籠の中の楽園
あの時、あの人が振り向かなければ。
きっと未来は違ったものになっていただろうと思う。
けれど、出逢ってしまったから。
だから走り出した。
己の道を、己の足で。
プロローグ
リーンゴーン……
鐘の奏でる音を遠くに聞きながら、フィースは暗い視線を落とした。まだわけもわからずにぽかんとしている妹の肩を、ぎゅっとにぎりしめながら。
周囲の大人たちの様子がただならぬことに気づいているのかいないのか、先月三歳の誕生日を迎えたばかりのイルカはひたすらにきょとんとした顔で、姉を見上げている。そこに宿る絶対の信頼に、フィースは心が痛かった。それが無垢であるからこそ、彼女は辛かった。いっそ憎んでくれれば。恨んでくれれば。……そう、願う。けれど三歳の幼児にそれを求めたとて、無理なこと。そんな分別のある年齢であれば……そう、せめて状況を理解できるほどに成長していたならば。
まだ他に道はあったのに。
浮かんだ思いをかぶりを振って打ち消す。それこそ、考えても詮無いことだ。
けれど。とはいえ。
このまっすぐに向けられる眼差しを裏切るのかと思うと、身を切られるように辛い。痛い。
自分の感情に負けないように、だからフィースは前を向いた。落とした視線を無理矢理上げて……妹から目を逸らしたのだった。
「ねーね?」
舌ったらずな声が甘えるように自分を呼ぶのを、視線も向けずに頭を撫でることでやり過ごす。早く。
早く来て……。
望みとは裏腹の、けれど心底切実な、願い。イルカを攫っていく腕を焦がれるように待ち望む自分を呪いながらフィースは待った。
やがて、時は訪れる。
「待たせたね」
低いがやわらかい声を持つその人は、軽やかに空を翔ける白馬の引く馬車で現われた。馬車は空中に留まったままで停止し、彼はそこからふわりと、ほとんど音もたてずに二人の前に降り立ったのだった。
「この子がイルカかい?」
膝を折り、幼子と視線の高さを合わせて彼は尋ねた。きょとんとするイルカにやわらかに微笑みかける。
その様子を見ながら、フィースは硬い動作で頷いた。途方もなく、緊張している自分を感じる。できることならいますぐに背中を向けて走り去りたかった。この場から。
優しげで柔らかな物腰のこの人物の評判は、けれどそれだけではないことをフィースは噂でよくよく知っていたし……それに、なにより。
実際にこうして対面していると、ひしひしと感じるのだ。彼から発せられる並々ならぬ「気」というものを。それはあるいは、「オーラ」と呼ぶべきものなのかもしれなかったが、その類の力にはとんと縁のないフィースには漠然とした感覚でしかなかった。
それでも、わかるのだ。彼が持つであろうなんらかの影響力を、本能が悟っている。
「よろしく、お願いします……」
かすかに震えながら、イルカの肩をそっと、押した。二度とやり直しのきかない選択に、一歩、踏み出した。
にこり。なんの含みも持たないと見える笑顔で彼が返す。
「大切に、お預かりするよ」
そうして、抱き上げる。フィースの大切な、大事な、妹を。その腕に。
「イルカ……!!」
咄嗟に呼びかけが口をついた。行ってはいけない。行かせてはいけない。そう全身が警告を放っている。
「ねーね」
あどけない声が応えた。見知らぬ男の腕の中にあってもなお、幼子は無邪気に笑っている。これから起ころうとすることも知らずに。
ふわり、イルカを抱いた男の体が宙に浮かんだ。そのまま主人の帰りを待つ馬車へと高度を増す。縋るような視線を向けるフィースを一顧だにすることもなく。
「イルカ……!!」
自分が選んだ道だ。自分が決めたのだ。そうして、他に道はなかった。けれど……フィースは叫ばずにいられない。願わずにいられない。
「忘れてはだめ」
馬車の中に姿を消す男に、否、その腕の中の幼子に、振り絞るように、言葉を向ける。
「忘れてはだめよ……」
忘れないで、ではなく。今はもう支えを失ってしまった両手を握り締めて、請うた。血を分けた妹。たった今自らが手放した幼子へ。
その祈りが聞き届けられたかどうかを……彼女は知らない。