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ヴェイルの守護者

二十四章

「リファス……」

呆然と落としたつぶやきに、青年は穏やかに応えた。はい、と。地に這ったまま、ディナティアは全身を大きく震わせる。

「怪我を、していますね。大丈夫ですか?」

これだけ周囲の注目を浴びていながら、彼はそのことを全く意に介さないようだった。その瞳はまっすぐに、ただまっすぐにディナティアだけを捉えている。優しい仕草で彼に助け起こされ、彼女は呻き声を上げた。

「痛いのですか?」

問いに、かぶりを振る。身体は痛い、確かに痛い。だが、思わず声を上げてしまったのは、痛みのせいではなかった。青年に、触れられたからだった。

彼が、怖い。その恐怖は彼の声がいくら穏やかでも、その表情がいくら優しくてもやわらぐことなく、ただただ押し寄せてくる。自分を飲み込もうとする恐怖の波に必死に抗いながら、ディナティアは青年を見上げた。少女に見つめられ、嬉しそうに彼が微笑む。

──怖い、怖い、怖い。けれども。

怯えきっていることを後ろめたく感じるほどに信頼しきった心を、彼は向けてくる。大切ななにかを見るような、そんな目をして、自分を見る。これは、いったいなんだろう。

心の九割を恐怖に占められながら、残る一割が彼を受け入れようとする。その不可解な感覚に、ディナティアは戸惑った。心も身体も震えている、怯えている。彼から去りたい、逃げたいと思っているのに、けれど視線を外すことができない。それが、恐怖のためではなく自身の意志によるものだと、理由もわからぬままに頭の片隅で理解していた。

縫いとめられたように動かない彼女の耳を、ぐじゃ、という音──否、声が打つ。ゆるやかな動作で青年がそちらへ顔を向けた。さながら呪縛が解けたかのように、詰めた息を吐き出したディナティアの視界に、オルフェの腕を放し、少女の身を放り出して後ずさりする一つ目の姿が映る。あの異形の者もまた、この青年にひどく怯えているようだった。

「あなたをこのように傷つけたのは、あの者たちですか?」

静かに青年が尋ねる。彼の言う、あの者たち、というのが一つ目とオルフェのことだと悟り、ディナティアは慌ててかぶりを振った。

「違う、オ……あの少年は、違う!」

彼の静かさの裏には得体の知れない何かが潜んでいるようにディナティアには感じられた。それは、決して好意的ではない、何か。圧倒的な強制力を持つ、何か。彼女の心に警鐘を鳴らす、何か、だ。

「では、あれがそうなのですね」

ごう、と音がした。あれ、というのが一つ目だと確認する間もなかった。ちり、と頬を熱いものがかすめた、と思った時にはもう、その姿は消えてしまっていたので。

──そう。オルフェが手強いと評し、実際苦戦して、劣勢に追い込まれてしまうほどの力を持った、一つ目は。ディナティアが瞬き一つする間もないほどあっという間に、消えてしまった。逃げたのではなく、消えた──消された。

炎に包まれた枯葉のように、あっけない出来事だった。何が起こったのか把握しきれず、ディナティアは呆然と目を見開く。

「な……に、を……」

したのか。聞くまでもなかったけれど、聞かずにはいられなくて。戻される青年の視線を感じて、また息が詰まる。見返せばまた呪縛を受ける気がして、顔を見ないまま這って後退した。傷ついた体が重く、それがもどかしい。

「あれはあなたを傷つけたのでしょう。そんな存在は、要りません」

さわり、と。青年の指がディナティアの頬に触れた。ひんやりと冷たい指先に彼女はびくりと肩を震わせる。

「──彼女に触れるな」

降ってきた声に驚いて顔を上げれば、オルフェがその刃の切っ先を青年に突きつけていた。険しい表情が少年の痛いほどの緊張を伝えてくる。恐らくは彼もまた、恐怖を感じているのだ……この、穏やかで物静かな、それでいて得体も知れなければ底も知れない、リファスと名乗った青年に。

かつてリファスと名乗った少年と、新たに現われたもう一人のリファス。これはなんだ、とディナティアは思う。

リファス、と呼んだ。そう確かに自分は呼んだ。けれどそれはオルフェを呼んだのだ、他の誰でもなく。断じて目の前にいる青年ではない。なのに。

「わたしに命令を与えられるのは、彼女だけです」

さも当然のことのように、彼は言うのである。突きつけられた刃が見えていないのかと思うほど、その表情に変化はない。

まるで歯牙にもかけぬ様子に呆れたのか諦めたのか、オルフェは刃を収めた。代わりにディナティアの傍らに膝をつき、その身体を引き寄せて支える。支える、というよりはむしろ、抱きしめる形に近かった。触れる青年の手から、引き剥がす。

小さく震える身体をオルフェに預け、ディナティアは戸惑って揺れる瞳を青年に向けた。

「なにを……言ってる……?」

問いはごくごく当然の、もの。

本当に、何を言っている? 彼のことなど知らない。まるで知らないのに。

けれど、彼は微笑む。そして答えるのだ。

「あなたがわたしを呼んだ。わたしを目覚めさせた。だから、わたしはあなたに従います」


何かの間違いではないのか、と思った。そもそも、目覚めた、というのはなんだろう。

次第に集まりだした人目を気にして─気にしたのはディナティアだけだったが─、彼らはとりあえず移動をした。関所から少し離れ、街道をそれて森の中へと。傷ついて動けないでいるディナティアを抱えて運んだのは、リファスと名乗る青年だった。無論オルフェとてそれを黙って許すわけはなかったのだが、彼もまた重傷であったのだ。

そうして。やわらかい下草の上、木の幹に寄りかかるように座るディナティアの髪に触れながら、青年は言う。

「あなたが、呼んだ。強く、強く。一度ならず、二度までも。だからわたしは目覚めたのです」

心当たりは、確かにあった。心をこめて、リファスと呼んだことが、確かに二度、ある。ザイシと、一つ目と。それぞれ対峙したときに。けれど、それは──。

「違うんだ……それは、その。あなたを呼んだわけではなくて。彼を、呼んだんだ」

だからそんなふうに言われても困る……オルフェを示しながらそう言ったディナティアに、けれど青年──リファスは首を振る。

「理由はどうあれ、あなたはわたしを呼び、わたしは応えた。それは変わりません」

断固とした口調で言われ、ディナティアは思わず目でオルフェに助けを求めた。

彼は一体、何を言っているんだ? 呼ぶとか、応えるとか、……従う、だなんて。

ディナティアと向き合う形で腰を降ろしているオルフェは、ちらりと青年に目をやり、小さく首を振る。その体からはぴりぴりとした緊張が伝わってきた。傷を受けたせいか、いつものような覇気はないが、緊張した面持ちは今もまだ戦闘を続けているかのようだ。

「名明かし……?」

答える代わりに少年が落とした呟きに、首を傾げる。ナアカシ?

「それはなんだ?」

問いかけ、ディナティアは口の中で呟いた。リファス、と。この名前に一体どんな意味があるというのだろう。

件の青年はただ、ディナティアの傍らで静かに彼女の髪を撫でている。彼への恐怖がなくなったわけではないが、ディナティアはされるがままになっていた。今のところ彼が自分へ危害を加える気配はなく、むしろ自分を守ろうとしているようでもあり、たとえそうでなかったところで彼から逃げるだけの体力が残っていなかったからだ。彼への不信感をあからさまにしているオルフェがおとなしく座っているのも、同じ理由からだった。

「名明かしとは、名を呼ぶことです」

ディナティアの問いに答えたのはオルフェではなく、リファス本人だった。髪を撫でる手は止めず、変わらず静かな口調で彼は言う。

彼の手が自分の髪を一滑りするごとに、心地よい何かが流れ込んでくることにディナティアは気が付いた。何か、がなんなのか、それはわからない。けれど、その何かが自分の傷を癒し、失われた力を補っていくのを確かに感じる。

「ずいぶんと長い間、眠っていました。誰もわたしを呼ばなかったから。けれどあなたが呼んだ。だからわたしは来たのです」

結局はそれなのか、とディナティアは思わず嘆息した。問いを変えても返る答えは同じだ。多少言葉が変わったところで、自分には理解できない。だが助けを求めても、オルフェはただ緊張の面持ちで黙り込むばかりだ。

脳裏には一瞬で消え去った一つ目の姿が鮮明に残っている。一つ間違えれば自分もオルフェも同じことになるかもしれない。問いを重ねて答えを引き出すには彼への恐怖が勝ちすぎていたけれど、怖いからといってなし崩しにしたところで、彼がそばにいる限り、その恐怖は減りようがないのだ。この状況をどのように打破すればいいのかわからないから、仕方なく次の問いを口にする。

「あなたの望みはなんだ?」

呼ぶ呼ばないの応酬はひとまず置いておくことにした。どうせ何を聞いても堂々巡りだろう。

「望み?」

リファスが手を止めた。首を傾げる……何かを、考えるように。

「わたしの望みは、あなたのそばに在ること。この姿で。──それはもう、わたしには小さすぎる器なので」

それ、と彼が指したのはディナティアが腰に帯びている剣だった。オフィルがくれた、彼が鍛えた、『守護の剣』。

「これに……!?」

ディナティアは思わず声を大きくした。ここに、いたというのか。彼が、リファスが、ここに?

信じられない気持ちで腰に視線を落とし、ついでオルフェを見た。同じく驚いた表情の少年は、けれど何か得心した様子でもあり、ディナティアはますます動揺する。

不思議な剣だ、と思っていた。ザイシに襲われ絶体絶命の危機に陥った時、白い光を放って自分を守ってくれた。先ほど、一つ目との時もそうだった。守護の剣、という言葉を口にしたのはオルフェだ。それはなんなのか聞こうと思いながら機会を逸し、不思議を行うオフィルが鍛えたという剣だから、そんな力があってもおかしくはないのかな、なんて呑気に考えていた、けれど。

「あなたに最初に呼ばれたとき、わたしはまだ完全に目覚めてはいませんでした。だから目覚めた部分だけをその剣に宿らせ、あなたの守護についたのです。そして完全な目覚めを待った」

確かに、この剣が最初にあの光を放ったのはリファスという名を呼んだ直後のことだった。野盗にさらわれた時、この剣をこの手に戻してくれたのは、この青年だった。そして。

二度目の呼びかけに、彼は姿を現した──。

「でも! ここに、この剣にいたというなら、さっきは? さっき、あなたは全然別のところから来たように見えた……!」

都市の外壁をたわませ、そして現われた彼。腰に帯びた剣に宿っていたというならば、なぜあんなところから現われたのか。そもそも、こうして実体を持つ存在である彼が剣に宿っていた、ということに納得できない。そんなことがあるものか……?

「あなたがわたしを呼ぶ少し前、わたしはそこからはじきだされてしまったのです。──彼の力が、強すぎて」

揶揄するような物言いで、リファスがオルフェを見た。むっとした様子で少年は彼を睨み返す。

「そのせいであなたを守りきれなかった。こんな怪我をあなたが負うことはなかったのに」

彼さえ邪魔をしなければ、と。揶揄の響きは次第に剣呑さを帯びる。

「待て! 彼は何もしてない!」

慌てたディナティアは思わずその体を睨みあう二人の間に割り込ませていた。咄嗟にしたことだったが、そうできた自分に驚く。指一本動かすことすら辛かった先程までが嘘のように、体が軽かった。そんな彼女をリファスは不思議そうな表情で見る。

「なぜあなたはその少年をかばうのです? あなたがその身に石のつぶてを受けたのは、確かに彼の力によるものだった」

その言葉に、ディナティアは思い出す。そうだ、あの時。一つ目と戦っていたオルフェが激昂したと見えた瞬間、白く灼かれた視界。そして守護の光を突き抜けて降ってきた、石のつぶて。吹き飛ばされ、身を起こした時にはすでに光は消えていた……。

あれがオルフェの力だったのか一つ目のそれだったのか、ディナティアは知らなかった。とはいえ、知ったところで関係ない。なぜならば。

「かばうも何もない。彼はわたしを傷つけようなんて思ってないし、傷つけてもいない」

言ったディナティアに、リファスはますます理解しがたい、という顔をする。

「ですが実際、あなたは怪我をしている」

「不可抗力だ」

言い切った瞬間、ぷっと後ろで吹き出す気配がした。振り返ればオルフェが肩を震わせて笑っている。

「なんで笑う!」

責められているのは彼だというのに、本人が笑っていていいのか。それに、笑われるようなことを言った覚えはないのだが。

「いや、だって。必死なんだもん、お姫様」

くすくすと、少年の肩が揺れる。笑うと傷が傷むのか、時折顔をしかめながら、それでも彼はそれをおさめようとしない。だからなぜ笑うのだと、ディナティアは憮然とした。

「そうとも、わたしは必死だ」

それの何がおかしい。言えば彼はさらに笑いの発作を激しくするだけで。

そんな彼とディナティアを、リファスは何か複雑な表情で見比べている。

「だけどねぇ、それじゃこの人は納得なんかしてくれないよ、きっと。俺が力を制御できなかったせいでお姫様を傷つけたのは事実だし、その剣に宿っていたこの人を吹き飛ばしたっていうのも、多分本当のことなんだろう」

ようやく発作を鎮めたかと思えばオルフェはそんなことを言った。きらり、とリファスの赤い瞳が妖しく輝くのにディナティアは思わず少年を睨みつける。

「お前……っ!」

人がなんのために必死になっていると……!

そんな彼女に、オルフェはへらりと笑って言うのだ。

「うん、だから。ごめんね?」

毒気を、抜かれた。ディナティアだけでなく、リファスさえもが。

「怪我をさせてごめん。守れなくてごめん。心配させて、ごめん……ね?」

胸を突かれる。飄々とした物言いに紛れ込んだ、真摯な想い。今オルフェを覆うのは、敵意にも似た痛いほどの緊張感ではなく、ディナティアを労わる心だ。

「…………っ!」

なんと言えばいいのかわからず、けれど何か言いたくて。かぁっと顔が熱くなる。泣きたいような怒りたいような、なんとも言えない気分だ。

ぱくぱくと口を開いたり閉じたりしながら言葉を探していると、ぽん、と頭の上にあたたかな重みを感じた。オルフェの手だった。傷が痛むだろうに顔をしかめながら、それでも笑ってよしよしと撫でてくれる。それはさきほどリファスがしてくれたような癒しを伴うものではなかったけれど、ディナティアの心に確かなぬくもりをくれた。

「本当に心配、したんだからな……」

こみ上げる気持ちは、言葉にすればなぜこんなにも薄っぺらいのだろうかと、ディナティアは悔しく思う。伝えたいことの半分も、うまく口にはできなくて。わかっている、とオルフェの紅い瞳が言うけれど。

「ほんっとうに……」

他に言葉を持たないから、ただ繰り返す。オルフェもまた、うんうんと頷きを繰り返す。そんなところへ。

「それは、この少年が好き、ということですか?」

リファスが問いを投げかけた。思わずきょとんとする、二人。

「あなたはこの少年に好意を抱いている、傷つける意志を持たない、と……そう、認識してよいのですか?」

半ば気圧されるように、ディナティアは頷いた。それほどにリファスの口調は強かった。

「言霊に誓って?」

「誓って。彼は、わたしの大切な人だ」

きゅ、と頭の上でオルフェが拳を握り締めるのがわかった。その手に絡んだ髪が少し痛いけれど、ディナティアは黙って我慢する。

「ならば、わたしも彼を敵とはみなしません。害さないと、約束します」

目を見開く少女を、リファスはやわらかな笑みで縛った。

「わたしは守り人(もりびと)。我が名はリファス。人の世に失われしこの名を紡いだあなたを守護する者」

朗々と青年は告げる。そうして。

「どうか、あなたのそばに」

銀の髪に覆われた頭を垂れて、彼は願ったのだった。

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