
誤解だ。一体どこをどう解釈すればそんな結論に達することが可能なのか、その方がよほど不思議なくらいの強烈きわまる誤解だ。
「言っておくが、わたしはあいつとは昨日が初対面だぞ?」
「一日あれば十分だよ」
何が十分だというのか……リファスの思考はディナティアには今一つ理解できない。
「わたしは軟弱な男は嫌いだと──」
「オフィル様は軟弱なんかじゃないよ!」
口を尖らせるリファスに、いやそうではなく、とディナティアはため息をつく。
要するに好みではない、という話なのだが。
「お姫様、夜着一枚でオフィル様の部屋に行っただろう? 年頃の女の子がそんなことするなんて、はしたないと思わないのかなぁ」
困ったもんだ。
ふう、とわざとらしくため息をつきながら肩をすくめたリファスに、思わず赤面する。
「あ、あれはっ、やんごとなき事情があって、だな……」
「へええ? やんごとない事情、ねえ?」
まるっきり信用していない口調で彼は先を促した。
こいつ絶対性格悪い。
それは直感であるが、真実である可能性は非常に高いとディナティアには思える。
人が困っているの面白がるなんて、悪趣味だぞ……。
そう思い、そんな彼にとって要領の悪い自分なぞ思いきりカモだと気づいた。渋面になってしまうのは必然である。
「あ、都合悪くなったから怒ってるでしょ」
図に乗る少年に、これはひとつちゃんとしておいた方がいいな、と判断する。背筋を伸ばし、まっすぐに少年を正面から見た。
「あのな、リファス」
改まった口調のディナティアに、リファスもこころもちしゃんとする。
「わたしの部屋には衣服をしまう場所がないんだ。わたしが着用するものはすべて別室で管理されていて、その部屋には女官たちがうろちょろしている。まるで見張りのようにな。しかもわたしは嘘がうまくない。服を調達しようにもできなかったんだ。だからローブで出てくるしかなかった」
自分の知らない世界に素直な驚きを表しながら、でも、とリファスは不思議そうに尋ねた。
「夜着に着替える前に着てた服は? なんでそれで出てこなかったのさ? わざわざ着替えてくる必要なんかないじゃない」
それが甘い。
ディナティアはかぶりを振った。
「わたしの着替えは女官が行なうんだ。わたしは立っているだけで、あとは女官がやる。それが彼女たちの仕事で、時間もすべて決まっている。……弟が生まれてからは、夕食が終わるとすぐに夜着を着せられて寝室に追いやられる」
口の端にわずかにのぼるのは自嘲。
自分の立場の、なんと不自由なことか。
それを改めて思い知る。
「…………苦労、してるんだね…………」
しみじみと言われてしまって思わず破顔したけれど。
本当に苦労している。とても贅沢な種類の……けれど自分にとっては不要でしかない苦労を。
「タリアが相手なら、苦労でもないんだけれどね」
気心が知れているから。
だが、他の女官ではそうもいかない。気を使いすぎ、また使わせすぎて、息が詰まりそうになる。
あんな雰囲気は嫌いだ。
「大丈夫だよ、お姫様。きっと見つかる。無事でいるよ」
落ちこむ少女を元気づけるように、リファスは彼女の背中を軽くたたいた。二度。
励ますように。
がんばれ、と。
こんなふうに笑ってくれるのは、きっと珍しいことなんだろうな、などと頭の隅の方で考えながら、ディナティアは小さくうなずいて微笑んだ。
その背中に、優しい重みを感じながら。