Irreglar Mind
第10章 本音と建前 - 1 -
俺の望みって何か。
それって……結局俺だって幸せになりたいってこと。
じゃあ、俺の幸せって何か。
決まってる、高江が幸せであることだ。
樹に聞いたところでは、高江はまだ紗夜さんの気持ちを知らないらしい。
ということは3月いっぱいで日本を去る予定の彼女と高江が心を通じ合わせるための時間は、とても残り少ないってことだ。
もしこのまま二人がお互いに本音を出さずにいたら、まずいことになってしまう。
高江が幸せになってくれなきゃ、俺も幸せになれない。
このあたりの俺の発想は、彰子には理解できないらしく、
「全然わかってないじゃない……」
なんて呆れられたというか怒られたというか……。
でも。
俺はやっぱり高江に幸せでいてほしかった。
そのために紗夜さんには彼の隣りで笑っててほしかった。
想像するだけで心臓が痛くなるほどの嫉妬を覚えるのだけど、それでも高江がそう望むなら、俺は我慢する。
だから、俺は紗夜さんに会うことにした。
会って、彼女を説得するんだ。
高江に本音を告げろって。
高江は言ってた、大切な人の幸せを守ることが、自分の幸せだって。
なら、紗夜さんの幸せを守ればいいんだ。
紗夜さんだって、高江への想いを秘めつづけるのは辛いはずだ。
要するに二人が互いへの想いを告白することは、両方にとっての幸せなんだ。
だから俺は応援しよう。
高江が幸せになることを、祈りながら……。
「無理よ……できないわ、そんなこと……」
俺から話を聞いた紗夜さんは、やっぱり思った通りの反応をした。
本気で困っているのがわかる……眉根が寄ってるから。
紗夜さんは右手を口元に当てながら、こちらをじっと見ていた。そのまっすぐなまなざしに、俺は少々居心地が悪いような思いをする。
なんて澄んだ目で俺を見るんだろう。
こんな目をしている人だから……だからきっと、願うんだろう。
誰も傷つけなくないって。
本心からそう願って、そうして樹を拒み、高江への思いをひた隠して。
優しい、人なんだな。
だけど今回ばかりはそうもいかない。
紗夜さんの心一つで、高江が幸せになれるかどうかが決まるんだから。
いつまでもあきらめられずにくすぶっているより、紗夜さんが高江とくっついてしまうのを見て、すぱっとあきらめる方が俺にとってもいいに決まってる。
まぁ、すぱっとあきらめられるかどうかはわからないけど……努力は、するさ。
「どうして?高江のこと、好きなんでしょう?樹に遠慮なんてすることない……あいつは、そんなにヤワじゃない」
俺の口調はすごくとげとげしくて、自分でもびっくりするほどだった。
とはいえ、それをしょうがないって思う自分もいて。
だって、好きな男の恋の橋渡し、頼まれてもいないのに勝手に買って出てんだもん。馬鹿だよ、俺……。
なんでだろうな、自分でも変だとは思うけど、それでもやっぱり高江には「本物」をつかんでほしいから、かな。
俺とつきあったことがあいつにとって「偽物」だったなら、あいつの「本物」って紗夜さん以外にいないじゃん?
イミテーションの出る幕なんて、ないんだよ。
だから……せめて、これくらい、させてほしい。
「でも……じゃあ、あなたはどうなるの?瑠希さん、あなたは?あなた、弓也とつきあっているんじゃないの?」
……弓也。
ああ、そうか。それって高江の名前だ。
紗夜さんはあいつのこと、名前で呼べるんだ。呼び捨てにできるんだ。
俺には、きっと一生できないな。
だってあいつ、俺のこと名前で呼んだことないんだぜ。
瑠希ってのはもってのほか、白山って姓さえ呼ばれたことない。
お前、とか、おい、とか、そういうのばっかり。
今までは全然気にしてなかったけど、なんだか今はこの差が痛いな。
胸に、痛いよ。
「樹の次は俺?それこそくだらない。あいつが俺を好きだなんて、本気で思ってるんですか?だったら、あなたは大馬鹿だ」
俺はことさら嫌味な口調でそう言った。
挑発に乗ってくれたらいいと思ったんだ。
かっとして、感情のままに突っ走ってくれたら。
そう、期待して。
「大馬鹿でも結構よ。私は弓也が好きなのはあなただと思っていたわ。あの人は、好きでもない相手とつきあったりしないわよ。私、樹からあなたたちは恋人同士だって聞かされたとき、びっくりしたけれど、納得できたもの。あなたがこの家で倒れたとき、弓也はすごく心配そうだった。なんとも思っていなければ、あんなふうに取り乱したり、しないわ」
だけど紗夜さんは怒るどころか、そんなことを言って俺をなだめだしたんだ。
違うんだよ、紗夜さん。そんなの誤解だ。
恋人同士?
たしかに俺たちは2ヵ月ほどつきあってたけど、その言葉はまるきりあてはまらない。
男友達の延長線上のつきあいでしかないんだから。
それに、そのつきあいだってそもそも、恋愛感情から始まったわけじゃない、俺が楽になりたくて頼んだことだ。
紗夜さんが考えてるのとは、全然違う。
「俺と高江はとっくに別れてる。あなたが気にすることなんて、なんにもない」
話すことも、視線を交わすことさえも、ない。
あいつにとって俺はもう、友人でもなんでもない、関係ない人間なんだ。
4ヵ月前に知り合った、あの時以前と同じ、単なる隣りのクラスの奴。それだけの存在。
名前くらいは知っている……ただ、それだけの。
「別れた……の?」
紗夜さんは驚いて目を丸くし、そうつぶやいた。
ああ、この反応ならいけるかもしれないな。押して押して押しまくれば、高江に想いを告げるって、首を縦に振ってくれるかも。
そう思って俺はさらに口を開いた。
「あいつに言わせれば、俺とのつきあいは単なる「偽物」でしかなかったんだ。だって俺、最初からあいつが好きだったわけじゃないし……高江を、利用しただけだったしね。そういうの、つきあってるなんて言わないでしょう?」
高江が言ったことがある。
俺は恋をしたら突っ走ってブレーキがきかないって。
それはある意味正解で、ある意味間違いだ。
前だったら、全面的に正解だったのかもしれないけど……高江、お前と会って、俺は多分変わったんだと思う。
樹を好きだって思った「想い」と高江に感じた「想い」。
どっちも嘘じゃないけど、全然違うんだ。
樹の時は、独占したくてしょうがなかった。
彼がたとえ幸せでなくても、それでも自分のそばにいてほしいと願った。
だけど、今は違う。
高江が幸せなら、紗夜さんが隣りにいても……俺は、きっと笑える。
二人ともに恋をして、なのにどうしてこんなに違うんだろう。
俺は二度と恋なんかしないなんて言ったのに、二人も人を好きになった。
もう恋なんかしない、誰も好きにならない。
……そんな思いを、二人が消した。
ずっと引きずってた過去を、思い出にしてくれた。
今は、高江に対する気持ちを忘れられそうになくて、他の人を好きになるなんて考えもつかないけど……だけど、いつか。俺はまた恋をするんだろうか。
そんな想像はつかないけど……でも、自分で自分を縛ることは、もうしないよ。
だって。
高江を好きになって、よかったって思うから。
二度と恋なんかしないって、そう心に鎧着せたままじゃ、そんなことなかったはずだからさ。
「でも、それでもあなたは、弓也が好きなんでしょう?」
困り果てた顔で、紗夜さんはそんなことを尋ねた。
そのとき俺は、彰子の気持ちがなんとなくわかったような気がした。
そうだよな。幸せってほんとに自分でつかまなくちゃいけないよな。こんなふうに……人のことばっかり考えてちゃ、駄目だ。
お人よしっていえばまだ聞こえはいいけど、俺に言わせれば単なる馬鹿だ、紗夜さんは。
だって、こんなのってひどいじゃないか。
俺の気持ちなんてこの際関係ないのに。
俺がいくら高江を好きでも、だからって高江と紗夜さんが両想いであるって事実は全然変わらないんだから。
「それって俺を馬鹿にしてるんですか。それとも高江を?俺があいつを好きだから、だからなんだって言うんです……あなただって俺と同じ気持ちで、選ぶのは高江なんだ。すでにふられてる俺に、これ以上どうしろって言う気ですか」
一言言うたびに、紗夜さんと高江の距離がどんどん縮まっていく気がして、いたたまれなかった。
心臓の音が耳元で響いて、全然落ち着かない。
本当は言いたかった。叫びたかった。
いまさら高江を好きだなんて言わないでくれ。
そっとしておいてくれたら、俺は高江と別れなくてすんだ。
自分の気持ちを自覚するのはもっと遅かったかもしれないけど、あいつはずっとそばにいてくれたんだ。
あなたが、俺からあいつを取り上げたんだ……。
……本当は、そう言いたかった。
気を遣うくらいなら、高江が好きだなんて一生言わなきゃよかったんだ。
ずっと黙っててくれればよかった。
自分の気持ちまで、だましとおしてほしかった。
無理な事だってわかってる、すごくひどい言葉だって。
だから、口にはしない。
できる資格が、俺にはない。
だって俺も同じことをしたから。樹のことを忘れると言いながら、頼った高江を裏切った。
あの時の気持ちを知っているから……言えない。
でも、それでも思っちまう。
自分のしてることと正反対のことを、心は望んでる。
言うなって。
高江に好きだなんて、言わないでほしいって。
高江には幸せになってほしいのに、なのに俺の心は矛盾だらけで、むちゃくちゃで、どうしようもない……。
「建前なんか、いらないから。あなたの本音を、高江に言ってやってください……お願いします。俺は、誰も傷つかない恋なんてないと思う。だからせめて……無駄に傷つけないでください。あなたの高江を想う気持ちが本物なら」
高江の想いがかなうなら。
俺はそれを自分の幸せにするから。
そうじゃなくても、そうするから。
「俺は、あいつが本心から笑うところを見てみたい」
あの綺麗な顔に満面の笑み。
一度見たらきっと忘れられないだろう。
それを、俺は見てみたい。
あいつの、幸せの証として。
俺の言葉のあと、数瞬の沈黙があった。それを破ったのは、紗夜さんの言葉。
「私のしていることが、無駄に傷つけているというなら……そんなのは、いやだから」
紗夜さんの言葉に、心臓がどきんと大きな音を立てる。
望んだはずの言葉だ……俺が自分で、そう仕向けたんだ。
「弓也にこの気持ちを、伝えます。……それで、いい?」
覚悟はできていたはずなのに、一瞬顔がゆがんだ。
それでも、言う。
「ありがとう、ございます」
心臓の脈打つ音が、はっきりと聞こえる。
みぞおちの奥の塊が動いてる。
これで、いい。
ゆがんだ顔を無理やり動かして、俺は微笑んだ。
これで、いいんだ……。