籠の中の楽園
第一章
一
かざしていた手をおろし、少女はふぅ、と息を吐き出した。深い翡翠色の瞳を開いた瞬間、吐息とともに額に汗が噴き出す。それを手の甲で拭いながら今一度目の前の「モノ」を見つめた。
「どうなの?」
凝視を断ち切るかのように、後ろから声がかけられたのはそのときのこと……。む、と眉根を寄せ、少女は振り返る。ノックもなく開け放たれた扉の向こう、腕組みをしながらこちらを見ている声の主に、知らず、眉間の皺が深くなった。
「入る前にノックくらいしてよ。何度も言ってるでしょ?」
尖った声で告げると、相手は軽く肩を竦める。その動きに合わせて黒い長髪が馬鹿にしたようにうねるのを、少女は見逃さなかった。自然の動きではない。はっきりと意図を持って黒髪は揺れた。見間違いではなく。
「ルーチア!!」
非難の声にルーチアはもう一度肩を竦め、部屋に入った。
「ならば、イルカ。あなたはわたしに要求を突きつけるより先に、鍵をかける努力をしたほうがいいんじゃなくって?」
紫水晶によく似た輝きを放つ瞳をひた、と当て、ルーチアはそう言う。まるで悪びれない様子に少女……イルカは歯噛みせずにいられない。どうしてこう、ルーチアという人間は人の神経をここまで見事に逆撫でしてくれるのだろう。いつもいつもいつも、この調子だ。彼女と組むようになって三年、よく神経が持っているものだと、感激すら……そう、悔しいかなそれほどに彼女とはウマが合わない。
「だから!そういう問題じゃないって……。鍵がかかっていようがいまいが、人の部屋に無断で踏み込んだらそれは不法侵入なの!!」
憤るイルカとは裏腹に、ルーチアの態度は冷静そのものだ。断りもなくイルカの向かい側の席に腰を下ろし、「モノ」をしげしげと見つめている。イルカの言葉は間違いなく耳に入っているくせにどこ吹く風といった様子の彼女に、短気なイルカは爆発した。
「ルーチアっっ!!!」
ばんっ、と机を両手で叩きながら立ち上がり、大音声を張り上げる。けれど対するルーチアは、といえば、小さく眉をしかめただけだった。
「怒鳴らなくても聞こえてるって、何度も何度も言ってきたはずだけど?あなたの覚えが悪いのは今に始まったことじゃないけれど、いい加減、迷惑という言葉を知ったほうがよいのではなくて?」
うねうね、うねうね。
ルーチアの言葉に同調するように、彼女の黒髪が、踊る。
「なっ……」
どの口がそれを言うのか。呆れ果てて咄嗟には言葉のないイルカに、ルーチアはさらに言葉を重ねた。
「それに鍵がかかっていようがいまいがって、あなた、入ってきたのが盗賊でもそんなこと言えるわけ?自分の領域を侵すなと胸を張って言いたければ、それ相応のことは自分でなさいな」
大体、不法侵入もなにも、「ワーラカ」は治外法権だし……。
相手の耳に入ることは意図しなかったのか、最後のつぶやきは小さく、けれどしっかりと聞いてしまったものだから、イルカは思わず口を尖らせた。否、尖らせるしか、なかった。口の達者なこの少女に、実はイルカは勝てた試しがない。非常に不本意ながら。そうしてそれは今このときもまた、破られることがなかったと、それを知ったがゆえの諦めと……行き場のない不満の現われとして、彼女は腰をおろし、そうして口を尖らせたのだった。
それを不毛な言い争いの終止符と受け取ったのか、ルーチアは何事もなかったかのように「モノ」に向き直る。
「で?こっちは、どうだったの?」
他のことには興味はない、と言わんばかりの態度。口を尖らせたままイルカはぼそぼそと答える。
「ただの『ゴミ』。そいつ自体にはなんの害も、力もないよ」
ふぅん、とルーチアは笑った。
「そいつ自体には、ね……。珍しく持って回った言い方をするじゃない。ずいぶんとてこずっていたようだけど、それと関係あるの?」
その手のひらに「モノ」──鈍く銀色に光る指輪を乗せて、ルーチアは紫水晶の瞳を細める。
「なんの刻印もない、なんの変哲もない、どこにでも転がっていそうな指輪……。けれど……この覚えのある残り香は……」
「残り香なんて、ないよ」
言い切ったイルカに、ルーチアが顔を上げる。淡々と、イルカは続けた。
「ないの、残り香なんて。あるように感じられるだけ。……そのことのほうが、問題なんだけどね……」
ふぅ、と息をついた。先ほどまでのあまり精神衛生によろしくない緊張を思い出し、知らずついたため息だった。そんな少女の様子に気づき、ルーチアが戸惑うような表情を見せる。彼女にしては珍しいことだ。
「イルカ?」
いったい何を隠しているのかと、そう尋ねる彼女の瞳から目を逸らし、イルカは首を振った。横に。なんでもない、と。
「だから、思い違い。そいつは『媒介』なんかじゃないよ」
言いながら立ち上がり、ルーチアの手のひらから指輪をひったくる。
「これはわたしからオルノア様に渡しておくから、ルーチアは心配しないで。……他にも仕事は山積みなんだし」
釈然としない様子の少女に内心で舌打ちしつつ、イルカは重ねて告げた。
「これからオルノア様に呼ばれてるから、着替えなきゃ。悪いけど、またね」
露骨に出て行くように促し、扉を示した。物問いたげなルーチアの視線には気づかぬ振りを通して。
「……ならば、それは預けるけれど……イルカ、くれぐれも勝手な真似は……」
「大丈夫だってば。勝手な真似ってなにさ。たまには信用しなよ」
紫水晶の瞳と翡翠の瞳が探るように見つめあい、別れる。諦めたようにルーチアは息をつき、部屋を後にした。
少女が消えてからしばし。息を詰めるようにルーチアの消えた扉を見つめていたイルカは、ようやく長い息を吐き出す。そうして。
自らの手の中にある指輪を、見つめた。
「さぁて……どうしたもんかしらね……」
心底困ったようにつぶやいて……彼女は、天井を仰いだのだった。