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籠の中の楽園

第一章

「イルカ、入るよー?」

がちゃがちゃと賑やかな音を立てながら、まだ返事もしていないというのに部屋の扉を容赦なく蹴り開けられ、イルカは一瞬立ち竦んだ。ちょうど着替えの最中だったため、被ろうとしていた上着を腕にひっかけた、中途半端な格好で固まる羽目になる。

「……っ、おっとー」

入ってきた赤毛そばかすの声の主はぱちくりと瞬くと、くるりと回れ右をした。うるさかったのはどうやら、その手にある盆の中身らしい。

「着替え中とは知らず、こりゃ失礼」

軽い口調で言うその背中を睨みつける。

「 " りごう " 、追い出しちゃって」

彼女が口にした瞬間、赤毛の背中がずずいと押された。目には見えない何者かに、ずんずんと押されて扉の外へと押し出されてゆく。それを横目で見ながらイルカは手早く着替えをすませた。赤毛がわめく。

「あ、ひでぇ。見てないって。見てませんってば。 " りごう " 、お前が俺のこと嫌いなのは知ってっけどさ、せっかくお茶しようと思って用意してきたんだぜ?すげなく追い返すなんて可哀想とか思わん?思うだろ?な?なっ?」

必死に踏みとどまろうと足を踏ん張る様子に、イルカは固く引き締めた相好を崩した。

「もういいよ、 " りごう " 。一緒にお茶しよう」

その言葉に少年の背にかけられていた圧力は消え、抵抗しようとあがいていた彼は力余って体勢を崩しかけて慌てた。わっ、という声をあげながらかろうじてあたふたしたあげく、ようやくのことで盆の中身の無事を確保し、振り返ってイルカを恨めしげな目で見る。その視線に対し、イルカは肩をすくめることで応えた。

「ハノイがいけないんだよ。入る前にノックしてって言ってるじゃん、いっつも?」

「それを言うならイルカだって、鍵くらいかけとこうよ」

反論され、最近どこかで聞いた内容だな、とイルカは顔をしかめた。

「ハノイまでルーチアみたいなこと言わないでよ。鍵がかかってないからって、無断で入ってくることないでしょ」

口を尖らせるイルカに、ハノイは笑う。明るくて穏やかな性格の彼は、一番仲のいい友達だった。イルカより一つ年上だが、ワーラカに来たのはイルカの方がニ年早い。彼女が五歳、ハノイが六歳の時に知り合って、以降変わらぬ友情を保っている。

幼い頃の延長だとイルカは思っているが、近頃周囲の目が二人をそう見なくなってきていることに、気づいていないわけではなかった。十六と十七。そういう話があってもおかしくはない。そんな常識に自分たちをはめてほしくないと願ったところで、人が噂するのを止めることなどできなしないと……それはわかっていたけれど。

だからこそ、今までと変わらずこうして訪ねてくれるハノイに感謝し安堵する反面、先ほどのようなことがあるとどうしていいのかわからなくなる。彼は全然気にしてないように見えるけれど、本当はどうなのだろうか。もし本当になんとも思われなかったとすれば、それはそれで複雑なのが、乙女心というものであった。

「だって。昔からずっとこうじゃないか。いきなり変えろって言われたって無理だよ。まぁ、次からは気をつけるからさ」

ハノイの言うことはもっともだ。小さな頃からイルカには部屋に鍵をかける習慣がない。むしろ、かけないことが習慣だった。

なにか息苦しい。

言葉ではどう説明していいかわからない重圧感が、そこにある。だから鍵をかけられない。不用心だと、周囲には口を酸っぱくして注意されるのだが、それでもどうしてもかける気になれないのだ。

それを知っているルーチアやハノイは、ノックするのが面倒だというように、前触れもなくやってきてはイルカを驚かせる。鍵がかかっていないことを知っているのはまだ他に数人いるが、わかっているからといってノックすらもしようとしないのはこの二人くらいのものだ。

ごく最近までは、それも特に気にならなかった。驚かされることも多々あったが、それでも全然かまわなかったのだ。けれど。

「ほんとに……気をつけてよ」

念を押しながら、イルカは視線を落とす。

怖いだなんて、言えない。

得体の知れない、何か。それが扉の向こうから不意に訪れて自分に変化をもたらしそうだなんて、そんなこと。子供じゃないんだから。

わかったから、と笑いながらハノイが持ってきた盆を机の上に置き、ティーポットからお茶を注いだ。鼻孔をくすぐる香りにイルカは首をかしげる。

「なにか……すごく珍しい香りじゃない?」

尋ねるとハノイは嬉しそうに顔をほころばせた。そうだろ?と得意げになる。

「昨日、 " 市 " が立ってさ。イルカが喜ぶんじゃないかと思って、いろいろ買ってきたんだ」

ワーラカの生活指針は、自給自足、である。が、稀に「外」の商人が集まり、ワーラカの入り口で売買をすることがある。それを「市」と呼んだ。「市」は予告されることもあれば、今回のように突発的に行なわれる場合もある。ワーラカでは滅多にお目にかかれないような珍しい品々が多いので、イルカも楽しみにしていた。

「誘ってくれればよかったのに……」

自分も行きたかった、と拗ねる様子を見せた少女に、ハノイは困ったような顔で笑う。

「いや、一応誘いには来たんだぜ?けど、近くでルーチアに会って、今は取り込み中だからやめてくれって言われちゃって」

あのやろー、とイルカは小さく呟いた。大方、イルカに指輪の出所をさくっと突き止めさせようという魂胆だったのだろうが、一言の断りもなくそんなことをしなくてもいいのに。

険しくなったイルカの表情に不穏なものを感じたのか、ハノイが空気を変えるように明るい声を出した。新しい菓子の箱を開け、勧める。

「ま、とりあえず食おうよ。俺もまだ食べてないから楽しみなんだよ」

差し出された箱を見やり、イルカは苦笑する。せっかく気をつかってくれたのに、自分が不機嫌な顔ばかりしていては、ハノイに申し訳ない。

「ありがと」

そうして綺麗に収まった列の中から一枚……整った形に焼き上げられた菓子を手に取った、その瞬間。

びくり、と背筋が震えるのを感じた。

何……?

感じたのは、悪寒。そうして……あの、気配。指輪。

咄嗟に振り返る視線の先には、窓。窓の向こう……広く美しく枝を張った、果樹の……。

かすかな唸り声が、イルカの足元から上がる。 " りごう " だ。イルカの霊獣。普段は姿を見せずに傍にいるが、今はその大きな身体を現し、主人と同じ方向を睨んでいた。

大きな犬のような外見。イルカもハノイも…… " りごう " 自身も知らないことだが、それは東洋と称される世界で「獅子」と呼ばれる生き物によく似ている。

ぐるる、とくぐもった音がその喉から発されていた。霊獣は普段、姿を見せない。それは " りごう " に限らず、霊獣と呼ばれるもののほとんどに当てはまることだった。彼らは主人を愛し従い守るが、同じ世界に生きようとはしないのである。彼らが姿を見せるのは、主人が求めた時か、あるいは自らがそう判断した時。必要である、と──そう、たとえば。

主人に害なすモノがそばにいる時───。

ハノイが立ち上がった。イルカを背に隠すようにして窓へ寄ろうとする。その機先を制し、イルカは窓へ駆け寄った。塞がれた空間の苦手なイルカの部屋は、彼女が在室中は窓も常に開け放たれている。

「イルカ、戻って!」

引き戻そうと伸ばされたハノイの腕を振り払い、イルカは半身を乗り出すようにして窓の向こうを見つめた。白い花をつける大きな果樹。その枝先のいくつかはイルカの部屋の窓を掠めるほどに伸びている。その、向こう。中心部。そこから感じた、気配。

誰……?

強烈な存在感。強い、視線。誰かが、いた。

それはほんの一瞬の……本当にわずかな、邂逅。すれ違いざま、視線と視線が絡んだだけの。

はっとした時にはすでに遅く、緑の向こう、風に揺れて───今はもう、いない。 " りごう " の唸り声も止んでいた。

「イルカ?」

ハノイのためらいがちな声がイルカを現実に引き戻す。幻でも見たような呆然とした顔で振り返り、彼女は尋ねた。縋るように。

「あれは、なに……?」

あの人は、誰……?

すでに過ぎたはずの背筋の悪寒は、けれど今もなお震えがくるほどに生々しい感触を残している。それをもたらしたのは、あの人。あの視線。いったい、何者なのか。

けれど答えを求めた幼馴染みは、困ったように首を横に振るだけだった。

血の気の失せた顔で立ち尽くす主人の足元にすり、と擦り寄って、 " りごう " が一声、くぅんと鳴いた。