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Irreglar Mind

第1章 最低最悪のオカマ野郎 - 3 -

あああ、どちくしょーっ、降りそびれちまったじゃねーかっ。あのバス停からただでさえ遠い道のり、さらに輪をかけて遠くなる……。

ひたすら呆然としながら、だけど何とか無理やり落ち着いて……というよりも、自分を落ち着かせて、俺はくすくす笑っている隣の野郎をにらみつけた。

笑ってんじゃねーっ。

こいつは、俺がずっと女だと信じきっていたって分かって、爆笑したあとこうやってずっと、くすくす笑っている。

遠くなって行くバス停を呆然と見やった俺の様子がおかしかったのか、その笑いは全然やまなくて。

もとはといえば、てめーのせいじゃねーか。

だって、世の中にはキレイになりたくてもなれない女の子がゴマンといるんだぜ。その子達を差し置いて、男であるこいつがこんなにもキレイだってことはなにか許せない。

……それってなにか変な理屈かなって思うけど、やっぱり許せない。

認めたくないけど、ほんとにキレイなんだもん、こいつって。

男だってわかった、今でもさ。

ひとしきり笑った後、樹はその眼を上げて俺を見た。濃い茶の瞳にからかうような色を浮かべて。

「一緒に会場まで来る?あんたも女装、似合いそうだけどな」

瞬間、俺は胸にズキッと痛みが走るのを感じて、左手をぎゅっと握りしめた。

……女装が、似合う……?

なにか、いつか感じたみたいな、痛みだった。

女が女の格好すんの、女装っていうのか。女がわざわざそんなことして……そうまでしなきゃ、女って見てもらえないってことか?

すごく腹が立って、樹に手を上げる自分を止められなかった。

「ふざけんなっ!」

右手に感じた痛みも、俺に状況なんか思い出させてはくれなくて。

そこが、バスの中だってことなんか、忘れてた。人の目があるなんてこと、とっくに頭のどっかに消えちゃってた。

キレイな顔で、残酷な言葉を吐く樹。……傷つけてやりたかった。

樹は一瞬呆然としてたけど、ゆっくりと殴られた頬に手を当てると、すうっとその顔をこわばらせた。

ちょうどバスが止まったところで、彼は俺の手をすごく強い手でひっつかむと、引きずるようにしてバスを降りた。俺はつかまれた腕を振りほどこうともがいたけど、樹はその外見からは想像もできないような強い力でつかんでいて、離さなかった。

腹立ち紛れに舌打ちした瞬間、オカマ野郎がぱっと手を離して俺に向き直った。

こうやって立ってみると、やっぱ男だよな、身長、俺よりあんの。当然ウエストの位置も俺より上。

バスの中で座高がおかしいって思ったの、やっぱり気のせいじゃなかったんだ。

「いきなり殴りつけるなんて、大した度胸じゃないか。理由ぐらい教えろよ」

……やめろよ、その女の格好のまんま男言葉でしゃべんのはっ!

だって、どー見ても女にしか見えないんだよ、タッパありすぎるけどっ。

しかも、さっきまでは女の声にしか聞こえなかったハスキーな声は、今は男の声にしか聞こえないんだよ。

それで俺は一生懸命視線をそらして、樹の顔を見ないようにした。

見たらきっと笑っちまいそうで、怖かったんだ。

そんな俺の前で樹はちょっと息をついて、かつらを取った。

そう、かつらだったんだよ、頭っ!

まぁ、男であんなくそうっとうしい頭してるなんてやつはそうそういないけどさ……。

樹の本当の髪はすごく薄い色で、まるで金髪。色、抜いてるんだな。

ちょっとびっくりしてまじまじ見ちゃって、ふと視線を動かしたら、その下に樹の顔があったんだ。……当たり前だけど。

しまった、と思ったときは遅くて、俺は大爆笑し、腹を抱えてよろけた。

だって、似合わない、似合わなさすぎるっ!

髪型が変わった途端、女の子からは程遠くなって、化粧した男が女装して立ってるって図になっちまったわけ。しかも、手にはかつら持ってんだぜ、かつら!

これが笑わずにいられるかよ。

「お前なぁ……」

むっとしたように樹は言ったけど、俺は笑いを止められなかった。

それで彼は俺を横目でにらみ、腕の時計にちらりと眼を走らせて小さく舌打ちした。

「くそっ、間に合わない」

俺はやっと笑いをおさめて、自分の腕時計を見、顔を上げて……思わず息をのんだ。

だって、すごく鋭い目で、樹が俺を見てたんだ。

「…………悪かったよ」

ちょっと焦って俺は言った。

怒らせたら、怖そうだもんな、こいつ。

「それって何に謝ってんの?俺を殴ったこと?それとも、笑ったこと?」

そう聞かれて、俺ははっとした。

しまった……。そうだよ、俺、怒ってたんだ。こいつの顔、めちゃくちゃにしてやりたいとまで思ってたのに、なんで笑ってんだよ?

「笑ったことに対してだよ、決まってる」

答えた瞬間、樹は腕を伸ばして俺の胸元をつかみ、近くの壁に押し付けて、もう一方の手で俺の首元を覆った。

彼の手に力が込められて喉を圧迫し、息が苦しくなって俺はその手を引き剥がそうともがいた。

何すんだよ、放せ、バカヤロウッ!

すると彼は射すくめるように俺を見、切り込むように言ったのだった。

「俺に謝れよ、殴って悪かったって。そうしたら放してやる」

だから、そのかっこで男言葉使うな、暴力をふるうなっ!

おまけに言ってる言葉がキザなんだよ、やめろっ!

俺は苦しさに顔をしかめながら樹を睨み付けた。

人通りの多い大通りで、すっごく視線浴びてんのに何もできない自分が悔しくて。

こんなにむきになってる樹って野郎に当惑して。

何がなんだかわからなくて、気がついたらぼろぼろと涙がこぼれていて、自分でもびっくりした。

なんだ、これ……。

樹もぎょっとしたように目を瞠り、その腕から力を抜いて俺を解放した。

多分、思ってんだろーな、男のくせに情けない奴だって。

だけど俺だって泣きたくて泣いてるわけじゃねーよ、……でも、涙が止まんないんだ。

情けない……。

そんな思いをごまかすように荒い息をつきながら、俺は涙をぬぐった。

くっそ、周囲の視線が痛いぜ。

そうしたら、樹がふっと動いて、俺の前に立った。まるでかばうみたいに。

俺の顔が、周りに見えないように。

びっくりして彼を見たら、彼は顔をそらしたまま、ちょっと困ったような顔をして笑った。

「泣かせたお詫びだよ。恥をかかせちゃ、悪いもんな」

恥なら、もうずいぶん前からかかされまくっている気がしたけど、俺は黙ってた。

びっくりするくらいやさしい目を、樹がしてたから。

「殴って、ごめん」

うつむいて言う……顔を見たら、言えなくなりそうだったから。

だけど今を逃したらもう二度と謝れなくなりそうで……だから言った。

樹の言葉は確かに俺の胸をえぐったけど、俺の態度は彼の自尊心を傷つけたのかもしれない。

今の俺と、さっきバスの中で彼は、同じ思いをしたのかもしれない。

バスの中で殴られて、きっとすごく傷ついたんだ。だからあんなに怒った。俺に謝れって言った。

そう言いながらも……弁解のチャンスだって、ちゃんとくれたんだ。

なのに俺は……ただ、自分の傷だけしか見えていなくて。

今やっと気づいて、謝らなくちゃいけないと思った。

だって彼はかばってくれたんだぜ。俺だけ、逃げるってわけにはいかない。

それに彼は、俺を傷つけようとして言ったわけじゃない……ただ、俺が女だってこと、見抜けなかっただけなんだから。

「ごめん……」

うつむいたら、目からぱたぱたと涙が落ちて、地面に黒い点を作った。

「もういいよ」

言って、苦笑する気配がした。それからまた、腕をつかまれる。

だけど今度はさっきみたいに乱暴なやりかたじゃなかった。

「少し、歩こう」

周囲に遠巻きにできはじめていた人だかりから離れることを促す提案に、俺に否やがあるわけもなかった。