ヴェイルの守護者
十ニ章
がしゃんがしゃんがしゃんがしゃん!!
何者の気配も感じられない空間。
自らの紡ぐもの以外は、なんの音とてない空間。
そこに、ディナティアは騒々しい音を奏でる。
『リファス』。
そう名乗った見知らぬ青年が届けてくれた、剣。術師オフィルが鍛えたというその剣をふるい、彼女は自分を拘束する鎖を断ち切ろうとしていた。
わからないことだらけで、不安ばかりで、なにをしたらいいのか、どうすればいいのか……まるでわからなかったけれど。
ここにいてはいけない。
それだけがはっきりしていた。
──タリア。
彼女を助けに行きたい。彼女を取り戻したい。そのためだけに自分はいる。
そう、そのためだけに──いるのだ。
だから、ふるう──けたたましく鎖が抗議の叫びをあげた。細身の剣身には酷な作業かとも思われたが、刃こぼれする様子もなく耐えてくれている。
いい仕事をするものだ、とディナティアは鍛えた青年を内心で誉めた。
強情な鎖……不自由なままの両手で剣を足枷の鎖に打ちつける。
「……このっ……!」
がつんっ!
力いっぱい突き刺したところで、鎖が断ち切れた。
足首に残る枷の部分は重いし、ちぎれた鎖がじゃらじゃらとうるさいし、踏みそうになってうっとうしいが、それでも動ける。
次は、手……!
足が自由になったことに励まされ、続いて両腕の拘束をも断とうとしたが、……つながれたままではいかんせん、こちらの方はうまくいきそうになかった。
ちっ、と思わず舌打ちが出る。
それでもまぁ、なんとかならないわけではない。鎖の長さの分は、動かすことができるのだから。
腕の不自由はあとでなんとか考えることにして、ディナティアは両腕で剣をかまえ直した。
狙うは、鉄格子の扉。自分をここに閉じ込める檻の──錠。
がんっ!
じんと手がしびれた。足の鎖を断ったときの比ではない衝撃がくる。
さすがになかなか固い……。
だが、だからといって。
「……ここに、いるわけには、いかないんだっ……!!」
体重を利用しながら、何度も何度も刃を打ちつける。
……開け、開け、開け、開け、開け、開け、開け、開け、開け、開け、開け──!
ぎしっ。
軋んだのは、錠だったか扉そのものだったか──とどめの一撃とばかりのディナティア渾身の一蹴りで、自由は転がりこんできた。
すでに震えが来ている両腕で剣をしっかりと握り直し、彼女は一つ大きく息をつく。
開いた…………!
自分にあるのは、この一振りの剣と。
タリア──!
この、想いだけ。
どこまで行けるかなんて知らない。けれど、彼女が待つと信じるから──彼女を失いたくないと、それが自分の真実だから。
一つ、深呼吸。
口元を引き締め、ディナティアは一歩、外へ踏み出した。
どこからか、いつかどこかで覚えのあるような、香りがしていた……。
………………………………?
感じた違和感に、彼女はふと眉をひそめた。
「なに…………?」
落としたつぶやきに、青年が顔を上げる。
「どうしたのです?」
いつもと同じ穏やかな問いかけ。やさしい眼差し。
いつもはそれで安心するはずなのに……なぜだか、最近の自分はおかしくて、昔のことなど全然覚えていないし、忘れるはずもないこともすっかり忘れてしまっていたりするのだけれど、だからどうしようもなく不安になったり居心地の悪さを感じたりしてしまったりすることなんて、しょっちゅうなのだけれど、それでも彼のそばにいると不思議に安心できたのに……今は、不安が消えない。
それがさらに不安をあおった。
わけのわからない、どきどき。
……これは、なに?
「こ、わ……い……」
意識が、薄くなる。違う、意識が、ではなかった。存在。自身という存在が。
信じられない思いで両手を見つめた。
存在している。実体はある。あるのに──わかってしまう……消えていく、自分。
なに? これはなに?
「──ディナティア様?」
声が、遠い。全身から力が失せていくような、感覚。
「どうかしたのですか?」
わからない。わからない。わからない。
なにが起こっているの? 自分になにが起こっているというのか。
「わ……たし、は……ディナ……ティ……」
声が。
声が思うように、出ない──!
泣きたい気分で、少女は自分の両手を見つめ続ける。──そう、彼女の様子は傍目にはそうとしか見えない。本人が感じている急速な実体の消失感など、他人にわかろうはずもなかった。現に彼女はそこにいるのだから。変わらず。
わたしはディナティア。わたしはディナティア。
──わたしは、ディナティアだ……!
何度も何度も自分で繰り返した。自分に言い聞かせた。でなければ……忘れてしまいそうだった。
どうして……!
自分の名前。自分のこと。どうしてこんなにも簡単に、忘れてしまう……?
自分になにが起こっているのだ……?
「忘れるのは……いや……」
わたしはディナティア。わたしはディナ…………わたし、は……。
「い……や、だ……いやだ、いやだいやだいやだぁっ!! !」
──そう叫ぶ自分を。
彼女はどこか遠くで聞いた気がした。
「──まさか」
崩れ落ちた少女の体を抱きとめ、青年はつぶやいた。
腕の中の少女。
突然苦しみだした理由も、耐えきれず意識を──意識だけですめばよいのだが、恐らくはそれ以上のものも──手放してしまった理由も、予想は可能だった。
可能性としては、頭に置いていた。けれど。
「…………最悪の事態ではない、か……」
まだ『彼女』はここにいる。
だから、一番恐れている事態にはなっているはずはない、のだが──。
ひどく、ひどく胸騒ぎがするのは、ごまかしようのない事実だった。
「オルフェ……」
腕の中に目を落とし、だが呼ぶのは別の名前。
そして思うのは……これもまた、別の人間だった──。