君思う蒼の雪の夜深く
1
ふぅ。
こぼれたため息に気づいたのは、それによって水面がゆらりと波紋を引き起こしたからだった。でなければ自分がため息をついたことになんて、気づいていない。
ナイグァスは、ちゃぷちゃぷと音を立ててかすかに揺れる水槽を覗き込んだまま、もう一度ため息をついた。
ふぅ。
今度のそれは意図的なものだ。先のとは違う。
だがその違いが何になるというのだろう。
意図的であれ非意図的であれ、ため息が落ちた事実に違いはない。
そして、その理由も。
「馬鹿か、お前は?」
そう、呆れたように言ったファーランス。その言葉は何よりも正鵠を射ている。
馬鹿だ。本当に。
けれど、どうしようもないではないか。
すでに動いてしまったものは…もう、止まりはしないのだから。
その自覚があればこそ、ため息はますます深く切実なものになっていくのだけれど。
「どうしたもんかな…」
落とした言葉に意味などないことは自分が一番よく知っている。
どうしようもない。
わかりすぎている現状があるだけに、腹立たしさも苛立たしさもなく…ただ、虚脱感だけが己の中に降り積もってゆく。
そこから抜け出したくて溜まったものを吐き出すように、ただ息を吐く。ため息として。そしてそのため息に、またも気分が落ち込むのだ。
悪循環この上ない。
ふるる、と水面が揺れる。
水槽の中に奇妙な渦が現れたのはその刹那のこと。
透明の水をわずかに白く濁らせて渦は形を成す。それは人型───ただし、ナイグァスの手のひらほどの大きさの。
透明のぐにぐにした物質から次第に変化を遂げて、背に透明の羽を持つ有翼の存在は大きく伸びをした。
白い肢体に薄い水色の長い髪が巻きついている。人間の女ほどに際立ってはいないが、体の凹凸が確かに存在した。
「ナイグァス」
小さく透き通った声を、彼女は発する…それまでずっと閉じていた瞳が、そこで初めて開かれた。髪よりもさらに明るい水色の瞳。
それはまっすぐにナイグァスの顔を見上げ、凝視する。
実年齢よりも三つは下に見られることがほぼ日常となっている童顔の少年は、彼女を見返しつつ、少し困ったような顔を、した。
「シェルラ」
つぶやいたきり、その表情は変わらず、それ以上の言葉はない。
心底途方に暮れた顔の彼に、シェルラと呼ばれた有翼の小妖精は小さく肩をすくめて宙に舞い上がった。
ナイグァスの鼻先まで飛んでいき、腰に手を当てる。
「ま〜た悩み事なの?まったく、貴方ったらいつ来てもそうなのね。そうそう簡単にこちらには出て来れない身だというのに、来るたび来るたびそんな辛気臭い顔見せられたら報われないわよ。今度はなんなの?」
呆れを多々含んだ声に少々傷つく少年であったが、本当のことなので反論の余地はなかった。
ますます落ち込んだ風情で黙り込む少年に、シェルラは額に手を当てた。
「もしかしてわたしにどうにかできないこと?わかっているくせにわたしを呼び出したの?」
かすかに混ざる非難の色に、ナイグァスはゆるゆると首を振る。
肯定なのか否定なのか…それすらもわからぬ程度に。
あのねぇ、とシェルラはわざとらしくため息をついて見せた。
「わかっているとは思うけれど、わたしは結構忙しい身なのよ?それでも貴方の呼び出しとあらば断るわけにはいかないじゃない。なのにだんまりじゃあんまりってものじゃないの?いくつもの約束すっぽかして来てるのよ?」
結構厳しいもの言いのくせに責めている響きが極端に弱いのは、彼女の体が小さいゆえなのだろうか。
けれどナイグァスにその言葉は響くらしく、ますます縮こまりつつ、ぼそりと答えた。
「……話を、聞いて欲しかったんだ」
なんですって?とシェルラが眉をひそめる。
「そんなこと、わたしでなくたって…」
「他の人になんか話せないよ」
口調は弱く、瞳の力も弱いくせに、言葉にだけなにか力が宿っていて。
「……どうしたのよ?」
シェルラは声のトーンを落とし、尋ねた。
そんな彼女をぼんやり、という言葉が当てはまるほどに曖昧な瞳で見つめ、少年はつぶやく。
「……じきに、祭りが来てしまう」
答えにならない答えに、シェルラは黙って彼を見返した。
『ギリウラの祭り』。
ナイグァスが口にしたのは、七年に一度、冬が明けるのを祝って開かれる祭りのことだ。
ヤーヴァと呼ばれるこの地方の冬は、ひどく長い。氷に閉ざされる極寒の時期が、延々七年も続くのだ。イリリアがなければ、ここで人が生きていくことは不可能だろう。
イリリア。
それは、常人にはあらざる力、強大にすぎる力に支えられた、目に見えない壁。
その存在により、ヤーヴァの住人は寒さから守られている。
イリリアを作り維持するは、イル・ギリウラナ。
古い言葉で「ギリウラに愛されし者」という意味だ。
ギリウラはヤーヴァで一番愛されている神である。もとは豊穣の神なのだが、この地においては春をもたらす神として崇められるのが一般的だ。
それは遥か昔の神話に基づいているというが、今となってはそんな伝承を正確に覚えている者も少ない。先祖は自然と生を共にする民族であったから、文字の記録など残っているわけもない。すべて口頭伝承であった。
親から子へ、子から孫へ、口から口に伝えられていくうち、物語は薄れ、ただ信仰だけが生き残る。
なぜギリウラを愛するのかとヤーヴァの民に尋ねれば。
彼らはきっと言うだろう、
「春をもたらしてくれるから」
と。
なぜそう信じるのかと、問いを重ねてみるならば。
返る答えは一つだろう、
「だって春の神様だから」
と。
そこに根拠はなく、そこに証拠はなく、だからこそそこには矛盾もなく。
それがゆえに純粋な信仰が生き続けている。
そうして、その信仰があるゆえに、イル・ギリウラナが絶えることもない。
彼らは文字通り「特別な」存在だ。
見えない壁に覆われたその場所には、風も吹けば、雨も降る。時には嵐の起こることもある。だがそれでいて、温暖さが失われることはない。
一年中袖なしの上着一枚でいる者が少なくないほどに、その気候は暖かで、安定しているのだ。
畑に麦は萌え、果樹園にはその実をたわわに実らせる木々が生え。
朝焼けも夕焼けも緑豊かな大地に影を伸ばす。
初めてこの地を訪れるものが見たならば、きっとこう表現するはずだ。
「楽園」と。
氷に閉ざされた世界の、その奥で。
彩りも鮮やかな空間を、その身を賭して紡ぎだす者。それが、イル・ギリウラナである。
彼らは、人として生を受けながら、人としての生を歩まない者たちでもあった。その数は、決して多くない。千に一人か、万に一人……イル・ギリウラナの名にふさわしく、神の気まぐれとしか思えない確率で、彼らは生まれる。
その出自は多岐に渡っており、裕福な家の出であることも、あるいは貧しい農家の出であることもあった。血によって受け継がれるのでないことは、誰もが知る事実だった。
ヤーヴァの人口はおよそ二千人と少ない。それでもイル・ギリウラナが不在となることはなく、時代によっては複数のイル・ギリウラナが存在することもあった。
彼らは稀に見る長寿を誇る人種であり、平均寿命である五十の年を三倍近く生きるのが常なのだ。
現在イリリアの維持を務めるラクァスもすでに八十だが、まだ三十代で通るほどに若く見える。
ただ、不思議なことに。
いくら長寿を誇る彼らでも、外見がどれほどに若く見えようとも。
次代のイル・ギリウラナが誕生すると共に倍ほどもの速度で老化してゆく。
ゆえに、同じ時代に二人のイル・ギリウラナが存在することはあっても、それが長く続くことはなかった。
そうして彼らが同時にイリリアを形成することもまた、ない。
彼らの紡ぐものは、純粋であるがゆえに混ざり合うことはないのだ。
であるから、老いたイル・ギリウラナは己の限界を知ると、自らその座を降りて後任の者に託す。
それは、春を祝う『ギリウラの祭り』で行われるのがしきたりだった。
どれほどに老いようとも、祭りが来るまでは現役のイル・ギリウラナの力が衰えることはない。それもギリウラの恵みゆえのことだと、ヤーヴァの民は信じている。
そう、たとえば。
次代のイル・ギリウラナが同時に二人、現れたとしても。
それが、かつてなかったことであり、しかもその二人が血を分けた双子であったとしても、だ。
祭りにおいて現任のラクァスが引き継ぎを行わない限り、彼の力が衰えることはない。
「祭りがどうかしたの?ラクァスはまだまだ引退する気なんてないでしょ?」
だんまりを決め込んだまま口を開かないナイグァスにため息一つ。
いったいなにが気にかかるのかと、シェルラは首を傾げる。
イル・ギリウラナの平均寿命は百三十歳前後。ラクァスは今年八十になったばかり…まだ五十年もある。次代のイル・ギリウラナが見つかったがゆえに老化が早まることを計算に入れても、あと三十年は安泰だろう。
つまりはあと七回、イル・ギリウラナとして祭りを迎え執り行うであろうことが予想される。だとすれば、ナイグァスがここまで暗くなる理由なんてない、と思う、のだが…。
「ラクァスさまのことで悩んでんじゃないよ」
ぼそぼそと返すナイグァスに、シェルラはむ、と口を尖らせた。
「そんなことわかってるわよ。ラクァスが続投するんなら、貴方に不都合なんかないでしょって言ったの。今までと変わらず、やってゆけるじゃない」
「その日」が来るまでは、今までと変わらずに。
そうして、「その日」が来るのはまだまだ先のこと。大人になる時間も、心の整理がつく時間も、覚悟を決める時間も…たっぷり、ある。
だというのに。
「変わらずに?全然変わるよ!!変わっちゃうじゃないか!!」
突然大声を出したナイグァスが、どんと水槽に拳をぶつけた。大きく揺らめく水面に、シェルラは悲鳴を上げる。
「ナイグァス!!なにするのよ!!!」
悲鳴の途中でシェルラの輪郭はぐにゃりと歪み、ねじれるような弧を描いて水槽へと落ちた。その様子にナイグァスははっとする。
「シェルラ!!」
慌てて水槽にかじりつくも、目に映るのは揺れる水面ばかり。先ほどまで目と鼻の先にいた小妖精の姿はどこにも見いだせなかった。
幾度か呼びかけていたが、返るのはただ沈黙。
怒らせたかな…とナイグァスはさらにしょげる。落ち込む。
「…せっかく、出てきてくれたのに…」
本人が言っていたとおり、彼女が忙しいことをナイグァスは知っている。彼女の住む世界と自分の住む世界があまりにも違いすぎるため、こちらに来るのが非常な労力を要することや、実体化に困難が伴うことまでも、知っている。
今のような衝撃一つで、彼女の姿はこうも簡単に失われてしまうのだ。
制御し得なかった自分の行動が、シェルラにどれだけの負担を負わせたかを考えるだに、ナイグァスの気分はずんずんと沈んだ。
約束を後回しにしてまで来てくれたのに。
不安定な状態で自分の世界に逆流してしまっただろうから、相当に辛かったはずだ。こちらで実体化したために、すでに相当の体力を消耗していただろうに。
「ごめん…」
謝ったところで彼女が許してくれるかは怪しいところだし、そもそもこの声が届く保証はもないが、口に出さずにいられない。
こちらが一言言えば三言、三言ならば十言、言いたいように言ってくれる彼女だが、その眼差しと声の根底にあるものがあたたかくて、いつも甘えてしまう。甘えてばかりではいけないと、頭ではわかっているのだけれど……。
「……ほんっとにいつまでも浮上しないな、お前は」
呆れたような声が耳に飛び込んできたのは、そのときのこと。
「ファーランス……」
左は銀、右は紫───ヤーヴァの民としてのみならず、ひどく珍しい色合いの双眸が、途方に暮れる少年の姿を映し出していた。
「いつまでもうじうじぐじぐじと。引きずるのは悪い癖だぞ。見てて鬱陶しいったら」
彼の物言いは、シェルラのそれとはまた違った意味で言いたい放題だ。心底ぐさぐさ来る。
それでも苦笑が浮かぶのは、幼なじみの情のゆえか、それとも長年に渡って鍛え上げられた成果なのか。
自尊心の問題として後者であってほしくないな、とひそかに思うナイグァスである。そんな彼にファーランスは顔をしかめて続けた。
「笑ってる場合かよ。お前のことだからどうせこんなことだろうと思って、もう一度すっぱりはっきりさせに来た」
すっぱりはっきり?
意味もなく胸を張るファーランスにナイグァスは首を傾げる。
「なにを?」
そんな彼の鼻先に人差し指をびっ、と突きつけ、色違いの瞳の少年は高らかとも言える口調で宣言した。
「悪いことは言わない。エルアファンはやめておけ」
……………。
ナイグァスは一瞬沈黙した。ぱちり、とゆっくり瞬くこと一回。
「やめておけってなにさ?」
少し低い声で尋ね返す。
そんな彼の変化に気づいているのかいないのか、ファーランスは態度を変えることなく応じた。
「なにもかにも、やめておけったらやめておけ。あいつは駄目だ」
高飛車な物言いでそう決めつける。押し付けがましいその言葉に、ナイグァスは反発した。
「そんなの、ファーランスには関係ない!」
けれど。
「阿呆」
一刀両断するがごとくの、たった一言。
呆れたように左眼を細めた少年に、ナイグァスはぐっと言葉に詰まる。それでも、努力の末になんとか言葉を押し出した。
「阿呆でもいいよ。…それでも、好きなもんは好きなんだから」
そう告げた途端、ファーランスの尊大極まる態度がふしゅるとしぼんで、がくりと肩が落ちる。鼻先でびしっと伸びていた指もそれと共にだらりと垂れて。
その場に力なくしゃがみこみながら、ファーランスはぼそぼそと言った。
「なんでだよ…。絶対タチの悪い冗談にしか聞こえないんだけど、ソレ」
地面に「のの字」でも書きそうな雰囲気である。
これはこれで精神的にあまりよろしくないとナイグァスは思った。高飛車にすぎるのもむかつくが、それに慣れてしまっているのでこんな態度を取られるとどうしていいかわからない。
「冗談なら、よかったと思ったよ、僕だって。だけど…」
彼の小さな呟きを聞きながら、その幼なじみは地面を見つめたままである。
「なぁ、ナイグァス?エルアファンはお前になにをした?いったいなにをされたんだ?」
力無い問いかけに、けれどナイグァスは思わず笑ってしまった。
「なんだよ。なにがおかしい?」
むっとしたように口を尖らせてファーランスが顔を上げる。
「なにもないよ。エルはなにもしてない。僕が勝手に好きになっただけだよ」
エルアファンがなにか悪戯でもしかけたから…だから心が傾いた、とファーランスは思っているのだろう、とナイグァスは推測した。
それはかなり正確な推測だったし、もしも当事者でなければナイグァスだってそう思ったに違いない推理だった。
それはそういう過去を───この場合実績と言えばいいのか、前科と言うべきか…本人は恐らく前者だと言い張るだろう───エルアファンが築き上げてきたためである。それも至極「華麗」に。
邪気や屈託とは無縁の笑顔で、エルアファンは企て、楽しむ。
それは時に度を越え、許容範囲までも超えるが…それでも憎めないのが、エルアファンであった。
とはいえ。
だからといって、ではどうぞお好きにしてくださいと自らを差し出すにはその悪戯は強烈に過ぎ、で、あるからして。
もしもこの事態がエルアファンから提供されたものであるならば…自分がこんなに悶々とすることはないはずだった、とナイグァスは思う。
今自分を苛んでいる想いが、悪戯に起こされた偽の感情だと割り切ることができるから。
けれど、違う。
そうではないことを、ナイグァスは知っている。
ファーランスがどう言おうと、現在心の向いている方向が真実、自分の望むものであることを。
「……やっぱり馬鹿だよ、お前。よりによってイル・ギリウラナを好きになるなんてさ」
再び視線を落とし、ファーランスが言った。
「そうだね」
苦笑した。
他に、どうすればいいというのか。
エルアファンはイル・ギリウラナだ。この目の前の少年と同じく。彼らはいつか、ナイグァスの前から去っていく。それはすでに決められた未来。
願っても望んでも、留まることはない。そうして振り返ることもまた、しない。
「わかってるんだ。…わかってるんだけど…どうしようもないんだよ」
祭りは、もうすぐ。
シェルラが言ったようにイル・ギリウラナの代替わりまでにはまだしばしの時間があるだろう。けれど、だからといってそれは、別れを否定するものではない。
それどころか、かえって別れが近づくような……そんな嫌な予感がしている。
根拠はない。だが、心に巣くう不安は徐々に拡大しつつあり、それがナイグァスを落ち込ませるのだ。
ナイグァスは普通の人間だ。特別な力などない。未来を予知することも、予言を語ることもない。できない。
ただ、勘が鋭い。ひどく曖昧でつかみどころのないなにかが、背筋を駆け抜ける…そんなときは要注意であることを、彼は知っていた。
そうしてその警鐘が、祭りが近づくにつれどんどん大きくなる。
それが何を意味するのか、ナイグァスにはわからず…だからこそ苛立ちと不安は募り、冴えない顔になるのだ。
ファーランスがため息をつく。
想い人と同じ顔をした少年を見つめ、ナイグァスもため息をつく。
同じように情けない顔をしながら同じようにため息を吐き、けれどそれぞれに違うことに思い悩み。
それでも祭りの始まりは、否応なく近づいて、いた───。