籠の中の楽園
第一章
三
その夜、イルカはなかなか寝つけなかった。
ワーラカの夜は極めて穏やかだ。喧騒とは無縁の、静かに闇に沈んだ世界。酔っ払いの声も聞こえなければ、闇を裂くかのような眩い光が差し込んだりもしない。絶えず聞こえる「ザワザワしたような感じの音」もなかった。
イルカは外の世界を知らない。知らない、はずだ。けれど時折、感じることがある……ここは " 特別 " なのだ、と。
言葉にするには難しい、その変な感じが……違和感が、どこから来るのか。それもイルカにはわからない。けれどそれは物心ついたときからずっと、心の底に形のないモヤモヤとして存在していた。
「ワーラカ」。
イルカのいる場所。
そうして、イルカの同朋の集う場所。
人は人から生まれ、人を生む。知識として知ってはいたが、イルカの周りには親のない子が多い。いや、ワーラカに籍を置く者のの半数以上には、親がいない。
イルカもまた、親がない。
選ばれた者に親は必要ないのだと……だからお前たちは一人なのだと、オルノアは言った。もう、ずいぶんと前のことだ。親のいる子と喧嘩して、
「血の繋がった家族もいないくせに」
そう、言われた時に。
何を言われたのか、よくわからなかった。血の繋がりなんて言葉は耳になじまなかったし、なぜそれを誇られねばならないのか、それもわからなかった。けれどそれでも確実に、その言葉はイルカの胸をえぐったのだ。
泣いて駆け込み、なぜ自分には親がいないのか、家族がいないのかと訴えたイルカに、オルノアはやさしく微笑んで答えた。
「泣く必要はない、イルカ。なぜならお前は " 特別 " なのだからね。彼はそれがうらやましかったんだよ。だからそんな意地悪を言うのさ」
と。
「 " 特別 " ?」
イルカは首を傾げた。それは普通とは違う、ということだ。では、自分は普通ではないということなのか。だから、いじめられる……?
不安そうな面持ちに、オルノアはいやいや、と首を振る。
「そうではない、イルカ。人には皆、それぞれの役割がある。それは生まれつき与えられたものだ。けれども多くの人は、その役割を自分で果たしきることができないのさ。だから親や家族を頼る。けれども、イルカは違うだろう?誰かに頼らなくても、ちゃんとやれるだろう?だから特別だと言ったんだよ」
声は優しくて、抱きしめる腕はあたたかで。
だからイルカは安心した。信じた。
「それでももし不安ならば、ね。そのときは、わたしを親だと思うがいい。それならば寂しくはないだろう?」
オルノアのその言葉に、うなずいたのだ。
けれど……。
ごろん、と寝返りをうって、彼女は息をつく。
なぜ、眠れない。
心に巣くう不安とも……不信ともつかぬ闇のような思いが、日ごとに大きくなる。まるで得体の知れない化け物を内に飼っているようでイルカは怖かった。
そうして……その化け物は、イルカが望むと望まざるとに関わらず、育つ。育ってゆく。だから、眠れない。
最初は気づかなかった。そんなものが自分の中にあることに。それはただの夢、だったのだ。
夢の中で、イルカは幼子だった。そうして、誰かの腕に抱かれていた。優しい、優しい声で「イルカ」と呼ぶ誰かに。
オルノアではない。……彼はこんな呼び方は、しないから。こんな、泣きたくなるような……切ない呼び方は。第一、声は女のものだった。
「忘れてはだめ」
夢の中、彼女は繰り返す。何度も、何度も。その言葉だけを。
何を?何を忘れるなというのだろう。
そんなふうに請われる何かを忘れた覚えはない。そもそも、そんな出来事があった覚えも、ない。けれども。
脳裏に焼き付いて離れないその声、言葉。
思い出すたびに胸のどこかが痛む気がする。そうして、そのたびに何かが育つ。それは昔むかしから自分の中にあったもの。隠されていた、なにか。
形のない違和感として漂っていたもの……それが、形を成そうとしてうごめいている。
見てはいけない。知っては、いけない。
なぜか、そう思った。だから気づかないふりをしている。自分の中にありながら、けれどそれは自分のものではない。そういうことにした。
それでも無視できないほどにそれが大きくなってきたのは最近のこと……爆発的に大きくなったのは、もっと最近の、こと。
アレを拾ってからだ。
それは偶然に手に入れたものだった。ルーチアと二人で、見つけた。そして二人ともが、奇妙に感じた。正体不明の違和感を、それが持っていたから。
よからぬものではないか、と勘繰ったのはルーチアだ。オルノアに報告すべきではないか、と。
この世界には、ワーラカに敵対するものがたくさんあるという。見たことはないが、聞いて知っていた。それがどんな形を持つのか、どんな性質のものなのか……それはわからなかったけれど。
ワーラカの住人は、 " 特別 " だ。では、そうでないものはどこに行くのか。
「外」が彼らの世界だ。幼い頃イルカに傷を作ったあの子供も、やがてワーラカから消えた。「外」へ行ったのだ。
そうしてワーラカは選ばれなかった者を排除する。それは選ばれなかったがゆえの宿命だ……と、イルカなどは思う。思うが、排除された側はそれを受け入れられない場合もあるのだ、と聞いた。そういう者たちは、だからワーラカに敵愾心を持つのだ、と。
そうしてそういう輩は時折、分不相応にもワーラカへの侵入を試みる。彼らには許されないことであるにも関わらず。
もちろん、普通の人である彼らにそんなことは可能であろうはずがなかった……その、はずだった。それでも成功する者は、確かにいるのだ。
道具。
不可侵のこの場所への侵入を可能にする、道具がある。そのための力を与えられたモノがある。
拾った指輪は、それではないのかと……ルーチアはそう言った。
けれど。
イルカは頷かなかった。否、頷け、なかった。
指輪に感じた正体不明の違和感……それを、知っていたから。
自分の中に巣くう化け物と同じ感じ──指輪に感じたのは、まさしくそれであったから。
ルーチアの不審げなまなざしを知らぬわけではない。オルノアに隠していることに後ろめたさを感じないわけではない。だが。
この違和感の正体は何なのか──。
知りたい気持ちと知りたくない気持ちがないまぜになって、イルカの中で荒れている。
──これは、何。
問う、自分。
──忘れてしまえ。
囁く、自分。
それは警告のようにも思えた。だが、だとしたら一体何に対する警告なのか。
わからないから、イルカは悩む。悶々とする。無視しようにもできないほどに、それは育ちすぎていた。